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 次の日の朝は、いつものように掃除から始まり、開店準備を行って親方を迎えた。
「おはようございます!」
 にっかり笑って挨拶したのに、親方はしばし動きを止めた。そして「おはよう」とだけ返してきた。
 いつも通り。何もかもいつものまま。
 昨日のことはなかったかのようにノアは振る舞い、親方に言いつけられて外出することになった。
 壁に囲まれた細い道を歩き、印刷工房へ向かう。中央広場のかあんかあんという組み立ての音がここまで聞こえていた。祭りはいよいよ間近。この周辺の工房も祭りのための印刷物を作成中らしく、機械の動く音が壁の向こうから響いてきている。
 工房の扉のガラス越しに中を覗き込み、ノアはエリックの姿を探した。けれど姿がない。扉を開き、声をかける。
「こんにちはー! 『ラクエン』のノアですー!」
 普通なら、ここで顔を出すのは一番下っ端のエリックなのだが、現れたのは親方のモースだった。
「おう、ノア坊。どうした」
「うちの親方のおつかいです。頼んでいた紙を受け取ってこいと言われました」
「ああ、そこにある。持って行きな」
 示された二つの包みの中を確認する。頼まれていたのは薄紙と油紙だ。仕掛け時計に使うためのもので、高級紙はなかなか入手しづらく、かなり前から発注しておかなければならないのだった。
「ありがとうございます、確かに受け取りました。忙しい時にすみません。あの、エリックは?」
「客と一緒に資料室にいる。どうもお客の方がエリックを気に入ったらしくてな、朝から入り浸りだ。だが、そろそろ手が足りん。ノア坊、様子を見に行って、エリックを呼び戻してくれないか」
「いいですけど……親方が行った方がいいんじゃないですか?」
「俺が行くと角が立つ」
 そっけないその言い方に妙な引っかかりを覚えつつ、他の職人たちの邪魔にならないようにしながら資料室に向かった。ここの工房の人たちは何を考えているか分からないような無表情の人が多く、なんというか、自分の世界を持っているという感じで、この工房の人間でない自分が動き回っていると気に障るのではないかとどきどきするのだ。
 足音を消して歩くノアは、ちらっと見られただけで、特に何も言われなかった。
 資料室の扉を開けようとして話し声が聞こえるのに気付く。エリックと、もう一人。
「……うなんだよ! うん、…………そうそう、君は物知りだね」
「でも…………から! ……と思って、それで…………!」
(……うん? 気のせいかな。エリック、なんだかいつもより声が大きい)
 興奮しているというか、元気というか。冷静な彼にしてはめずらしい。
 気になりつつ扉を叩く。「はい」というエリックの返事の後、扉を開けた。
「失礼します。エリック、いる?」
 エリックと、その隣にいる眼鏡の男が振り返る。二人とも顔には笑みがあり、エリックはノアの姿を認めると、どうしてか気まずそうに眼鏡を押し上げた。対して、お客という男は一瞬にして穏やかな微笑を貼り付けて、ノアを見る。
(あれ、この人……この前ここに来るまでの道ですれ違った人だ)
「ノア。どうしたんだ、何か用事か」
 ちょっとぶっきらぼうに言われる。ノアは目を瞬かせ、急いで首を振る。
「あ、えっと、おつかいを頼まれてきたんだ。エリックがいるならあいさつしとこうと思って」
 言いながら、男を気にするように視線を投げる。すると彼はにこにこしながらエリックに尋ねた。
「エリックくんの友達かい? こんにちは。クレス・バートンといいます」
(エリック『くん』!?)
 ノアは内心で絶叫した。思わずエリックの顔を見るが、彼は恥ずかしそうに目を背けたまま、こちらを見ようともしない。
 ノアが知っているエリックとは、冷静でちょっと皮肉っぽく、大人を信用せずに、常に周りから一歩引いた立ち位置にいる少年だ。明らかのこの街の人間でない大人に『エリックくん』なんて気安い呼び方を許すようなやつじゃない。
 呆然としていたあまり沈黙が続いていたことに気付き、ノアは慌ててぴょこんと頭を下げた。
「え、あ、えっとあの、ノアといいます!『ラクエン』という時計工房で見習いやってます。バートンさん、は、この街の人じゃないですよね? どうしてここに?」
 反応が遅れた、しかも不躾な質問をする、と続けて失礼な態度だったのだが、クレスはまったく機嫌を損ねた様子がなかった。
「この街の遺物や旧機構について調査に来たんだ。この工房に資料があるって聞いて、それを見せてもらいにきたら、エリックくんと仲良くなってね。彼、とっても頭のいい子だよねえ!」
「や、やめてください、バートンさん。俺は、自分が頭がいいとは思ってません」
 焦って早口に否定するエリックだが、クレスはにこにこしている。
「読み書きそろばんが完璧に身についてるじゃないか。そういう基本的なことは大事なんだよ。例えば、聖皇都に行けば侍従見習いになれるかもしれないし、宗教都市だったら聖職者に、学術都市なら学者への道が拓ける。この街で職人になってもいいかもしれないけれど、君はそのつもりはないんだよね?」
 クレスの言葉に、ノアは戸惑うばかりだった。
(エリックはこの街を出て行くつもりなのか!?)
 内心で叫んだ問いかけがまるで聞こえているみたいに、エリックは唇を結んで目を伏せた。それは、ノアの驚きと疑問を雄弁に肯定していた。
 ノアは立ち尽くすばかりだった。ずっと長く一緒にいたはずのエリックが、この街を出て行く道を考えているなんてまったく知らなかった。
 ぎこちない空気を察したのか、クレスが言った。
「ずいぶん長居してしまったみたいだ。そろそろお暇するよ。君の仕事の邪魔をしてしまって、ごめん」
「いえ、そんな! また明日もいらっしゃいますか」
 大声で言って、それを恥じるみたいに、けれど縋るような響きでエリックが問いかける。
「ごめん、明日は調査に行くんだ。ほら、先ごろ地下に機構が見つかっただろう? あれが〈賢人の宝〉と関わっている可能性がある。君に見せてもらった資料が役に立ちそうだよ」
「〈賢人の宝〉!?」
 ほくほくと嬉しそうなクレスはノアの叫びに一瞬驚いたものの、すぐにきらきらと目を輝かせて身を乗り出した。
「おっ、君も興味があるんだね、ノアくん! そう、〈賢人の宝〉だ。かつて世界を動かしたとされる、神秘と知識の結集。今は失われたとされる、世界を動かす鍵がこの街に眠っている可能性があるんだ!」
 あの地下機構のことを言っているのか。それとも。
 考えを巡らし、要注意と判断したノアだったが、しゃべり始めたクレスは止まらない。
「〈賢人の宝〉とされるものはいくつか存在する。火の雨を降らせたとされる〈ディレス・イレ〉と呼ばれる兵器。すべての鍵を開くという〈黎明の鍵〉。あらゆる機械を思いのままに操る〈クオリアリア〉という名の音楽。そして、世界を変える七体の機械人形〈ロストハーツ〉。そのどれもが記録はあるものの行方知れずとなっている。唯一はっきりと残っているのは〈ロストハーツ〉だ。どうやら〈ロストハーツ〉たちは、厄災戦争の直前に争奪戦が行われていたらしい」
「争奪戦……?」
 嫌な響きを感じた。無意識に顔を顰めていたのだろう、バートンは真顔になって頷く。
「七体の人形たちはそれぞれに特殊な能力を有していたらしい。厄災戦争の影もない時代には、その力を元にさまざまな都市の象徴として据えられていたようだね。例えば、学術都市ティーフヴァイスハイトには、〈ロストハーツ〉と思しき少年の存在が街のあちこちに書き残されている。彼はどんな暗号も解いて見せたとか」
「だが」とクレスは一呼吸置いた。心底残念そうに続ける。
「残念ながら、そうした足跡も人形たちの所在も、厄災戦争と同時に分からなくなった。僕はそれが人為的なものなんじゃないかという気がしているけれど」
「人為的? 誰かが消したということですか?」
 クレスは大きく頷いた。
「やっぱりそこが気になるよね。エリックくんと同じ反応だ。……うん、そのくらい、〈ロストハーツ〉の行方は戦争と同時にふっつりと途絶えてるんだ。記録もどうやら改竄された気配がある。だから聖皇都では〈ロストハーツ〉が世界を変えるんじゃなく、世界を壊す、なんてことも言われているね」
(世界を壊す? リトスが?)
 つばめを見て歌っていた、あの子が?
 ノアたちが沈黙したせいで、かなりの衝撃を与えてしまったと思ったのか、クレスは急いで手を振った。
「ああっ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ! そういう危険を除くための調査だから! 制御方法が分かれば、世界を壊すなんてなんてことは起こらないからね」
「……世界を壊すって、どういう……」
 恐る恐る尋ねたノアに、クレスは、息をついて眼鏡を押し上げた。
「さっき言ったように、〈賢人の宝〉は不可能と言われることを可能にするものだ。それを総称して学者たちはこう言っている。『〈賢人の宝〉はつまり〈兵器〉だ』、とね」
〈兵器〉という鋭い言葉に息が止まる。
「そう聞けば『世界を壊す』とはどういうことなのか、想像がつくんじゃないかな」
「――おぉい、ノア。いつまでくっちゃべってるんだ。アダムんとこに戻らなくていいのか」
 かなり話し込んで時間が経っていたらしい。ついにモースが資料庫まで呼びに来た。それを聞いて、クレスもそろそろ出ることにしたらしい。
「それじゃあ、また。エリックくん、ノアくん」
「あ、はい……」
「また、来てください」
 エリックの見送る言葉を聞いて、クレスは暖かく笑った。そこに含まれる期待や好意を知っているようだった。
 彼がいなくなると、資料庫は、しん、と静まり返った。
 エリックが、深く、長く息を吐いた。
 目が合うけれど、言葉はない。何を言おうか迷ったノアは、ひきつる顔でへらりと笑った。
「あ、あはは……し、知らなかったなあ、エリックが街を出て行こうと思ってるなんて! てっきりこの工房で職人になるんだと思ってた。はは、思い込みってよくないよなあ……」
 自分の声が虚しく響く。笑い声を発したものの、しりすぼみに消えた。
 しばらくの沈黙の後、エリックは大きく息を吐き、顔を上げた。そこには口を閉じるしかない強い意志が宿っていた。
「ずっと言う機会をうかがっていた。こんな形で説明するとは思っていなかったが。――ヴォーノのことが終わったら、俺は機工都市を出る」
 本人の口から言われると、先ほどよりも強烈な衝撃になった。全身が揺さぶられ、頭の中が真っ白になる。
「出るって……出て、どこに行くんだよ……ヴォーノのことが終わったらって……」
 問いかける声は掠れて頼りない。届かないのではないかと自分でも思うほどに。
「ヴォーノを追い払えば復讐は終わる。それが最後だとずっと考えていた」
 復讐が、終わる?
 その言葉は、ノアの内側で疑問として反響した。そんなわけがないという否定と、ぬぐいきれない大人たちへの疑いの気持ちが混ざり合い、『終わり』を見据えたエリックに、ふつふつと、感情が煮え始めた。
「行き先は聖皇都か学術都市か……まだ決めてない」
「決めてないって……何かしたいことがあるんじゃないの?」
「…………」
 答えが返らないことに、ノアはついに自身の笑みを剥ぎ落とした。
「どうして……やりたいことがあるわけじゃないんなら、どうしてこの街を出て行くなんて言うんだよ」
「だったら、どうしてずっとこの街にいなくちゃいけないんだ?」
「それは、」
 反論を遮ってエリックは言った。
「俺は、俺たちは、一生ルリアに義理立てしてこの街に縛られなくちゃならないのか?」
 がたた、と棚が揺れる音、中に入っていた紙類が落ちる音が響く。
 それらを踏みしめ、エリックの襟を掴んで棚に押し付けてノアは吠えた。
「エリック、お前――!!」
「彼女は死んだ! お前だって気付いてるだろう、俺たちの要は彼女だった! その彼女がいなくなったんだ、〈鎖〉は切れたんだよ! こんな――」
「お前ら何やってる!?」
 怒鳴り声を聞きつけてモースや職人たちが割って入る。引き離されながら凄まじい形相でエリックは叫んだ。
「こんな、女の子を見殺しにするやつらばかりのクソみたいな街に、価値なんてねえんだよ!!」
 大人たちは、一瞬、動きを止めた。
 その時ノアは拘束から逃れてエリックの頬に拳を叩き込んでいた。足蹴にしようとした時には、もう一度羽交い締めにされている。落ちた眼鏡を拾うこともせず口の中に溢れた血を乱暴に吐き捨てるエリックを睨む。
 どうしてか視界がにじむ。
(裏切られた。裏切られた、裏切られた――!!)
 仲間だと思っていた。ずっとこの街を守っていくために、街の一部になるために一緒に生きていくのだと信じていた。ヴォーノの好きにさせるわけにはいかない、そう言っていたエリックからその終わりを告げられるとは思ってもみなかった。
 ルリアに縛られている、そんな風にずっとエリックが感じていたなんて。
「だったらあの言葉はなんだったんだよ……この街を守るって、言ったのはお前だろ!?」
 エリックは怒りでこわばった顔のまま、ノアを見つめ返している。
「あれは嘘だったのかよ!? なあ!」
「嘘じゃない」
「だったら!」
「だが一生この街に縛られるつもりはない。ノア。この街にどんな意味があるんだ? 俺たちが一生を捧げてもいい場所か? 俺は、彼女を殺したあいつを許さない。あいつの破滅を見届けて、あいつからこの街を守る。それで、終わりだ」
「そこまでだ」
 怒鳴りあうのを聞いていたモースが、低く静かに言い放った。その眼光にノアは言いかけた口を閉ざし、エリックは目を背ける。
「お前ら、ちょっと頭を冷やせ。とりあえず、ノアは物を持って工房に帰れ。エリックは、今日はもういい、部屋へ帰れ。夜になったら時間をとって話そう。今後の身の振り方を決めているなら、こっちも色々決めておかなきゃならんことがある」
 工房は、その親方が裁量を振るう。親方が帰れと言えば帰らねばならないし、たとえその親方の弟子でなくとも、工房に立ち入った挙句に出て行けと命じられたならば出て行かなければならない。
 ノアは震える息をおさめることができないまま資料庫を出ると、荷物を持って印刷工房を飛び出した。
 荷物を持つ手ががたがたと揺れて止まらない。顔が冷たく、硬くなっているのが分かる。なのに殴られたところは熱くて痛かった。午後を過ぎた日差しが、目に強く差し込んで涙が出る。悲しくて、悔しくて、苦しかった。
 持ち物が大きな包みだったのをいいことに顔を隠す。前を横切る荷車や、通りを走り去る子どもたちの声を聞いて、鼻をすすった。
(顔、ちゃんとしなきゃ……リトスに見られたら、心配する)
 しばらく思い出さないよう、気持ちに蓋をして、ひたすらに『ラクエン』を目指す。だが、手足は重く、思考も鈍い。エリックの悲鳴のような叫びが頭の中をこだましている。
(クソみたいな街って、言った)
 エリックはルリアが死んでから、ずっとそう思っていたのだ。
「……ちくしょうっ」
 吐き捨てて、駆け出した。おつかいなのに時間を食ってしまった。親方に叱られてしまう。全速力で、肺が痛むまで、ノアは『ラクエン』に向けて全力で駆け戻った。
 親方に戻りが遅くなったことを詫び、今日の仕事を確認する。
 殴られた顔について、アダムは何も言わなかった。赤い目をして涙目になっているのを見て、下手に何か言うのは止めたのかもしれない。
 ノアは、捨てられた機械から部品を取る作業に取り掛かった。こうした部品は、時計に使うこともあれば他の工房に融通することもある。修理が可能な場合は動くように修理して、売買できるところに卸すときもあった。しかし今日はやたらとそうしたものが積み上がっている。
「親方、これ、どうしたんですか?」
「ああ……ヴォーノが寄越した。もう必要ないそうだ」
 お前に仕事をくれてやろう、恵んでやるんだ感謝しろ……なんてことを、見下すように言ったにちがいない。目に浮かぶようだ。あの男にとっては、ごみを押し付けられて万々歳、といったところだろう。
 だが、あの男にしては少々実用的な、古びた機械ものばかり持っていたようだ。たくさんのつまみがある金属の箱、先端がフォークのようになった紐、皿が二重になって針がついた謎の円盤、もちろん壊れてばねが飛び出ているが時計もある。
(金ぴか趣味のくせに、なんでこういうものを持ってるんだろう?)
「直せるものは直せ、だそうだ」
 なるほど、よく分かった。修理させたものを安く買い上げるつもりか。強欲なやつめ。
 だがアダムの方が上手だった。
「欲しいものがあるなら取っておけ。あの男にどれが修理可能なのか見極める目はない。ないと言われても、修理できなかったといえばいい」
 曲がったことが嫌いそうに見えて、やはりアダムのこの街の人間だった。機工都市の住人はしたたかなのだ。
 ノアは山盛りの仕事に取り掛かった。仕事があれば、しばらく余計なことを考えずに済む。
 ――………………………。
(うん、直せるところまで直してやるからな)
 壊れて、途切れ途切れに鳴る〈音〉に呼びかけながら、ノアは工具を手に取った。きっと夜に招集がかけられるだろうが、仕事を理由にして、行くつもりはなかった。

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