第12話

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 幼い頃から本を読んでいるとあっという間に時間が過ぎることを不思議に思ったものだった。楽しい時間は短く、そうではない時間、たとえばお説教や礼儀作法の授業はいつも長く、早く終わらないか、まだ終わらないかと考えていた。
 十三歳になった私はあのときに感じていた時間の流れの異なりを鮮やかに感じることはなくなっていたけれど、大なり小なりの波がある日々を送り、十四歳になった。
 四人部屋に移動した子どもは、何かと年下たちの子の面倒を見ることになる。たとえば勉強が苦手な子にわかりやすく説明したり、針仕事や調理の下処理作業を怠ける子に目を光らせたり。向こうから相談を受けることもあるし、悩み事を聞いたりもする。街に行ってみんなと仕事をするときも、指導役を担う修道女の目となり手足となって他の子たちをまとめるのだ。
 養護院では避けられがちのエスメと私にも、修道女たちは容赦なくその仕事を割り振った。特別扱いなどしないという自負を感じたが、私もエスメも、何を当たり前のことをと思った。そう考えるような年齢になったし、ころころと意見を変える修道女や、贔屓を作る修道女など人を見る目も養われたのだ。
 年少組をまとめなければならないとき、エスメは必然的に私と組まされた。そうなると持ち回りの回数の関係で、私が当番に入るときはエスメが相方だった。多分に平等を謳った嫌がらせだったと思う。二人で組んで問題を起こせばいいという微細な悪意があった。
 しかしその思惑は外れたようだ。エスメも私も、周囲の想像を超えて上手く子どもたちを統率していた。噂を聞いていた年少の子どもたちは最初こそちょっかいをかけてきたが、その日のうちにエスメに怪我をさせ、深夜に何らかの、多分ロス辺りの報復にあったらしく次からは彼女の顔色を伺いながら、他の子たちに乱暴な振る舞いをしないよう働きかけるなど態度を改めた。
 そのように派手な言動をする子はエスメに、その真逆で注目を浴びたくないと考える手下扱いされる性質の大人しい子たちは私に関心を寄せたらしい。
 関心、というのは言い過ぎかもしれない。助言を与えたり賢しらに年上ぶったりせず、自分の仕事をし、終わった後は読書を始め、時々目を上げて周りの様子を確認するだけの私を無害なものと判断したのだ。その結果わからないことがあればおずおずと話しかけてくるようになり、仕事以外でも困ったことがあれば私を呼び止めて相談ごとを持ちかけてくる子も現れた。エスメに比べて地味な私に堂々と「心配だ」と言って、世話係よろしくべったり張り付く子も現れた。
「ねえ、どうしてあなたは修道女や他の子と違って、ちゃんとしなさいって言わないの?」
 私の付き人を自称するアリサに尋ねられ、首を傾げた。かつてアリサと同じくらいの年齢の私は違和感なく「ちゃんとしなさい」という叱責を受け止めたけれど、いまでは何故その曖昧さがわからなかったのかと思う。その言葉は結局のところ、礼儀正しく従順で勤勉であれという教育の共通の認識に基づいた、私の思う通りにしていなさいという強制だ。
 だから私は、時と場合による、と答えた。少なくともいま、あなたたちは誰かを貶めたり傷付けたりしていない。間違っていること、正しいことの区別がつく。やらなければいけないこととやりたいことの違いがわかる。それで十分だ。私はそう思う。
「ふうん」と気のない返事があったので、私の回答はお気に召さなかったのだろう。でも何故かその日からアリサを含めて私の後を雛のようについて回る子が一人、二人と増えていったのは不思議でならない。
 そのようにして十四歳の一年が過ぎ、十五歳。進路を見定める一年が始まった。

 制服の裾は踝を隠す長さになり、伸ばした髪は必ず大人しい形に結う。厳しく目を光らせる修道女の存在もあって、常識がすっかり馴染み、エスメもまた、今日も黒髪を一つに結ぶ。
 白い後ろの首筋を隠すよう低いところで。アベルから贈られた黒いリボンはエスメの身支度を見越したように、一見地味だが落ち着いた大人の女性らしさを彼女に与えるものだった。もちろん黒だけでなく、赤や白、青など気分で色を変えられるように種類があるけれど、エスメはいつも黒を選ぶ。
 あの日から変わらずエスメの元にはアベルの贈り物が届く。
 本人は現れない。姿を見せるとエスメの心が揺らぐと考えて避けているらしい。
 代わりに、彼女の元には夜王アベルカインの噂が届く。
 食材の買い出しの付き添いを頼まれ、私とエスメは台所番のマリアとともに街に出る。外出となっても他の子のように浮わついたりしないのと、街の無頼者の誘惑を無視できることと、力仕事を厭わないという理由で、近頃は私たちがよく指名を受ける。
 のんびりと荷車を押して市場に向かう。街の組合に登録した生産者たちがそれぞれに売り出すので、種類も値段も異なり、できるだけ安くて美味しいものを探して大量の野菜などを買い込むのだ。養護院で暮らす全員の食事を賄うので量が多く、値引き交渉は必須だ。付き添いをするようになって、マリアが一生懸命にやりくりし、私たちにできるだけ果物や甘味を出してくれていることを知った。私たちが健康的に十五歳になったのは彼女のおかげと言っていい。
 市場には大勢の人とともにたくさんの噂が集う。聞こえる話は雑多過ぎてとてもじゃないけれどすべて拾うことはできない。それでも耳が拾ってしまう声は私が無意識に気にしていることにほかならない――夜王アベルカインの近況だ。
「夜王様のおかげで近頃はずいぶん平和になったよね。夜歩きしても悪魔だの魔物だのに襲われることはなくなったのはありがたいんだけど、そのせいでうちの旦那が毎日機嫌よく飲み歩くから困っちゃってさあ」
「夜王様ってとっても美しい方なんだって! しかも未婚!」
「いまでも思い出すよ、即位式のときのこと。新しい王様になった剣の君の隣に聖女様、その隣に夜王様がいて、なんて美しいお三方なんだろうって」
「いい加減にしなさい! あんまりしつこいと夜王様にお願いして悪い悪魔とおんなじように懲らしめてもらうからね!」
 日々の何気ない会話に、私の知らないアベルのことが語られていて、それは本当に彼のことなのだろうかと首を傾げてしまう。私はそれだけ会っていないし、エスメも多分そうだ。私が知らない人の話を聞いている気分になるのなら彼女の違和感はどれほどなのか。
 さらに歳を重ねて、無関心というよりは静寂をまとった無機質さで全身を磨いたようなエスメは、髪の長さも身長も、抜けるような肌の白さも、潔癖な美しさも、養護院の誰より飛び抜けている。そして心の中に抱えたものも誰一人として敵わない頑なさで、同じ部屋で暮らしていてもおいそれと触れられないのだった。
 それでも触れてみたいと好奇心を抱く輩は後を絶たない。恐れ知らずというか愚かというか。エスメに対する街の評判は二分されていて、街一番の美少女だともてはやす声があれば、大悪魔の養い子だから悪い力を使う魔女に違いないと忌避する人々がいる。
 あの貴族の若様はいまもまだ熱心に手紙を送ってきていたし、寄付を理由に養護院にやってきてエスメと接点を持とうと奮闘していた。しかしエスメは歯牙にもかけず、彼の世話を焼きたがる少女たちに毎度相手役を押し付けている。貴族男性は引く手数多だというし、家族もエスメに執着することをよく思っていないらしいと話していた子がいたから、そのうち諦めざるを得ない状況になりそうだ。
 それでも街を歩いていると圧倒的に彼女を異性として見る目が多いし、養護院の少年たちもエスメに目を惹かれるらしく、恐々と、けれど高嶺の花のように遠巻きにしていた。もしエスメが普通の少女なら人並みに恋愛をしただろうと思うくらいに。
 アベルは、本当にもったいないことをした。あれからエスメがどんなに綺麗になったか。一粒の種が見事な花を咲かせるように、あるいは握り潰せてしまいそうな雛が輝く翼を持つ飛鳥になったように、一枚ずつ薄布を剥いで変身を遂げていくところを見逃したのだから。
 私たちは一ヶ月分の食料を買い求め、荷車を押して養護院に戻った。荷物を下ろし、日持ちのする野菜を食料庫に収めると仕事は終わりだ。
「今日はお祝いだから、楽しみにしていてね」
 感謝の言葉とともにマリアが笑う。養護院から早々と巣立っていく子が現れたのでささやかながら祝宴が催される予定なのだ。
 その子は以前から長くパン屋の売り子を続けていたが、店の後継ぎに結婚を申し込まれ、彼の両親の許しも得たので院を出てパン屋の若女将になる予定だそうだ。
 家族と仕事を得た幸運を、みんなが羨ましがりながら祝福する、そのやり取りはきっと彼女が出て行くまで続く。正真正銘、養護院の子どもが心から羨望し、渇望しているのだとよくわかる。
 私たちはマリアから決められた報酬と、おまけだという熟れすぎた林檎を貰った。育ち盛りには食べるものはあってまったく困らないし、報酬は欲しかった本を買うための資金になる。私は書店の店主に聞いた新刊の値段を思いながら、決めている貯金額から差し引いた金額と照らし合わせ、甘い香りを漂わせる林檎に齧り付いた。
 私はそんな風にして養護院に出た後の生活費を貯めつつ、好きな本を買うことにしているけれど、エスメはお金を使っている気配がない。あれだけアベルの贈り物があれば何か欲しいとは思わないのかもしれない。
 それに、と思う。養護院を出て一人で暮らしていくのに、彼女の蓄えは十分な額になっているはずだった。
 林檎は、明日には腐ってしまいそうなほど甘く蜜をたたえている。エスメはそれを弄び、一口も口にすることなく机に置いてどこかへ去った。
 マリアの言った通り、その日の夕食には全員に蜂蜜入りのケーキが一切れずつ振る舞われた。嫁ぎ先のパン屋からも全員が口にできるだけのふかふかの白パンが祝いとして差し入れられ、小さい子たちは歓声を上げて喜んだ。
 この日ばかりは多少のおしゃべりが許され、祝福を受ける少女ははにかみながら近くの席の子たちの質問に答えている。出会ったときの印象は。相手はどんな人か、どこを好きになったのか。なんと呼ばれているのか。年頃の少女たちの興味はただただ恋愛に向けられている。規律の厳しい養護院では仕方のないことかもしれない。
 彼女たちと幼年の子たちを見比べて、私もかつては人の恋路より食い気だったな、と感慨深く思う。行動をともにしていたサリーたちの話題についていくのに苦労したものだ。いまは慣れたかというとそうでもないけれど。
「いままでの日々は、きっとこの人に出会うためにあったんだと思ったんだ」
 明るく朗らかで、売り子という仕事にぴったりな性格の彼女のはきはきとした声が、喜びと初々しい照れくささの響きをもって届く。
「一緒に働くうちに、この人とならどんな大変なことがあっても頑張ろうって思えるって。きっと後になって『あのときは本当に大変だったね』って笑い合える気がしたんだ」
 食後、修道女の声かけで全員に彼女に祝福を贈り、部屋に戻ると、エスメの林檎は甘い香りを残して消えていた。

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