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 ――目を開けると、離れたところに立っているリトスが見えた。無事だったんだ、とほっとする。息を大きく吐いた拍子に全身に鈍い痛みが走って、ノアは呻いた。
 ゆっくりと起き上がる。石のような硬い地面の上にいるようだった。手のひらに細かい瓦礫と砂利が食い込む。意識を失う前に落下した記憶があったので、何気なく見上げて、絶句した。
「な……」
 ――機械の天井。
 頭上は、パイプと歯車で埋め尽くされている。とんでもなく深い。自分が小さな部品となって機械の中に紛れ込んでしまったかのようだ。見ただけでも、風を通す管、熱を逃がすための扇風装置、留めるねじだけでもどれだけの種類があるのか。パイプは複雑に入り組んで迷路のようでも、絡まった蔦のようでもある。
 自分が何かの機械の中に取り込まれてしまったような感覚を覚える。
(なんて大きな機構だろう……)
 折れたパイプなどぶら下がっている部品は落ちてきた衝撃のせいだろう。地面と一緒に落ちたようだがよく埋まらなかったものだと、遅れてぞっとした。
 辺りを見回し、自分のいるところが小空間であることを確認して、ノアはリトスを呼んだ。
 だが、その言葉は喉の奥で止まってしまった。
 何か、変だ。
 そう思った時、ぐぐ、と地響きがした。また崩れるのか、と慌てて膝をつく。振動は小さなものから大きなものへと変わり、次の瞬間、ノアはすさまじい音に襲われて耳を塞いだ。
 ――ごおおん、ごおおおん、ごおおおおおおん。
 破れ鐘のように響く〈音〉。それとともに動きだす周囲の歯車たち。どこかで回り始めた一つが、大きな力となってすべてを動かしていく。
 ノアの体内にまで響くそれらは、先ほど打撃を食らった身体には重すぎた。耐えたはずの吐き気がこみ上げ、思わず吐瀉する。
 苦しい息と霞む視界で、リトスを探す。
 この〈音〉の只中で、彼女はまるで世界から切り離されたみたいに、静謐に立っていた。
「リ、ト……」
 その時、彼女の周りからきりきりと螺子を巻くような音がして、華奢な身体が跳ね上がった。
(あっ!)
 リトスの足が突然伸びた草木のような様々な金属線に捕まっていた。針金めいた何か、細い配線、そんなものが絡みついた足に、電流のような細い光が幾筋も走る。血管が光っているようにも見えた。
 ぶち、ぶち、ぱちん、と、切断し、つなぎ直すような音がする。
「しってる」
 いん、と、彼女の声は、低い駆動音の中で、よく響いた。
「わたし、ここを、しっている……」
 その声に応えるかのように。
 ごん、と鈍い音がして、彼女の目の前にあった大きな壁が上へゆっくり持ち上がる。
 そうして現れたのは、ひとつの両開きの扉だった。
 歯車の凹凸やパイプの錆を見ていると、そのつるんと何もない扉はとても無機質な感じがした。得体が知れないといってもいい。以前工房に持ち込まれたあの箱に似ている。
 真ん中に小さな窪みがあり、目を凝らすと、どうやら鍵穴のようだった。
 ――りろ、ぎぎっ、ぎ、……りり、ぎっ、り、……り……。
 何かが引っかかっている不快な〈音〉がする。
(壊れてる)
 手を入れれば、きっと涼やかで美しい〈音〉が鳴り響き、ひとつの曲のように流れることだろう。
 リトスが、その軋みに導かれるように鍵穴に手を伸ばす。
 その瞬間ノアは叫んでいた。力を振り絞り、駆け出す。
 彼女が触れるとその鍵が開いてしまう――それは絶対に止めなければならない。
「リトスっ!!」
 揺さぶられたようにリトスが前後によろめいた。金属線は彼女を解放し、ばらばらに解けて散りになる。ノアが抱きとめると、リトスはまるで夢から覚めたみたいに、腕の中でゆっくりとこちらを見上げた。
「のあ」
 切り出されたばかりの鉱石そのものの無垢な声で呼びかけられ、ノアは微笑んだ。
 ああ、よかった。ちゃんと引き止められたみたいだ。
 そして、そのまま意識を闇の中へと引きずり込まれる。
「ノア!」
 ごつん、と響いたのは床にぶつけた自分の頭だ。ああ、今日は傷を作ってばかりだなあ……なんてことを思いながら、ノアは気を失った。


 子どもの笑い声がする。こんな饐えたにおいの充満する汚い路地裏に、心から喜んでいる声がする。なのにノアの全身は痛くてたまらなかった。食べ物をくすねようと、馬車の荷物に手を出したのを見つかって、持ち主にしこたま殴られたからだ。

 ――居場所がない。生きる場所が見つからない。どうやって生きていいのかがわからない。

 生きていていいのかどうかが、わからない。

 声は寂れた建物の中から聞こえていた。割れた窓の向こうに輪になっている子どもたちがいる。その中で最年長らしき黒髪の少女が持っている、パンが目に入った。
(どうやって奪(と)ればいいだろう)
 一番小さな子からひったくればいいか。それともあの黒髪の子に殴りかかればいいだろうか。考えを巡らせていると、その少女が振り返った。慌てて身を隠す。
 今すぐ飛びかかれば奪えるだろうか。それともこのまま逃げた方がいいか。考えている間に、呼びかけられた。
「君、どうしたの。こっちにおいで。お腹すいてない? 何か、食べる……?」
 優しい声。自分を招き入れる言葉。
 ――ここにいていいよ、と言ってくれた。
 崩れた屋根。腐敗物のにおいがして薄暗くてとても綺麗とは言えないその場所で、ルリアの声は、ノアがずっと聞いていたいと思った『人間』の声だった。


       *


 普段は人気のない廃工場地区はめずらしく騒がしかった。崩れた箇所に立ち入り禁止の証としてロープが張られた後、大工や商工会の面々やご意見番を自認する者たちが、今回初めて発見された機構を確認しに出入りしている。
「んで? 兄ちゃんたち、ここを調べたいってか?」
 それに答えたのはバートンだった。
「はい。この街に厄災戦争以前の何らかの機構があることは、以前から分かっていたことです。それが果たしてどういうものなのか、これまでの調査をもとに確認させていただきたいのです」
「遺物研究家ってことだが、俺たちゃ難しいことは分かんねえよ」
 というより理解する気がもとよりないのだろう。男は渡された名刺を睨みながら、頭を掻いている。だがバートンは粘り強く説得を続けた。
「機構の種類、どういう機能があるのか、危険がないかを確かめたいのです。立ち入らせていただけませんか?」
 返事は渋い。恐らく人の良さそうなこの眼鏡の男がよそ者であること、またこの街の嫌われ者だというヴォーノに雇われたことを、皆が知っているからだ。
 控えていたリエルトは黙ってそこから離れ、あちこちを見て回っている作業員たちの会話を聞くともなしに聞き拾った。
「とにかく子どもらにゃあ、近付くなってよっく言い聞かせとかんとな」
「誘拐騒ぎがあったところだもんなあ。いやあ、でも、ここが崩れてよかったよ。崩落があったおかげで警邏の動きが早かったもんな。誘拐犯を逮捕できてよかったよかった」
「ん? 崩落の前に煙が上がったんじゃなかったっけか?」
「そうだったかあ?」
 いささかのんびりとしたやり取りができるのは、崩落による事故がなかったのと、行方が分からなくなっていた姉妹が無事に戻ってきたからだ。たまたま同じようにさらわれた年長の少年少女たちが、なんとかして大人たちに助けを求めたのだという。おかげで逃げ遅れた誘拐犯たちは、やってきた警備隊によって逮捕された。
「いやあ、本当にすごい機構ですねえ」
 眼鏡を押さえつつバートンが隣に並んで、リエルトが見ている機構を見上げた。
「説得は終わったのか?」
「一度で説得できるとは思ってませんでしたから、地道にお願いしますよ。そういえば、聞きましたか? 誘拐騒ぎがあったこと」
「ああ」
「まだそういうことが起こるんですねえ……。聞けばすでに行方が分からなくなってしまった子もいるんでしょう? 無事見つかればいいんですが」
 心底案じているらしいこの男は、確か聖皇都の出身だった。ずいぶんいい家で育ったのだろう、人の良さがにじみ出ているが、残念なことに彼が思うほど、世界は優しくない。
「そこまで捜査はしないだろうな」
 え、と声を大きくしたバートンは、周囲をはばかって慌てて音量を落とした。
「……どういうことですか?」
「例え犯罪者が逃亡してたとしても、二度とこの街に戻ってきて悪さをしなければ咎められない。それが自治都市のやり方だ。宗教都市ほどここは法整備がされていないから、ことなかれ、で終わらせるだろうな」
「それは……」
 何か言いかけて黙ったのは、この男にも思うところがあったからのようだ。
「この街だけじゃない。自治をうたう都市はだいたいそうだ。法ではなく、人が寄り集まって裁く。そこに金や利益や時間の有無が絡む。自分のことで手一杯なのに他人の面倒なんて見ることはできない。面倒ごとはごめんだろうさ」
「……でも、市長を選ぶ予定なんでしょう? だったら少しはましになるのでは?」
 希望にすがるような言葉を、リエルトは聞き流した。取るに足りない人間の心を丁寧に折ってやるほど、自分は暇ではない。
 頭上に広がる無数の歯車を辿っていく。街にいた時、リエルトの耳は駆動音を拾っていたが、どうやら起動には至らなかったらしい。鍵となる者が立ち去ったため、今はしんと静まりかえっている。
「いったい、これは何の機構なんでしょうね……」
 気遣ったらしいバートンの言葉に、リエルトは笑みを吐いた。そして、心の内で呼びかけた。
(どうやらこの街にいるらしいな、なあ――七番目よ)

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