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 通路を走り抜けて、ずっと見えていた明るくて少し広い場所に行き着く。リトスがそこに足を踏み入れた途端、円形の床が、ぶおん、と不思議な音を立てて、様々な線と点を描き、七色に輝き始めた。
「な、なに!?」
 床が揺れて、膝をつく。その地面が、ゆっくりと上にせり上がっていく。
 途端、リトスの足が崩れた。うずくまった彼女を支えに走る。
「リトス、大丈夫!?」
「へいき……痛覚を弱くしたから。ああ……ティナに謝らなくちゃ。服、汚しちゃった……」
 真っ白だったワンピースは赤く染まってしまっている。本当に悲しそうに呟くので、ノアはなんとか笑って励ました。
「ティナだったら許してくれるよ」
 リトスはかすかに笑い、はあ、と疲れた息をこぼした。
 不思議な乗り物めいた床は、上へと昇っていく。ここがどこかは分からないけれど、地上を目指しているのは間違いないだろう。
「――リエルトは、やっぱりリエラを手にかけてしまっていたんだね」
 ぽつりとリトスが言った。
「ごめんなさい、ノア。ちゃんと話しておくべきだった。……眠る前にリリエンタールがわたしに言ったの。『リエルトが壊れた』って」
「壊れた……?」
 汚れた肩に目をやってしまったのは失敗だった。リトスは恥ずかしがるように傷を隠し、うん、と頷いた。
「傷付いたとか、動けなくなったとかじゃなくて。……リエルトがリエラを破壊したって」
 リエラというのは、思い出話に出てきた優しい姉のようだったという少女だったはずだ。
「……うん、たしかに『破壊した』って言った。死んでしまったんだって、すぐにわかった。どうしてって聞き返したら、リリエンタールは『世界機構に刃向かったんだろう』って答えた。そのときはどういう意味なのかわからなかったけれど……」
 リトスは空を仰いだ。
 すると、頭上で扉らしきものが二つに割れ、出口が近付いてきた。
「ノア。〈音〉は、いまも聞こえる?」
「え? うん……地下のいたときの方が、なんというか、不協和音みたいな〈音〉は大きく聞こえてたけど」
「それが『世界機構』の〈音〉なんだよ」
 思わず自分の触れている、不可思議な昇降機を見つめる。そう言われて、この世界が大きな機構だと言われたことが、急に現実的になったような気がした。
 そして、ノアとは違い、リトスはその〈音〉が何を言っているのかが聞き取れる。
「〈音〉は、なんて言ってるの」
「『帰ってきなさい』、って」
 風が起こる。出口を抜けたのだ。だが昇降機はまだ上に進んでいた。
 明るくて、人の気配がする。どうやらここは塔のようなものの中らしい。壁沿いに螺旋階段がある。壁は漆喰で塗られており、土埃と湿った空気が篭っている。上へ昇っていると穴のような小さな窓から外が見えた。
 小さな人々。屋根を渡すように貼られた旗飾り。石畳の広場が見下ろせる。
 ――〈動かない時計塔〉。
 機工都市の中心部。象徴でもある塔を、地下から昇ってきたのだ。
「『帰ってきなさい』っていう言葉に背いて、リエルトは動いてる。だから、リリエンタールは『リエルトが壊れた』って言ったんだと思う。世界機構からつくられたわたしたちがその声に逆らうことは、ふつうならできないはず。なのに、リエルトはそれに逆らって、わたしたちが帰ることができないように『破壊した』」
 それは、殺した、ということ。
 ルースが持っていたのはリエルトの銃だったのだろう。彼はノアやリトスを始末する気でいた。何故ルースに武器を預けたのかまでは分からないけれど、彼は最初から、リトスを殺す気でノアに近付いてきたのだ。
「でも、だったらどうして一度おれたちを見逃したんだろう? それに、」
 ノアは思い出していた。あの時計。リエルトがいつも持ち歩いていた……。
「リエルトは時計を持ってた。リエラからリエルトへ、永遠にあなたのそばに、って蓋の内側に刻んである時計だよ。リトス、知ってる?」
 それを聞いたリトスはみるみる顔を歪めていった。何も言えないでいるその目が、次第に潤んでくる。
 驚くノアに、リトスは小さな声で答えた。
「それは、リエラの時計だよ。リエラだけの時計……リエルトに渡したんだ……そう、やっぱり……」
 片腕で涙を拭い、嗚咽を堪えて教えてくれる。
「リエラはリエルトのことを愛していた。きょうだいの誰よりもリエルトのことがいちばん心配だって言っていたし、リエルトもリエラをお人好しって言いながら大事にして……そんなふたりだから、戦争が始まって『世界機構』に帰らなくちゃ時に決めたんだと思う……」
 何を決めたのか。リエルトがリエラをその手にかけた、その意味。
「リエラは『世界機構』の声に逆らえなかった。でも帰りたくなかった。だからリエルトはその意志に従って、リエラを壊すことにした。リエラはそれを受け入れた。――リエルトは、そうなったことをずっと恨んでるんだ」
 いなくなってしまうのなら、自分の手で。
 そうして大事な存在を手にかけたのか。あの、綺麗で悲しそうな目をしたあの男は。
「〈音〉がそう言っていた。恨んでいた。世界よ壊れろって。リエルトは自分たちがこうなってしまったこの世界を許せない。きょうだいを壊すことで、世界に報いるつもりでいる」
〈音〉の意志までも聞くことができる彼女は、あの時ほとばしったリエルトの叫び声で、そこまでを聞き取ったらしかった。
 ノアの耳にも、最後の絶叫が焼き付いている。
 呪うようでいて、悲しい声だった。リトスのように〈音〉が何を言っているのかは聞き取れないけれど、彼の声から感情を読むことはできる。リエルトはなんだか助けを乞うているように思えた。迷子になった子どもが、誰か、と呼んでいるみたいだった。
「……そう、か」
 急に腑に落ちて、声が漏れた。
 ――〈ロストハーツ〉は世界を変える力を持つ。
〈世界機構〉の声が聞こえるかれらは、その呼び声に従って『帰らなければならない』。その声に逆らうことは難しい。
 だとしたら、リエラが殺されてしまったことで、〈ロストハーツ〉たちは、もうその使命を果たせない。そしてリエラを殺してしまったリエルトは――〈ロストハーツ〉としての自分と、リエラを愛した自分とに引き裂かれて、『壊れた』のだろう。
「リエルトには、世界に帰ることを望む自分と、世界が壊れることを望む自分がいるんだね」
 年若い弟子に金貨を投げて寄越す彼。逃げるきょうだいに向かって呪いを吐いた彼。どちらもリエルトだった。
 それは人間の持つ愛憎に他ならない。そんな気がした。
 そして、大事な人をこの手にかけさせた、その世界が壊れることを望んでいる彼が、誰かと呼びかける相手。ノアがルリアを呼ぶように、リエルトは。
「…………」
 この先、誰が、何が彼を救うのだろう。
 心がないと言われた彼(ロストハーツ)の、その心は誰が守ってあげるのだろう。
 世界が壊れたらおしまいか。そう、世界はもう壊れることが決まっているのだ。みんなの知らないところにその終焉がある。
「……〈ロストハーツ〉が壊されてしまったんなら、世界は壊れるってことか」
 実感なんて湧かない。遠い出来事のように感じる。
 それがいつになるかは分からないけれど、少なくとも今ではないのだ、きっと。しばらく猶予はある。
 壊れる世界のために、リトスが消える必要なもうないのだ。
「――世界が壊れるなら、もうリトスはその使命に縛られなくてもいいってことだよね? ここから出たら、ちゃんと怪我を治そう。その後のこと、みんなで考えようよ」
 そう考えて明るく言ったノアに、リトスは微笑んだ。
 その綺麗な笑顔を見たら、嫌な予感が付きまとい始めた。リトスの笑みは、『自分ではどうしようもない何か』の存在感を増すものにしか思えない。自分の言葉がから回って、泡よりもずっと脆いものでできているのを感じた。そう、その空虚さにノアはとっくに気付いているのだ。これは希望的観測でしかないと。
 それでも何か言ってほしくて身を乗り出した時、昇降機が揺れた。再び行き止まりだった天井が扉のように開き、ノアは目を見張った。
(すごい数の歯車だ!)
 巨大なもの、小さなもの、切替のための車、針、ねじ。そうしたものがぎっしり詰め込まれた場所だ。
 そこを抜けると、やっと停止した。
 やってきたのは、時計台の時計部分の上、屋根に当たるところらしい。展望台めいた場所になっていて、鳥たちの住処でもあるようだった。外からも装飾的な部分はよく見えていたが内部にも施されており、四隅を支える柱は流麗装飾。くすんだ色の、あまり大きくない二つの鐘が見えた。隅の方に、時計を動かすための巨大な歯車がいくつか頭を出しているのが見える。
(時計の機構が箱状になってるんだ。おれたちは、その箱の上に乗ってるって感じなんだ)
 細長い長方形の箱の上に、時計を動かすための部品が入っていて、その上に屋根が載っているのだ。そしてどうやらその機構は、屋根に取り付けられた小さな鐘を動かすものでもあるらしい。
 ふらふらと立ち上がったリトスが、床のふちの近くまで歩いていく。
「ノア! 遠くまでみえるよ!」
 まるで、記憶がまったくなかった頃のような無邪気な声だったので、ノアはちょっと笑い、リトスの立っているそこまで近付いていった。
「わ……」と声が漏れたのは、彼女の言うことが本当だったからだ。
 機工都市の赤い街並みと、いくつも枝分かれした通り。廃工場地区は、点々とした緑に覆われている。足元に広がる広場に集まっている人々は小さな人形のようで、まるで模型のような街だ。
 その小さな作り物のような街の向こうに、長くうねる道が見えた。他の都市につながっている街道。みんなが踏みしめてきたおかげで作られた路だった。
 そして、いつも地上から見上げていた空が手の届く近さにある。まるで空を飛んでいるみたいだった。夕日に染まった林檎のような色に、水晶のように透き通った黄色、澄んだ水で溶かしたみたいな水色。心地よく冷たい風が吹いて、身体の中が洗われていくようだった。
(ああ……やっぱり、おれ、この街が好きだ)
 この世界が、もっと広い場所につながっていたとしても。自分の可能性を広げて、外の世界に出て行けと言われても。はじまりはここで、終わるときもここがいい。青年の自分も、大人の自分も、年寄りの自分も、石畳の坂を歩き、広場で時計塔を見上げ、職人の工房の前を通り、厳しくも優しい人たちと笑っていたい。
 みんなと、一緒にいたい。この街の一部になりたい。
「本当だね……すごくきれいだね。おれ、初めて時計塔に登ったよ…………、リトス?」
 隣に立っていたと思った少女の姿がない。疑問に思って振り返ると、リトスはノアから離れ、塔の中央に戻っていた。

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