第16話

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 出発の日は晴天だった。晴れ晴れと、というのはこうなのだろうという、明るく輝く太陽と真っ青な空、少し冷たい影と風、植物たちが穏やかに花開く真昼に、急遽用立てた古着の服と靴を身につけ、小さな鞄を手にして、私は養護院の建物を出た。
 外ではセスが待っていた。待合馬車の乗り場に行くと言っても聞いてくれず、強固に言い張った通りに迎えに来てくれたのだった。
 見送りは定例通り、院長とまとめ役の修道女がいた。そこに遅れて台所番のマリアと用務員のジョンが現れる。それで終わりだろうと思ったら、ばたばたと足音がして、開いた扉から転がるように年少組の子が数人現れた。
 その場にいた修道女に行儀の悪さを叱られ、一応の反省を見せた後、彼女たちは足りない背丈で私に飛びつくようにする。
「行っちゃうの? 元気でね!」
「手紙書いてね、絶対よ。忘れないでね」
 私の後ろをついて回っていた子たちだ。その子たちを引き連れてきたアリサが、頼りない、と言うときと同じ口調で私を詰る。
「もう! あの人が教えてくれなきゃ見送りもできなかったじゃない、しっかりしてよね!」
 あの人、と彼女の視線の先を辿ると、開かれっぱなしの扉から、古びた制服を脱ぎ、紺色の衣服に同じ色の帽子、革鞄を手にしたエスメがやって来る。黒い髪を緩い三つ編みで一つにまとめた姿は、都会の職業婦人といった姿だ。
 エスメは私に気付き「ああ」と納得の声を漏らした。
「そうか、今日だったっけ。偶然だね。私も今日出るよ」
 エスメの言う『同室の義務』で私は出発日を事前に伝えていたが、彼女のことは聞いていなかった。院長たちも同じだったらしく、すたすたと出て来るエスメに呆気に取られている。だが次の瞬間、内から飛び出してきた修道女も加わって、悲鳴のような叱責がエスメに放たれた。
「勝手なことをして、許されると思っているの!?」
「何を言っているんですか! 聞いていませんよ!? いますぐ部屋に戻りなさい!」
「出て行くと言っているんだから素直に喜んだらどうですか?」
 うるさそうな顔をしてエスメが言う。
 騒ぎに気付いた子どもたちが、門に面した窓のあちこちから顔を出して、成り行きを見守っている。幾人かはエスメが一人なのを確認してほくそ笑んでいた。私の隣でセスが「なるほどなあ……」と苦笑いとともに呟くのは、これまでの生活で似たような光景が繰り広げられてきたのを察したのだろう。
「あなた方が疎んじた大悪魔の養い子はここから去ります。いままでお世話になりました、ご機嫌よう」
 感謝の言葉を傲然と告げて、エスメは私の横をすり抜けて門を開く。
 そのときだった。エスメが開けた扉の門の前に、滑るように馬車が横付けにされたのは。
 船底型の車体は漆黒に塗られ、金の装飾が施されている。四頭立ての立派な馬車だ。車を曳くのは馬車に合わせた青鹿毛で、御者は美々しいお仕着せをまとっていた。「儀装馬車だ」という声が私の隣から聞こえてきた。儀装、すなわち儀式のために装飾された特別な馬車。それが一台だけでなく、お供の馬車、儀仗隊の騎馬と連なった大行列となっている。
 すると先導の騎馬から飛び降りる一人の男性がいた。彼は派手派手しい羽の帽子を取り、一礼する。背後にいた大人も子どもも大小の悲鳴をあげた。顔を上げてにこりとした彼の頭には、二本のねじれた山羊の角がついていたのだ。
「バフォー……」
「久しぶりですね、エスメ。小鬼のようだった人間の子だったとは思えない成長ぶりで何よりです」
 再会を喜ぶ悪魔に、エスメははっきりと嬉しくない顔をする。
「……久しぶり。でも、これは何? また何か企んでるの?」
「いやいや、滅相もない。そりゃあちょっと面白くなればいいなあなどと思って助言はしましたが、おっと、そのような怖い顔をするものではありません。せっかく綺麗に育ったというのに、ええ、閣下が手を出しあぐねるほど美しくなられて」
 異変に気付いた街の人々が集まり、これは何の行列かと話している。国王の行列にしてはどこにも紋章がなく、よく見れば騎兵や御者には長い耳や尾といった動物や薄い羽、触覚などの昆虫の特徴が見られるのだから、何事だと関心を向け不安がるのは当然だ。
 悪魔と魔物が列をなして、それもまるで高貴な出で立ちで押し寄せてくるなんて、この街始まって以来の珍事だと言えた。
「その口を閉じて、いますぐ帰って。通行の邪魔。街の人たちを不安にさせるようなことをしないで」
「言う通りにしたいところなんですが、仕事ですので」
 にやりと笑ったバフォーは、次の瞬間深々と頭を下げ、一歩退いた。
 エスメに向かって道ができる。
「名もなき人の娘エスメ嬢、夜王陛下アベルカイン様があなたを花嫁にとお望みでございます」
 従者によって馬車の扉が開かれ、その道を歩んでくる人がいる。
 何年経っても変わらない漆黒の美貌、黒衣をまとった大悪魔。夜王と呼ばれる魔の一族の統治者。
「エスメ」
 エスメの大悪魔アベルが、その名で大気を震わせる。
 途端に私が明るいと感じていた世界が、それ以上に眩く輝き始めたように思えた。彼の秘められた恋情に、風も花も、通りすがる鳥たちでさえくすくすと笑い出した、そんな光だった。
「……どうして」
 全身を震わせたエスメが、叫ぶ。
「どうして、何故いまなの! 私が、あれから私がどんな気持ちでいたか!」
「すまない」
「来るならもっと早く来れたでしょう!? 私の安全がとか、準備に手間取ってなんて言わないで。私は危なくても不便でも、アベルのそばにいたかった。アベルの近くで傷付くならどんなところでも構わなかったんだ!」
「ああ、わかっている。すまない」
 噴き出す感情を浴びて、アベルはただただ殊勝にしている。そこへ敬意の仮面を取り払ったバフォーが口を挟んだ。
「一切言い訳をなさらない閣下、いえ夜王陛下の代わりに申し上げますが、それはもう大変だったんですよ? 退位に追い込んだ前聖教が実家に泣きつきましてねえ。その実家というのが某公爵家で、隠し子だったんですね。しかも新王の親悪魔政治がたいそう気に食わなかった一派の親玉で、徒党を組んで攻め込んできたんです。『お前たちは悪魔だ、この世を滅ぼす悪しき存在だ』なんて、ははは、我々の力を恐れて勝手に悪魔なんて呼び始めた宗教者の長の裔に、どの口が言うかって言ってやりたかったですね!」
 楽しそうにまくしたてるバフォーの笑い声が寒々しく響く。
 やがて養護院の院長は気分が悪くなったらしく、ふらふらと崩れ落ちてしまった。目眩か貧血か、どちらにしろこの状況もバフォーの言葉も受け止めきれなかったのだと思う。彼が何を喋ったのかちゃんと理解できたわけではなかったけれど、研究者が私の肩を叩いて「後でね」と言ったので、そのうち説明してくれるのだろう。
「事後処理も大変だったんです。同じ思想の持ち主が残っていたら今度こそエスメは女神という名の災厄の力の器にされてしまいますから、閣下もとい陛下は蟻を一匹ずつ潰して巣を突き止めて壊すことを繰り返して、」
「バフォー。もういい。しばらく喋るな」
 これ以上余計な情報を公開されることを懸念したアベルが静かに命じる。従ったバフォーはにっこりと笑顔だった。十分嫌がらせができて満足したらしい。こんな悪魔もいるのかと思っていると、私に向かって片目を閉じてきたので少し笑いそうになってしまった。
 エスメの怒りと悲しみで逆立っていた空気が少し和らいだ頃、アベルが言った。
「エスメ。バフォーの言ったことは忘れていい。結局私は、エスメが傷付き、もしかすれば喪われてしまうことを恐れていただけだった。それほどお前はかけがえがない存在で、私以外のものになってしまうことが最も許し難いのだと認めるのにこれほど時間がかかってしまった。遅くなってすまなかった」
 波打つ感情を制御して、エスメはちょっと顔をしかめた。
「『かけがえのない存在』、それは私のこと?」
「ああ」
「あなた以外のものになるのが『最も許し難い』と思ったのは、私?」
「ああそうだ。エスメ。お前だけだ。エスメだけを私の番いに望む」
 失笑しかけたエスメとアベルから少し離れたところで、バフォーが「番いじゃないですよ、伴侶って言うんですよ人間は」と訂正を突っ込んでいる。その声に、ついにエスメから笑みが溢れた。
「……ああ、残念だな。せっかく自分の足で会いに行ってやろうと思ってたのに」
 くつくつと肩を鳴らし、大きく息を吐くと、エスメはしゃんと背筋を伸ばした。見覚えがある立ち姿は、確か私たちを幼少期から鍛えようとした礼儀作法担当の修道女が教える淑女の立ち居だ。親がなくとも、お金がなくとも、貴族令嬢のように矜持を持って振る舞えという教えの結実。
「夜王アベルカイン陛下。エスメは、陛下のお申し出を喜んでお受けいたします」
 頭を下げたエスメにアベルが微笑みを降らせる。
 そうして信じ難いことが起こった。
 彼女の紺色の衣服が、裾から白く染まり始めたのだ。色が変わっただけでなく、形も変わっていく。古臭い形の裾は優雅な波を描いて広がり、真珠の光沢を帯びる。腰回りはきゅっと引き絞られ、華奢な首筋にかけて繊細なレースに覆われていった。詰まっていた襟ぐりは大きく開き、そこにアベルの贈り物の首飾りが下がる。髪は遊ぶように自然に解け、金剛石の耳飾りが輝き、頭上には小さな宝冠が現れた。そして最後に、ぱっと花開くように黒い透ける薄布が広がった。
 黒を取り入れた花嫁衣裳。これほど夜王の花嫁になるエスメにふさわしいものもない。
 物語の最終章、その山場である光景を私たちは言葉もなく見守っていた。アベルに手を取られ、エスメは馬車に乗り込む。恭しくお辞儀をするバフォー。嬉しそうな顔をしている騎兵は以前からの知り合いだろうか。すぐそこで広がる光景に、奇跡に目を見張る街の人々や修道女、呆然とする子どもたち、悔しさに歯噛みする少女たちや、いつかの願いが叶えられた奇跡に胸を打たれる私の居場所はない。いまから主人公たちは手に手を取り合い、物語の終わり、そして続く次のお話を紡ぐために旅立つ。
 けれど何故かエスメは振り返った。
 そして何を言うでもなく、笑った。私はその笑みをいつか、どこかで見た。そうあれは、彼女の大事な人の名を教えてもらったあのときの――。
 私が遠い追想に浸りかけたとき、行列が動き出した。
 咄嗟に門を出たけれど、花嫁だけを迎えにきた夜王の行列は、他の誰も見向きしない。この奇跡的な場に立ち会った人々が衝動的に歓喜の声をあげて送り出し、熱狂した数人に追いかけられても、花嫁と王のために走っていく。かつての少女と大悪魔のためだけに。
 さよならくらい、言えればよかったのに。
 幾許かの後悔を抱く私は、ふと人々が去った道の真ん中にあるはずのない影を見つけた。
 するとそこからぴょこんと小さな手が飛び出した。黒い影の手には、一ツ目が付いている。
『さよ、なら。ありがと』
 エスメの守り役だったロスはそう言って、手を引っ込めると、黒い影を渦に巻いて去っていった。
 それは、私の台詞だよ。
 そっと呟いた。十六歳。養護院を出たその年、私はエスメに別れを告げた。

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