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「来ちゃだめ」
 まるで命令するような強さで、リトスが言った。すると、どうしてか本当に身動きができなくなってしまった。
 ぐるぐると、めまいがする。喉が渇いて声が出なかった。
「ありがとう、ノア。ノアが見つけてくれたから、わたしはここまでくることができた。ノアが見せてくれたもの、大事にしているものを、知ることができた。だから、わたし、自分の使命を果たしてもいいなって思ったの」
 にこりとリトスは笑った。
「わたしの知っている世界では、大事にしなくちゃならないものなんて、ほとんどなかった。大事なものがあったとしても、奪ったり、壊したり、けなしたりして、踏みにじられることばかりだった。世界の秘密を解き明かすことだって、自分たちがどれだけ強くなれるか、相手を負かすことができるかというためのもので、世界機構の声がきこえるわたしたちは、この世界がむちゃくちゃにされていくことが、ずっとつらかった」
 つらかった、というその言葉は、リトスがノアの前で初めて口にした苦しみだった。
「でも、目が覚めて、ノアや、ティナ、ルース、エリック、シャルルが、わたしにいろんなことを教えてくれた。ガルドさんやおかみさん、ご近所の人たち、通りすがりの街の人たち、みんなの表情が言っていた。『生きていてうれしい』『この街が好きだ』『この世界はたのしいね』って。ねえ、ノアもそう思っていたでしょう?」
 ノアの視界が、涙の膜で歪んでいく。
 気付いてくれた。知っていてくれた。
「わたしも、この街がだいすき。みんなのことがだいすき。みんなに楽しいって言って生きていてほしい」
 うん、と声の出ないノアは泣き顔で頷くことしかできない。
 この街が好きだ。大事な人たちがたくさんいる。その人たちが毎日幸せでいるように祈っている。
 そして自分は、この街を守っていきたいと思う。
「わたしは、できることをする。わたしにしかできないことがあるから」
 昇降機の床が、再び輝き始めた。どこかから現れた無数の金属線が伸びて、リトスの手足に絡みついていく。彼女を作りあげた複雑な機構をほどくかのように。
「リトス!」
 そこでようやくノアは動くことができた。彼女に絡む糸を払いのけようとするが、千切っても千切っても、新しいところから伸びてくる。傷がひとつでもあれば胸が痛むような白い肌をぐるぐるに縛っていく。
「リト、」
 金属線を払いながら、大丈夫かと言いかけて、それを見た。
 腕がない。いや、存在はしていた。ただそれは人間のそれではなく、無数のねじと歯車を組み合わせた機構だった。
「どうして……」
 分かっていたはずなのに。
 リトスの告白を聞いてからこうなるだろうと思っていたのに。
 それを目の当たりにして、たまらず、叫んでいた。
「どうして、リトスまでいなくなるんだよ! どうしてここにいてくれないんだよ!?」
「ノア……」
「いやだ、いやだ! リトス……こんなことしなくても、この街を出れば」
「〈ロストハーツ〉が帰らなければ、この世界は壊れて消えてしまう」
「もう壊れることが決まってるんだろ!? それに世界なんて、そんなにすぐ消えてなくならないよ!」
 リトスの微笑みに気付く。
 ノアにとって、世界はそう簡単にはなくならない。けれど、ずっと長生きしてきた彼女にとって、それはあっという間なのだ。もしかすると、ノアが想像している以上に世界の寿命は短いのかもしれない。
 泣きぬれて掠れた自分の声は、道を見失った小さな子どものもののよう。
「ひとりに、しないで……」
 力なくくずおれるところに、優しい声が降る。
「ノア。わたし、ノアが何におびえているのか知っている」
 きちちちち、と小鳥のさえずりのような〈音〉がリトスの足元から溢れてくる。朝目覚めた時、暖かい布団の中で聞く、楽しげで騒がしい鳴き声みたいだ。
「居場所がないと思っているよね」
 浮かんだのは。
 青ざめたルリアの死に顔と、呆然としていた自分。ぽっかりと胸に穴が開いたような感覚と、溢れる疑問。

 ――どうして、みんなに必要とされていたルリア姉が死ぬんだろう。
 ――おれが死んだほうがよかったんじゃないか?

 ――だっておれは、誰にも必要とされてないんだから……。

「ひとりになりたくないっておもっている」

 過去と思いを見透かした彼女を、ノアは呆然と見つめた。
「ひとりにならないよう、仲間を作って、自分が生きる場所を作ろうとして、この街に決めたんだよね」
 どうせ自分は、誰も見向きしない存在だ。どこかで死ぬとすれば自分だった。けれどルリアは違う。なのにそのルリアが死んでしまった。ルリアを守る、そのために大人になろう、そう思っていたのに。
 目的を失ったノアは、新しい理由を探した。仲間たちと集うための言い訳を。
 ヴォーノへの復讐。この街を守ること。この場所を守ることで、自分は生きていいのだと思えるから――。
「――――」
 がくりと膝をついたノアは、自らの醜さを恥じた。
 人の死を、自分の理由にした。大事なひとの無念を踏み台にして、自分の心を慰めるための道具にした。
 でも、ずっと気付いていた。シャルルが知っていたように、仲間たちも分かっていたはずだ。認めたくなかっただけだ。自分が生きていたいこと、居場所が欲しいと心の底から望んでいるのだということを、知られたくなかった。
 だって、大事なものは奪われる。踏みにじられる。壊される。リトスが言ったことは正しい。その時代はぜんぜん終わっていなくて、今も続いている。そこで生きようと思うなら、ひとを傷つけても痛まない心を持つか、大事なものなんて何もないという顔をして流れていくしかなかったのだ。
 だれだって望むように。
(おれだって)

 飢えることも凍えることも傷つくこともない、しあわせな未来がほしいんだ。

 ――リトスを包み込む〈音〉は、泉のごとく溢れている。
 その〈音〉に慰めを感じ取って、ノアは顔を上げた。
 リトスの手はもうないけれど、彼女の小さな手が自分の頬を包み込むのが、水晶の瞳を見て分かった。
「――それで、いいんだよ。生きていていいの。生きていることをゆるされているから、あなたはここにいる」
 その言葉が、じわじわと胸の中にしみて。
 止まっていた涙が、再びこみ上げる。

「あなたがいるここが居場所で、あなたの歩む道、あなたの目指すところがあなたの在処。だから、どこに行ってもいい。ここに決めたんなら、帰ってくればいいだけ」

 なんてことない、と、リトスは笑った。
「一度出て行ったとしても、だれも戻ってきたあなたを追い出したりしないよ」
 ――だいじょうぶだよ。それは、あなたのぶん。
 その顔が、なつかしい彼女と重なる。飢えていた自分に食べ物をくれた。ずっと欲しかったものを何気なく与えて、ひとときの安らぎをくれた。
 帰ってくる場所。安らぎの地。迎えてくれる人々。なつかしい記憶。
 ずっとそれが、欲しかった。
「ねえ、いつかの質問の答え、わかったから教えるね」
 質問と言われて、思い出す。
 ――会いたくなったら、どうすればいい?
 死んでしまった人に。もういなくなってしまった人に会いたいと思った時は。
「会いたくなったら、会いに来ればいいの。一緒に過ごした思い出があるところに、わたしたちのかけらが残ってる。それらが連なって世界が続くの」

 ――あたしが誰かに優しくすることで、この街が、世界が、優しくなると思うんだ。

 不思議だ。リトスの言葉が、ルリアの言ったことと重なる。
 街の様々なところに残ったかけらは、自分自信にもある。その幸福な記憶が、この世界を優しいものにして続けられるものにする。
「おれ、この街を守りたい」
 その思いは、真っ直ぐのまま、口にできた。
「この街で生きることで、自分が世界の一部になれた気がした。誰かに挨拶してもらえて、ありがとうって感謝されて、楽しいって笑いあえる、そういう場所が、おれは大事なんだ」
「わたしもこの街が大好き。みんなのいる、この場所を守りたい。ノアが大事にしたいものを守りたい」
 リトスを包む〈音〉が、大きくなっていく。
 それは波紋のようにこの場所からあらゆる機械の〈音〉と響き合っていく。頼りない〈音〉を支え、絶え絶えだった〈音〉は懸命に、沈黙していたものはこの時とばかりに高らかに、この街の壮大な歌になっていく。
 そして、リトスという少女を形作っていたものは、その〈音〉になって解けていくのだった。白い肌に無数の光の線が浮かび、水晶の瞳は磨き上げられた金色に輝く。そして、美しい黒髪は、先の方から散り散りになっていく。
「…………っ」
 それが、あんまりにもきれいで。切なくて。
 ちゃんと見届けなければならないのに、視界が歪んでよく見えない。
「世界は、いずれ壊れてしまうかもしれないけれど」
 夢を歌うような美しい〈音〉と声が囁きかける。
 そして最後に奏でられたものは――。

「あなたのせかいが、あともうひゃくねん、つづきますように――」

「リトスっ!!」
 ――〈音〉の爆発。
 頭を殴られたような衝撃、耳を潰され視界を塗られて、何もかも分からなくなった一瞬の後、ノアは目を開けた。
 残響は頭上にあった。時計塔の鐘のものだ。そして足元からは、時計塔の奏でる〈音〉がする。きりきり、りんりん、がらがら、くるくる、ぴかぴか……様々な音色が組み合わさって、ひとつの機構として稼働している〈音〉だった。
 そして、そこには誰もいなかった。夕暮れのにおいを含む街の風が、溜まった埃をさらさらと掃いていく。
 本当に何一つ残らなかった。服も、靴も。彼女のつけていた首飾りも。
 背後に鳥たちのはばたきを聞いて、ノアは振り返る。
 夜に少しずつ染まっていく空と、輝く星。炎の名残のような紅に、街がゆっくりと包み込まれていく。与えられた灯火が家々に輝き、祭りの火が明るくこの場所を包み込んでいる。
 リトス。君が守ってくれた街だ。
「君に何を返せる……? どうしたら君に、感謝を伝えることができる?」
 りん、と音がした。

 ――守って。

 かすかな〈音〉は、重なり、響き、言葉を紡ぐ。

 ――ノアの力で、守って。
 ――大事な人たちを。大事な場所を。

「――そして、生きて。幸せになって、わたしに会いに来てね」

「リトス……っ!」
 すぐ後ろでその声を聞いたのに、そこには、誰もいなかった。

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