第14話

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 自分に何が起きたかわからなかった。私を気にかけた誰かにこちらへ来ないかと誘われるなんて、本当に起こるものなのかと妙な居心地の悪さを覚える。なんだか間違っているような、騙されているみたいな、納得しかねる感覚。
 気付けば、私は進路が決まったことを修道女に報告することも忘れ、自室の机の前でぼうっと宙を見ていた。
 どうして私なのかという問いの答えとなるセスの言葉を反芻する。誉めているようでいて誉めきれていないところに真実味があった。けれどそんな風に言われるほど私の在り方は良いものではない。何をするにしても器用で行動的で目的意識を持っている人の方が好まれるのがこの世の決まりごとみたいなものだ。それとは真逆の私と一緒に働きたいなんて言うあの人はとんでもない変わり者だ。
「っまあ、驚いた! 帰っていたの? 返事がないから開けてしまったじゃない」
 大きな箱を抱えた修道女が、跳ねた心臓を押さえて文句を言った。
 ぼんやりしていて叩扉の音を聞き逃したようだ。彼女は「エスメはいないのね」と部屋を見回し、私に箱を押し付けた。
「はいこれ。仕立て屋からよ。エスメに渡しておいてね」
 個人宛の手紙や荷物は原則本人に直接渡すものだが、この修道女のようにその辺りの感覚が鈍い人は時々いる。それがエスメ宛なら長時間手元に置きたくないと考える人もいるので、私が在室しているときは預けていくのだ。
 見た目の大きさよりも軽い箱を、部屋の奥の彼女の机に置く。
 そうしばらくもしないうちにエスメが戻ってきて、荷物に気付いた。
 セスの誘いが頭から離れないせいでせっかく借りた図書室の新しい本を一頁も読めずにいたところへ、がさごそと荷物を確認する音を聞き、潔く本を閉じてエスメの方を見た。
 ひらりと長い影が床に落ちる。
 エスメが手にしているのは真新しい衣服だった。目を引く装飾は一つもない、紺色の、大人の女性が着る丈の長い普段着。襟は詰まっていて、袖は折り返して布と同じ色の釦で留めてあり、裾は膨らまない形だ。着飾るのが好きな子たちから見れば、古臭いとか年寄り地味ていると陰口を叩かれそうだけれど、その服を一目見た途端、私はそれを身にまとったエスメが颯爽と街を歩く姿を目にした気がした。
「……うん、注文通りだね。思ったよりも早かったな」
 丈の長さ、縫い目、糸の処理など品質は納得いくものだったようだ。するとエスメは机の下から別の箱を持ってきて、中に収められていた新品の革靴を新しい服に合わせ、よろしいと告げる教師のように頷いた。
「ねえ」
 くるり、と振り向くエスメの結わえた黒髪が翻る。
「進路、決まったの?」
 突然の話題に、私は瞬きをする。
 そしてどのように言ったものか答えあぐねて、眉間に皺を寄せてしまった。すると鏡写しのようにエスメも顔をしかめる。
「何。もしかして阿呆どもに邪魔されてるとか?」
 阿呆どもという名称が指すのは、長きにわたってエスメや私に細々とした嫌がらせを仕掛けてくる少女たちや気まぐれに悪戯を仕掛ける少年たちのことだ。
 もしそうだったらどんなに楽だったかと小さく息をこぼすと、さらに不審そうに顔を歪めたエスメがつかつかとやってきて私の背後、使用していない空き机の椅子を引っ張り出し、こちらを向いて腰を下ろした。
「じゃあ一体どうしたっていうの。全然らしくない。何があったか話してよ」
 今日はいつもと違うことが色々と重なる一日だ。
 そんな私も、普段なら絶対にやらないようなこと――エスメに、自分にいま何が起こっていてどうしようかと思っていることを打ち明けた。すなわち悩み相談。これほど私たちの日々に似合わないものもない。
 なにぶん初めての相談だったので上手く説明できなかったけれど、エスメは一度も口を挟まず最後まで聞いて「ふうん」と何故か感心したらしかった。
「いつも超然としているからそつなく院を出るんだと思ってたけど、なかなか面白い展開だな。しかもあの研究者のセスか。まあ悪い人間じゃないね。引っ叩いた私をあっさり許したくらいだから」
 色々と気になる言葉を聞いたが、身を乗り出したエスメの問いに頭がいっぱいになる。
「それで、どうする? いや『どうしたいのか』って聞く方がいいか。悩むんだから、誘いを受けてもいいかもしれないと思っているんでしょう。でもすぐそれを選べないのは何故?」
 何故。何故。何故――私は私に問いかける。何故、話を受けることを躊躇っているのか。
 書店の店主への義理? それもある。人の手を行き交ったせいで汚れた貨幣を握りしめ、本を求めにやってきた私を、彼は一度も跳ね除けず、見守り、本の取り置きや栞のおまけをくれるなどして目をかけてくれた。けれどそれは言葉を尽くして謝罪し、誠意を伝えれば許してもらえる気がする。偏屈に見えてちゃんと話を聞いてくれる人だから、私の努力次第だ。
 それなら何故? 躊躇う理由は、恐れ? 戸惑い? 不安? 嫌悪?
 自分のことなのにわからない。掴んだと思ったら確かな理由に固まらないまま手をすり抜けていく。まるで自分の存在も揺らぐようで混乱する。
「理由がわからない?」
 尋ねる声は思いがけず優しくて、私は縋るように頷いた。
「なら、それが理由だ」
 驚き、目を見開く私に、エスメが苦笑する。
「どうしてかそうしたいと思う。でもそうするのを躊躇ってしまう。『何故』の答えを全員が持てるわけじゃないんだよ。ただ私たちには六つ目の感覚が宿る心って場所がある。その心が、感じ取る。この人は自分にとってとても大事な存在だ、この選択は何をおいても選ばなくてはならないものだ、命を投げ打っても守らなくちゃならないものなんだ。その先に何があるかなんてわからない。それでも行けと、心が、私が叫ぶんだ」
 普段二言三言で済ませる彼女の、それは信条だった。魂の根幹、彼女の美しさの理由だった。
「そして同時に理性が引き止める。よく考えろ、それは本当に自分にとって正しいか、傷つくことはないか、不幸にならないか。その二つの声に引き裂かれて、足踏みをする。それがいまあなたが足を止めている理由だ」
 エスメは立ち上がり、私の目の前に立ったかと思うと、長い指先でとんと私の胸の中心を突いた。
「どちらの声に従うか、決めるのは自分自身だ。大丈夫、どちらを選んでも間違っちゃいないから」
 励まされたのだ、と気付いたのは彼女が身を翻した後だった。
 自分の場所に戻って衣服を片付けるエスメの「ねえ」という声が聞こえた。
「私、近々ここを出るから。同室の義理で一応伝えておく。もしアベルが来たら手遅れだったって言っておいて」
 がたんと椅子を鳴らして立ち上がった私を、顔を覗かせたエスメが不敵に笑う。
 ああ、そうなるような気がしていた。けれど改めてそれを聞かされると大きく動揺する。
「驚いた? でもアベルと別れるつもりはないから。迎えに来ないなら私から行ってやろうってだけ。そうして『会いたかった』って言わせてやる。それまで絶対に、アベルのことは呼んでやらない」
 名を呼べばいつどんなときだってどこからだって現れる彼に、自分の足で会いに行く。自ら決めた進路を、彼女は嬉々として語る。
 私は唇を開き、何を言っていいのかわからず、言葉にならなかったものを飲み込んだ。どうして、なんてくだらない質問だ。エスメは出て行きたいときに出て行くだろう。彼女自身が、庇護される時間は終わったと決めたのだ。
 エスメはもう、アベルを待たない。

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