第15話

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 二つの声が指し示す道のどちらを進むか、私が悩んでいる間に、エスメは養護院を出る話を院長にしたようだ。
 どうせアベルが迎えに来るのだと思っていた他の子たちは、エスメがその選択をしなかったと知った途端、口さがない噂を始め、嘲笑した。
「やっぱり。こうなると思った。大事にされているなんて勘違いだったのよ。悪魔の気まぐれだっただけ」
「しかもその彼、夜王になったんでしょう? ただの人間の小娘なんて選ばなくても美人で賢いお姫様がすぐに近くにいるんだから、捨てられて当然だよねえ」
「捨てられた、なんて。可哀想よ」
「ふふふ。でも本当のことじゃない」
「次は誰を誑し込むつもりなんだろうね。また別の悪魔、それとも人間かな?」
「遊びだったってことか。それって俺たちが誘ったら……」
「物好きなやつだな。悪魔憑きだぞ? まあ顔はいいけどさ」
 くすくすくす、と悪意ある笑い声が院のあちこちに木霊する。軽蔑の囁きがまとわりつこうとするのを、エスメはいつも通り無視することで振り払う。妬み嫉みが源となった視線は彼女を絡め取ろうと必死だった。「エスメはなんて言っているの?」と彼女が歯噛みしているのを期待して私に様子を聞きに来る修道女もいた。
 そうやって意地悪くしていなければ自らの不幸に対する怒りと悲しみの行き場がないことを、いまの私は理解できる。
 物語の主人公が活躍し、輝くのを、どうしてこうはなれないのだろうと嘆くのに似ているからだ。けれどエスメは現実の人間で、触れられるところにいるからこそ、彼女の受ける恩恵が何故自分に与えられないのかと思ってしまう。だからエスメが不幸になると、仲間内で彼女を言葉で貶め、あの子一人が恵まれているのではないと安堵し合う。幸せと不幸を他人と比べ合うほど不毛なことはないというのに。
 真新しい革鞄や帽子、外套と、旅立ちな必要なものを順調に揃えていくエスメを見ながら、私は未来へ向かう磁針が迷い揺れる自分の分かれ道を思う。そしてもしエスメだったら、と想像する。
 エスメなら、きっとどの道を選んでもいつかきっとアベルの元に辿り着こうとする。
 ならば私は、どこに向かおうとするだろうか。
 エスメにとってのアベルのような存在に出会えるなんて思わないけれど、そのとき瞼を閉じるといつもセスの顔が浮かぶ。彼がくれた驚きと胸の鼓動の速さが、私の行き先を示す針の先に、まるで北の空の一粒星のように輝き始める。
 行け、と心が、私が、叫んでいた。
 次の日、私は外出許可を得て街に繰り出した。
 そうして馴染みの書店の店主に深々と頭を下げる。以前お世話になった人のところで働かないかと誘われていて、しばらく迷ったけれどそちらを選びたいと思っている、とセスと勤め先のことまで正直に説明した。
 店主はしばらく黙り、やれやれと肩をすくめた。
「正直者だなあ。本当のことを言って、もうこの街に戻って来られないって思わなかったのか? 俺がお喋りだとあっという間に噂が広まって、馬鹿者どもが集りに来るって考えなかったか? ったく、そんなだとこれから損をするぞ。王城なんて悪巧みが壁一面の本棚のごとく詰まってるんだからな」
 それが店主の、不器用だけれどめいっぱいの優しさと祝福が込められた許しだった。「餞別だ」と言って放られた、欲しくてたまらなかった色刷りの植物図鑑を抱きしめて、私は元図書館司書の屋敷を訪ね、現れたセスに、司書官にしてくださいと頭を下げたのだった。

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