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 次の日も、ノアは解体作業に取り掛かっていた。ヴォーノから譲られたものはほとんど修理が難しく、部品を集めるくらいしかできそうになかったのだ。
(悔しいなあ。おれにもうちょっと腕があったら、直せたかもしれないのに)
 この工房に入ってできることは多くなってきたけれど、時計を一から設計したり、新しいものを開発したり、ということはまだできない。見よう見まねで近いことはできるが、とても職人と名乗れるようなものではなかった。
 店の扉を開ける音がして、ノアは工房から出た。
「いらっしゃい! ……って、シャルルか。何の用?」
「僕じゃ悪いみたいに言わないでよ。何の用って、分かってるでしょ」
 帽子のつばをあげて、しかめ面を見せる。ノアはため息をついた。
 昨夜の会合に、ノアは顔を出さなかった。そこでエリックが自分の今後のことを話すことが分かっていたからだ。そうなると今度こそ殴り合いになるかもしれない。そんなところをティナやリトスに見られたくなかった。
「時間ある?」
 特に忙しいわけではない。断ってもよかったけれど、昨夜のみんなの反応が聞きたかった。親方に小一時間ほど出る許可をもらって、シャルルと二人、街に出た。
「昨夜エリックから聞いた。ヴォーノのことが終わったら、この街を離れるって」
 こういう時、シャルルは言い淀んだりしない。あるがままをはっきり口にする。
「どう思った?」
「ティナもルースもびっくりしてた。僕はエリックらしいなって思ったよ。僕たちの中じゃ、最初にそうするのはエリックだと思ってたし」
 ノアは顔をしかめた。
「そういうんじゃなくて」
「そういうんじゃないっていうなら……ノアは、エリックのこと、裏切り者って思ってるわけ?」
 心を読んだかのようにずばりそのもののことを言われ、むっとした。
「シャルルはそうは思わなかったの」
「思わなかったわけではないけど、エリックの言うことは正しいとも思う。ノアがエリックのどの台詞に怒ったのかはだいたい分かるよ。ルリア姉に縛られてるっていうところでしょ」
 別の人間の口から聞いても怒りを感じる。怒鳴り散らさないようぐっと唇を結ぶノアの近くを、荷車が通り過ぎる。のんびりと車輪を回し、荷台につけた鈴がちりんちりんと鳴っていた。その音が遠くに去ると、シャルルは深々と息を吐いた。
「……僕はノアたちよりルリア姉の記憶が薄いからっていうのもあると思うんだけど、僕から見ても、みんなはルリア姉のことにこだわりすぎてると思う」
「シャルル!」
「怒鳴らないで。黙って聞いて。……ルリア姉のことが大好きで、大切だったのは分かるよ。その仇を討ちたいって気持ちがあるから、みんなで協力し合ってきたんだし。でもそれって、本当にルリア姉のためだって思う?」
 心臓がぎくりとこわばった。
「純粋に、ルリア姉のために仇を討って、ヴォーノの野郎に罪を認めさせるためだけに、動いてきたんだと思う?」
「どういう……」
 問いを繰り返したシャルルは、立ち止まり、ノアを見上げた。
 見透かすような青い瞳だった。
「僕たち〈黒鎖〉が一緒にいるための理由にしてないか、ってこと」
 一瞬息を詰めたのを見逃さなかったシャルルは、呆れた様子で肩をすくめた。ほらみろ、と言わんばかりだった。
「ちがう……ちがう! そんな理由になんてしてない!」
 必死になればなるほど言葉は空虚になる。気持ちが空回りして、焦りばかりが強くなっていく。シャルルはノアを一瞥し、それを聞き流した。
「ノアにはきっと分かんないよね。僕やエリックやティナが迷ってること」
「迷ってる? この街を守ろうって、言ったじゃないか!」
「そうじゃないよ。復讐したい気持ちはみんな一緒。でもその後どうするかって考えちゃうんだよ。僕たちはノアやルースとは違って、何もできないんだから」
 やれやれと、まるで大人のように言うので、勢いを削がれたノアはそれでも顔をしかめて尋ねた。
「何もできないってどういう意味で言ってるの」
「ノアには分かんないよね。ルースには多分分かるだろうけど。ノアは、どうしてルースと自分なのかっていうのも分かってないでしょ?」
 その通りなので、何も言えない。
「あのさ、二人だけなんだよ。ちゃんと技能持って仕事できてるの。ルースの作ったやつ、見た? あれの噂を聞いて商人が来たんだって。商人に預けて売ることにしたらしいよ」
「え……それ、すごいじゃないか!」
 リトスと一緒に工房を訪ねた時に見せてもらったルースの作品は、確かにびっくりするほど美しい一品だった。あれが他の街でも売られるのなら、評判を取ることだって夢ではないかもしれない。
「そうだよ、すごいんだよ。ルースはそんな風にして才能を持ってた。ノアだってそう。時計職人っていう、細かい作業を必要とする仕事の才能があった。でも、僕とエリックとティナには、何もなかった」
「何もないわけ」
「あるの。何もないわけあるんだよ。ティナはいいよ、女の子だから。子どものいないガルドさんの店を継ごうって決めてるみたいだしね。エリックと僕は次の身の振り方を考えなくちゃいけない。エリックも僕も、今の仕事をそのまま続ける意味はないって思ってたから」
 早口でノアの言葉を遮って、シャルルはゆっくりと、自分でも噛みしめるように言った。
「エリックなら、ちゃんと教育を受ければまた別の道が拓けるだろうし、工房の手伝いなんてしなくても、例えば商人の付き人になったり、事務仕事ができれば、賢さを生かすことができると思う。エリックは自分でそれに気付いたから行動しようとしてるんだ。次のことを考えて、ね」
 シャルルは空を見上げた。
 そこに何が見えるのだろう。ノアにはただ青いばかりだ。
「僕もそろそろ次をどうするか考えておかないといけない。働き盛りの歳になっても郵便を持って走り回ってるだけなんてもったないと思うからさ」
 シャルルの将来を、ノアはなんとなく想像してみた。
 人の懐に飛び込むのがうまくて、率直で、結構辛辣なシャルル。どんな相手でもどんな場所にだって飛び込んでいくから、もしかしたら商人に向いているかもしれない。郵便を配達している青年のシャルルもいいけれど、見知らぬ土地で、人を笑わせながら、こんなことがあったんだと面白おかしく話すシャルルの方が、なんだかかっこいいような気がした。
 そして、こちら見るシャルルは、そんな未来を想像させるとても大人びた表情をしちえた。
「あのさ、ノア。僕たちは、ルリア姉がいた時みたいにもうどこにもいけない子どもじゃないんだよ。生きていれば大人になるんだ。子どもの時のままじゃない……見えるものも、聞こえるものもちがうし、自分にできることも増えた。少なくともエリックはそれに気付いたってこと。――ねえ、あの時のまま、時間が止まってるのはだれだと思う?」
 問われたノアは、答えを告げることができなかった。
 ただ、冷たい恐れが漏れた。
「この街を……出ていくつもり?」
 シャルルは苦く笑った。
「そうするのが一番いいと思ったらね。……まあ、すぐにどうこうってことにはならないと思うよ。僕にとって一番大事なものが、ここにあるからね」
 そんなシャルルを初めて見るような気がして、ノアは立ち尽くしていた。一番年下で、でも一番行動的な少年は、いつの間にかかつての自分たちがルリアを失った歳になったのだと、改めて気付かされた。
 何もできない子どもじゃない。ノアたちも、少し歳をとった。
(将来……未来……? この次にどうするか……?)
 初めて与えられたように思えたその問いは、エリックやシャルルにはずっと投げかけられていたものだったらしい。考えたこともなかったノアは、ただ、呆然としていた。
 ヴォーノを追い出し、この街を守って、ずっとここで生きるのだと思っていた。
 でも、自分が何になりたいかは、考えてこなかった。

 ――ねえ、あの時のまま、時間が止まってるのはだれだと思う?

 さきほどのシャルルの言葉が反響している。「もう帰ろう」と肩を叩かれるまで、ノアはじっと立っていた。そして、立ち去る間際に〈動かない時計塔〉を見上げたのだった。


 工房に戻ると親方が「ノア」と呼び止めた。
「ルースが来たぞ。すぐに戻るから待っていろと言ったら、約束していたわけじゃないからと帰って行った。顔を見たかっただけだと言っていたが」
「ああ……」
 多分、昨夜現れなかったノアを心配して来てくれたのだろう。
「また今度会うと思いますから、その時にお礼を言っておきます」
 笑ったノアだったが、アダムが立ち去らずにじっと見下ろしてくるのに顎を引いて構えた。何か、言いたいことがあるらしい。
「どうしたんですか、親方」
「聖皇都へ修行に出ろ」
 アダムの言葉は率直で裏表がない。だから強くて、恐い。
 ノアは馬鹿みたいに口を開き、そして、噴き出した。
「何言ってんですか、親方。修行って」
「ここで俺が教えられるのは技術だけだ。お前は、それ以外のことも学んだ方がいい」
「修行に出すほどの何が俺にあるっていうんですか?」
 遮るように強く言って、ノアは笑みを吐き出し、顔を背けた。整頓された机の上に片付けるものもないのに、置いてある道具箱を別の場所に置いたり、何かないかと引き出しを開けたりする。
「ノア」
「おれは十分よくしてもらってます。それ以上望むことなんてないです」
「ノア。気付いているはずだ。自分が将来どうなりたいのか、考えられていないことに」
 顔は引きつり息は引き絞られて悲鳴のようだった。振り返ることができず、ノアは机の上で拳を握った。
 どうして、誰も彼も。
(未来なんて。将来なんて。この先どうしたいかなんて、分からないおれがおかしいっていうのか?)
「何も今すぐ将来を決めろと言っているわけじゃない。将来に備えて選択肢を増やせと言っている」
「必要ないです」
 短く言って、気付いた。
「親方。――出て行けって言うんなら、今すぐそうしますよ」
 ノアは微笑んだ。この人はおれが邪魔になったんだ。もう面倒だと何かの拍子に思ったんだ。優しいけれど不器用な人だから、追い出す理由を告げることができなくて、こんな遠回しなことを言ったにちがいない。
「邪魔だって、出て行けってはっきり言ってくれればいいのに。親方のそういう優しいとこ、心配だなあ」
「ノア」
 低い、獣のような唸り声は、相応の表情とともにノアに向けられた。
「俺は、出て行けとは一言も言っていない」
 自分がくだらない意地を張っていることを思い知らされて、ノアはぐっと歯を噛んだ。同時に、そんな優しいふりをしなくてもいいのに、とも、やはり思った。
(選べって言わないで、行けって命令すればいいのに。おれに選ばせるなんて遠回しなことしなくていいだろうに)
 黙り込んだノアに、言いすぎたと思ったのだろうか。アダムは大きく息を吐き、大きな掌で、ぽん、とノアの肩を叩いた。
「……少し、考えてみろ。このさき自分がどうなりたいか。何がしたいか」
 言って、親方は住居の方へ戻った。ノアを一人にしてくれたのだろう。工房には、かちこちと時計の音が響いていた。耳を塞いだ。店中の時計を壊して回りたいと思った。
「…………っ!」
 外に飛び出した。

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