第13話

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 その日を皮切りにぽつりぽつりと院を出ていく子が増えた。パン屋の彼女のように結婚が決まった子はいなかったけれど、数年前から頻繁に仕事に行っていた工房の弟子になる話を受けたとか、市場で軽食を売る店主が跡継ぎを求めているのでそこに行くとか。農作業を手伝ったときに面白いと思ったので雇ってくれないかと頼んだら了承が得られたとか。よく気がつき、性格がよくて行動的な子が続々と進路を決めて、院を去っていく。
 そうして一人、二人と減っていくと、焦る子たちも現れ始める。きっとあそこから声がかかるだろうと自尊心の高かった子、思わせ振りな態度で高い条件を望んでいた子、高望みしすぎて希望に添わないものに見向きもしなかった子も、必死になって募集や誘いを吟味し、活発に情報交換をした。そうして仲の良い者同士一緒になって同じ仕事を得るのもよくある話だ。
 比較的ぼんやりしている私も、ちゃんとしなければならないかと気持ちを改め、重い腰を上げた。そうしてもう一つの我が家のようだった書店に勤める口を得た。
 あんまりあっさりと決めてもらったので理由を聞いたら、「いつ言い出すのかと思っていた」と呆れたように言われ、どうも以前から雇うつもりでいてくれたらしく、ありがたい話だった。
 その、帰り道のことだ。
 数少ない外出、それも同行者のいない貴重な機会なので、少し散歩をしようと街を歩いた。数年前は誰もが控えていた夕方以降の外出も、いまでは当たり前になって、あちこちで食事どころや酒を出す店の明かりが灯っている。整備が行き届いていなかった建物の外壁は修理され、汚れた道は定期的に清掃されて、悪臭に顔をしかめることはなくなった。生きているのか死んでいるのかわからない人が暗がりに横たわっていることもないし、最近生まれた赤ん坊は悪魔や魔物に怯えて暮らした時代を知らずに大きくなるのだろう。
 こんなに変わるのか。変わってしまうのか。両親が死んで、私は悲しむ機会を失ったまま家族の顔を忘れつつある。一人で生きていくことになればますます薄れていく。けれど多分、そうやって思う回数が減り、思い出さなくなっていくことで私たちはこの先もなんとか生きていけるのだ。
「あれ、君は」
 立ち尽くす私に目を留めた誰かに話しかけられる。振り向くと、見覚えがある優しい眼差しの男性が懐かしそうに目を細めていた。
「久しぶりだね、僕のこと、覚えてる?」
 もちろん、と頷いた。剣の君と知り合いだという研究者、セスだ。彼が引っ越しを終えて住居を引き払ったので私たちの仕事も終了し、それきりになっていた。
 セスは買い物帰りらしく、大きな袋を抱えている。過去の記憶からきっと軽食だろうと見当をつけた。作業に没頭すると飲食を忘れるような人だから、料理のための食材を買う可能性は限りなく低い。
「元気だった? こんなところで何をしているんだい? 帰るところなら送っていくよ」
 その言い方があまりにも嬉しそうなのが不思議で、いつの間にか連れ立って歩いていた。
 セスはいま、王城の内にある図書室を管理する司書官として働いているらしい。幼馴染みの剣の君、いまは剣の王と呼ばれるアーサー様の推薦を受け、色々手段を講じたが断りきれなかった、と当時を思い出してがっくり肩を落とした。しかし専門分野は変わらず、市井では禁書扱いされている主に悪魔や魔物と歴史に関する書物の内容を吟味し、広く読まれるようにする仕事をしているという。この街には知人を訪ねてきたらしい。
 その人は王立図書館時代の上司だったが、前図書館長と対立し、辞職を選んだ人だそうだ。前図書館長は悪魔と繋がりがあったので逃亡したのは身を守るには最善の選択だっただろう。その人物は身を隠し、禁書を含めた悪魔に関する資料を密かに収集して反撃の機会を伺っていたものの、それが役に立つことはなく魔王の時代は終わった。
 しかし悪魔族と友好関係を築こうとしているいまでも収集された資料は非常に価値があるのではないかと考え、彼はその知己のもとに身を寄せ、書物に埋もれながら議論を交わしているらしい。
 知人だという人も彼と同じ、熱中すると自分のことも見えなくなる人物らしく、やっぱり食べることがおざなりになるので軽食を買っていたのだとわかって笑ってしまいそうになる。
 けれどそれだけ彼らにとって魅力的な仕事なのだろう、夢中で話す横顔が楽しそうだった。
「夜王や悪魔族と友好的な関係を続けて行くためには、僕たちは彼らのことをよく知る必要がある。彼らの存在が当たり前のものとして次の世代に受け入れられるためには、知識を伝え、広めていくことはとても大事なことだから」
 以前は疲れを帯びていた彼の瞳に、やりがいという光が生き生きと輝いている。
「悪魔族だからといってすべての悪魔が凶悪なわけがないんだよ。人間と同じさ、いいやつもいれば悪いやつもいる。でもどこかの時点で悪魔はすべて悪しきものであるという刷り込みが行われてしまった。王城図書室のぼろぼろの古書には、廃れた言語でいまでいう『御使い』って表記があるんだ。多分悪魔のことだろうって僕や研究者仲間は考えている。そうするとその書物が書かれた時代では悪魔は別の、もしかしたら聖なる存在だったかもしれなくて……って」
 彼はうわっと口を覆った。
「ご、ごめん! こんな話、楽しくないよね! 僕ばかり喋ってごめんね」
 そんなことはないと首を振る。本当に興味深かったのだ。
 私が好んで読むのは創作話が多かったけれど、史実を下敷きにした作品は好きだ。完全な作り物ではないから、もしかしたら歴史的な出来事の裏でこんなことがあったのかもしれないと想像する楽しさがある。
 セスの仕事はそれとは少し違って、作り物の話で塗りたくられた史実を掘り起こすものだ。そこにはきっと、想像していたものが的中する喜びと、予想だにしなかった真実が明らかになる興奮がある。
 私が気分を悪くしていないと知ると、彼はほっと胸を撫で下ろしていた。あれから数年経ったはずなのにこの人はまったく変わらず、まだ小娘の私を傷付けないよう細心の注意を払っている。ともすれば当人である私以上に。それほど繊細なものではないと自覚があるだけに、おかしくて、少しくすぐったい。
「ええと、君は最近どうしているんだい? 相変わらずあの子とは仲がいいのかな」
 私は進路を決める時期であることや、養護院の仲間が巣立っていく話をした。エスメがアベルとすれ違ったままでいることを聞くと、彼はううんと困ったように腕を組んだ。
「そうか……夜王アベルカインはいま、色々な派閥から結婚の話を持ち込まれているらしい。そしてそれを全部断っているって。彼らの種族と人間が結び付きを得るのに結婚は有効な手段なのに、それをしないのはあの子のためなんだろうと思っていたんだけどな。違ったのかな」
 結婚の話は初めて聞いたけれど、ああやっぱり、と納得した。アベルの立場ならそんな話が出てもおかしくない。
 エスメも恐らくそれを知っている、もしくは悟っているのだと思う。彼女が抱えているものが怒りなのか悲しみなのかはわからないけれど、おくびにも出さないところが本当にエスメらしくて、ついため息がこぼれた。
「それで、君の話は?」
 どういう意味だろう、と首を傾げれば、何故かセスの方も不思議そうな顔をした。
「さっきの君の周りの話だよね。君自身は、いま何をしているの? 進路は決まったのかな」
 そのときの、驚きは。
 これまで生きてきた中でどんなものよりも大きくて、私はエスメのことすらすっかり忘れてしまった。
 ん? と反応を窺われて、私はこれほど感情の起伏のなさを悔いたことも、よかったと安堵したこともない。
 豆の乗った受け皿をひっくり返したような内心を悟られないようにしながら、平常通りの態度で彼の質問に答える。特に代わり映えがないけれど、昔馴染みの書店に雇われることになりそうだと告げると「おめでとう」と祝福の言葉をもらった。
「それはよかった! きっといい本屋さんになれるよ。以前僕のところに手伝いに来てくれたとき、すごく本が好きなことが伝わってきたから」
 安心し嬉しそうではあったけれど何故だろう、ちょっと戸惑っているようでもあった。しかしその理由を聞かせてもらえないまま、養護院が見える道にたどり着いてしまう。
 わざわざ送ってもらったお礼を言い、健康に気を付けてこれからも頑張ってほしいと別れの挨拶をする。定型句だけれど、ちゃんと本心だった。セスとはきっとこれが最後だろうから。
 たまたまこの街に用があって偶然再会しただけで、多分もう会うことはない。だから声をかけてもらえて、ちゃんと覚えてもらっていたのは嬉しかった。研究のために心身ともに健やかでいてほしい。私にはそう祈ることしかできない。
 頭を下げて養護院の門をくぐろうとしたときだった。
「ちょっと待って!」
 急ぎ足でこちらにやってきたセスは、買ったものをぎゅっと抱え、覚悟を決めたように私を見た。
「ごめん、言おうかどうしようか迷ったんだけど、やっぱり言っておきたい。君、うちで働く気はない?」
 うち――王城図書室、と彼は言った。
「いま、この国は少しずつ変わってきている。変えようとしているんだ。その中で後進を育てることに関して色々意見が出ていて……いままで王城に勤める人間は貴族ばかりだった。それを、能力があるなら貴賎は問わないようにしたい、と国王は考えている。それから性別。女性の登用を増やしたいんだ、女官や侍女じゃなくてね。それを聞いたとき僕は君のことを思い出したよ」
 加えて、弟子のリアンもそうだったらしい、と聞く。あのしっかり者の、教師のようなリアンも私を覚えていてくれたようだ。
「君はきっと器用な性格じゃないし、やらなきゃいけないこととやりたいことがあったら義務や仕事を優先してしまう人なんじゃないだろうか。僕はそうなんだ。困ったことにやることがあると案外嬉しかったりもしてね。……もし君がそういう人なら、忙しくて大変な職場でも働くことや学ぶことを億劫がらずに続けていけると思う。これからの世代のために性別や身分がいままでと違うのは確かに重要なんだけれど、僕は、そういう人と一緒に働けたらいいなって」
 考えてみてほしい、とセスは言った。返事はいつでもいい、書店での仕事を決めたなら断るのも難しいだろうから。書店でしばらく働いてからこちらに来てもらってもいい。この誘いを、頭の片隅にでも置いておいてくれたら。
 最後まで気遣う彼は、私が門をくぐり、建物に入るまで見送っていた。玄関の扉を開けるときに振り返ってもそこにいたから間違いない。

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