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 通り過ぎる人たちの驚きの視線も振り払い、無茶苦茶に駆け回ってやってきたのは誰もいない廃工場地区だった。大きく息を吸い込み、ノアは叫んだ。意味のない言葉、怒り、感情に任せてただただ、大声をあげた。苦しくなって涙が滲んで、たまらなくなって胸をかきむしった。大きな音に驚いた野鳥が飛び去る気配がして、やがて、しん、と静まり返った。
 握りしめた拳が、震える。

「なんだよ……なんだよ、未来って! そんなきれいな言葉でごまかしてんじゃねえよ! 今まで誰も助けてくれなかったくせに、いまさら未来とか与えんなよ!」

 ――ルリア。
 君は踏みにじられてしまった。
 だれも助けてくれなかった。
 できることならおれは。おれたちは。君を幸せにしたかった。君に誇らしく思ってもらえるものになりたかった。
 誰かを守れる大人になりたかったのに。

「おれたちはなあ、おれはっ、期待して夢見て、それをぐっちゃぐちゃに踏みつぶされるのに飽き飽きしてんだよ! 未来なんてあってないようなものなんだよ! どうせ周りのやつらに壊されるものなんて、後生大事に持ってるだけ無駄だって、恵まれてるやつらにはわかんねえよ――!」

 冷たい石の地面に伏して、ノアは全身を震わせ、叫んだ。
 壊れてしまうだろう未来を手にして生きていられるほど、自分は強くない。それを守れるほどの力もない。その日その日を終えて、ああ今日も生きていられたと安心することしかできない、臆病な自分なのだ。学もない。才能もない。役に立つのかわからない妙な力だけがある。
 自分が何になれるかもわからないのに「何かになりたい」と言える人たちのことが、ノアは理解できない。
 みんな、それだけ自分のことを理解できているのだろうか。もし夢が叶わなかったら。壊れてしまったら。傷つくことが怖くないのか。幼い子どもでもないのに、何かになりたいと言えるのは、自信があるからなのか。本当にそれになれると信じているのだろうか。
 この世界には、そんな夢を取り上げて叩き壊す者たちで溢れているというのに。
 ――とぉ……ん……。
 そっと肩を叩くような〈音〉を聞いて、ノアはゆっくりと顔を上げた。雲が太陽を遮り、差していた光が消えていく。静寂は増して痛いほどだった。
 さくり、と砂利を踏む音がして人影が現れる。
 その人はうずくまるノアを目にして、不審な顔をした。
「どうした、坊主。……お前、あの時計屋の坊主か。こんなところで何してる」
 帽子の下から、紫水晶の瞳がノアを捉える。
 時計の修理にやってきた、金貨をくれたあの綺麗なお客だった。
 自分がひどい顔をしている自覚があるノアはとっさに顔を背けたものの、男は大股でこちらに近付いてくると、そばで片膝をつき、じろじろと眺め回し始めた。
「具合が悪そうだな。負ぶっていってやろうか」
「いえ……」
 それよりも早く向こうに行ってほしい。両手で自分を抱えているノアがじっと黙り込んでいると、男はふっと笑みを吐いた。
「とりあえず、顔を洗ってきな。頭も冷えるだろ」
 ハンカチを押し付けられたと思ったら、腕を掴まれて無理やり立たされる。どんと押されてよろめいたノアは、早く行けと顎をしゃくられて、ふらふらと井戸へ向かった。
 あまり使用されていない井戸から水をくみ上げる。滑車は錆びていたけれど、久しぶりに使われたことに喜んで、元気にしゃらしゃらと歌って回った。意外にも水は澄んでいて、思い切って顔を洗う。冷たい、と感じてしばらくしてから、きっとあの絶叫が聞こえていたにちがいないと思い当たることができた。
(みっともないことを聞かれてしまった……)
 戻ってくると、男はそこに座っていた。聞き覚えのある〈音〉が彼の手のひらから聞こえる。あの時の懐中時計をいじっているのだった。
 ぱちん、と蓋を閉める音に、ノアは我に返った。
「すっきりしたか?」
 紫の瞳が笑っている。
 思わず赤くなりながら頷いた。
「はい。あの……すみませんでした。これ、洗ってお返しします」
「別にいい。持っていけ」
 そう手を振られたので、一礼してポケットに入れた。ただの時計職人の弟子に、金貨を寄越す人だ。ハンカチ一枚取るに足りないと思っているのかもしれない。それとも、自分がそんなに弱々しく見えるのか。
 卑屈な気持ちで目を伏せていると、かすかに笑う気配がした。
 ――と……ぉ……ん…………。
(……ん?)
〈音〉がする。ゆっくりと、遠くから響くみたいな。さっきも聞こえたが、前にも聞いた〈音〉だ。彼の持っていた時計の〈音〉のはず。
「何か聞こえるのか?」
 ぎくりとして、ノアは急いで首を振った。
「いえ、何も」
 ――とぉ……んん…………。
(聞こえる……さっきより強くなった。もしかして時計の〈音〉じゃないのか?)
 まさかと思いながら発信源を確かめたいけれど、きょろきょろしていると不審がられてしまう。すると、男はくつりと笑った。
「なるほど。お前には、『世界の鼓動』を聞く力があるわけか」
 ――……ぉお…………ん……。
 いま、なんて言った?
 響く〈音〉に邪魔されて、何か大事なことを言われた気がしたのにうまく聞き取れなかった。ただ、相手の気配が変わったことはわかった。
 この人は、自分をいたぶろうとしている。
「……おれが、何ですか?」
「聞こえるんだろう、響く〈音〉が。この世の鼓動と、そこから汲み出されたものたちの声が」
 言って、男は自らの胸に手を置いた。
 ――とぉ……ん………ぉぉ……ん………。
 そこから聞こえるのは、〈音〉だった。ノアやリトスのほかは誰も聞くことはない、モノたちの声。それを胸に持つこの男が何なのか思い当たったノアは、愕然と目を見開いた。
「あんた……もしかして」
「ほう? その様子じゃ、お前は〈七番目〉の文言を見たんだな」
 しまった、と思ったのは、彼がリトスから聞いて想像した『きょうだい』からかけ離れた雰囲気を発していたからだった。リトスを危険から遠ざけるために隠れるように告げた兄たちとは思えない嘲弄を、彼は浮かべている。
 しかし、こちらがすでに彼らの存在を知って、リトスと関わりがあることは知られてしまった。隠しておく必要はないと、ノアは自らを落ち着かせるべくゆっくりとその名を口にした。
「〈ロストハーツ〉……」
 よくできました、とでも言いたげに、男は笑った。
「俺は〈四番目〉。名をリエルトという。〈七番目〉を探しに来た。坊主、〈七番目〉はどこにいる?」
 ノアが黙っていると、「まあいい」とリエルトはにやりとした。
「ここにあいつがいるのは分かっている。どうせこの街からは出られまい。機構の呼び声が聞こえているはずだからな」
「出られない……? どういうことだ」
 すると、リエルトは不審をあらわに眉をひそめた。
「お前、何も聞かされていないのか?」
 リトスの記憶がないことを、彼は知らないらしい。まだリトスに接触していないことを知って幾分かほっとする。だが時間の問題だろう。ノアの所在を調べれば、あっという間に仲間たちにたどり着いて、リトスの居場所も知られてしまうはずだ。
 警戒するノアだったが、リエルトの反応は思いがけないものだった。
 そうか、と呟いて、優しく目を細めたのだ。
「なら、お前は関係ない。もう〈七番目〉と関わるな。全部忘れろ、いいな」
「は? 関わるなって……」
「〈ロストハーツ〉が何なのかくらいは調べたんだろう? 俺たちは過去の遺産、引きずっているのも過去の出来事だ。俺はそれを終わらせるために〈ロストハーツ〉を探している。この時代の人間たちには関わりがない。忘れるんだ、坊主」
 同じ言葉を繰り返され、ノアはその強さに息を飲み込んだ。
 だが、忘れろ、と言われて浮かぶのは、柱時計に眠っていたリトス、靴を履いた彼女、自分の名前を告げた時、同じ〈音〉を聞いていると分かった時の姿といった、彼女との短いけれど温かい記憶だった。
 忘れろと言われても、できるわけがない。
「忘れられるわけがないだろう、とでも言いたそうだな」
 ノアの思いを読み取って、リエルトは微笑した。
「それなら、」
「やめて。リエルト」
 りいん、と響く声がした。
 白いかんばせに冷たいほどの静謐さを宿して、リトスが立っている。
 ――……りいぃ……ん……。
 ――とぉお………お………ん……。
 二つの〈音〉が響き合う。共鳴して重なっていく。まるで挨拶のようだ。お互いの〈音〉を歓迎している。
 けれどその表情は、一方は静かで、もう一方は嘲笑を浮かべている。
「久しぶりだな、〈七番目〉」
 リトスは悲しげに目を伏せた。その顔に目掛けて銃口が突きつけられる。
 息を飲んだノアはとっさに彼女を後ろに庇った。
 睨み合いが続く。
 だが、リエルトはすぐ銃を収めた。
「ふん……その坊主に感謝しろよ、〈七番目〉。人間は殺したくないからな」
「リエルト!」
 立ち去ろうとした彼をリトスが呼び止める。
「わたし、まだぜんぶ思い出せないの。でもひとつだけ……本当なの? あなたが……リエラを」
 言い淀んだリトスにリエルトは一笑を投げつける。
「お前は〈六番目〉にそっくりだな。だから分かるんじゃないか? その質問の答え」
 リトスはかすかに息を飲み、唇を結んだ。「そう……もう、リエラは……」とこぼし、強い眼差しで彼を見据えた。
「じゃあ、あなたはいったい何をしにきたの?」
「じきに分かる。それまでせいぜい楽しめよ、〈七番目〉」
 彼は、最後にちらりとノアに視線をくれた。呆れたような笑みをかすかに浮かべ、背中を向けて悠々と去っていった。
 かすかなため息が聞こえた。切ない目をしていたリトスが悲しく息を漏らし、ノアの視線に気付いて微笑みを浮かべた。
「ノア……だいじょうぶだった? 怪我はない?」
「大丈夫、だけど……リトス……今のって」
 リトスは目を伏せて、答えた。
「……ごめんなさい。さっきのことは忘れてほしい。知らない方がいいと思うから」
 かっと燃えるような苛立ちと疎外感。伸ばした手で彼女を掴み、低く、脅しつけるようにまくし立てていた。
「でも、あの人がきょうだいなんだよね? なのに銃を向けるなんて、リトス、何か危ない目に遭わされようとしてるんじゃない? だったらおれ、みんなにこのことを話すよ」
「それはだめ!」
 震える声でリトスは叫んだ。自分の声に怯えた様子で目を伏せてしまう。
「お願い……みんなには言わないで。これは、わたしの問題なの。わたしが自分で答えを出さなきゃいけないことだから……」
「だったら」
 ノアはリトスの腕を掴んだ。
「君のことを教えて。君はだれ? 〈ロストハーツ〉って、いったいなんなの?」
 リトスの口が、迷うそぶりで開かれては閉じる。瞳を揺らし、告げるべきかを考えていた。
 そして、彼女は語り出した。
〈ロストハーツ〉の由来。自分たちが何のために存在しているか。
 さだめられている、その結末を。

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