第5話

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 街の聖教会に隣接する宿舎で、アシュレイ様の知人だという通いの女性の看護を受けた私は、数日の療養を経て養護院に戻った。
 そこで待っていたのは、あからさまな無視と怯えた目の数々だった。
 子どもたちを指導する立場の修道女たちすら私と必要最低限の会話を交わすだけで、できるかぎり接触を避けようとした。
『悪魔の傷を受けた子』
 食事中に耳へ届いた囁きでようやく理由を悟る。
 悪魔に傷付けられた、それだけで私は忌避されるものになったのだ。
 ここが悪魔や魔物によって平穏な日常を奪われた子どもたちが暮らす養護院であり、修道女たちが敬虔な使徒であることも、それに拍車をかけたらしい。
 一人一人が暴君の少年たちも報復を恐れたのか、暴力こそ振るわれなかったが、私は間もなく孤立した。
 私は、それを受け入れた。
 あからさまな無視をするサリーたちの輪に加わるのは止めて、仕事や自由時間は一人で行動した。食事はちゃんと出されたし、院を追い出されることはなかったから、洗われずに放っておかれた食器類を綺麗にしたり衣類やシーツは自分で洗濯して干したりなどの作業は進んで行った。
 アシュレイ様に相談しなければならないだろうかとも考えたけれど、実行しなかった。そうするときは本当に困ったとき、自分自身ではどうにもできなくなったときだと思ったからだ。
 ひとまず状況を受け入れたところで、次に気になったのはエスメのことだった。
 エスメは、騒ぎが起こる前と変わらず過ごしているように見えた。けれど夜と言わず明るいうちからあの腕輪や首飾りを取り出し、眺めるようになっていた。
 自慢するわけではない。贈り主を思い、その姿がそこに立ち現れるのをじっと見つめているように、どこか憂いを帯びた表情で、つまらなさそうにちゃりちゃりと鎖を鳴らす。
 夜になり、隣の寝台からその音が聞こえてくると、私は閉じた瞼の裏に金色の光を想像した。ちゃりちゃり、ちりちり、きらきら。金色の光の粉が降る。砂時計の砂のように闇の底へ積もる。そしていつしかそれを手のひらに受けるエスメが現れるようになった。
 そんな夢の名残に目覚めた、ある日のこと。
 自由時間に図書室にいた私は、外が騒がしいことに気がついた。少女たちが浮わついた声で何かを言い交わしながら、修道女から叱責を受けることなど忘れて廊下を駆け去っていく。
 なんだろうと思って窓から外を覗くと、不思議な光景が広がっていた。
 いつも誰かが駆け回っているはずの庭に、誰一人として姿が見えない。
 けれどよくよく見てみると、そこにいた子たちはみんなそのように言いつけられたかのように庭の隅に寄っていた。彼らが見ているのは、反対側の隅。誰の姿もないと思った木陰に、大小の人影が一つずつ。
 小柄で細い影はエスメ。それに対しているのは、見知らぬ男。
 とてつもなく美しい人だった。歳は二十代半ばくらいだろうか。長く伸ばした黒髪がさらさらと揺れている。着ているものは髪と同じ黒の衣服で、黒に銀の裏地のかっちりした外套を纏っていた。色味は地味なのに何故だかとても高価なものに見えたのは、後から思うと、彼だけに仕立てられたものであったり、只人が着るようなありふれたものではなく洒脱な貴人が着るような意匠だったせいだろう。
 そしてエスメを見下ろす憂いを帯びた眼差しは、厳粛でいて、どきりとするほど艶かしい。中性的な顔立ちはその目のせいで男性的な印象に傾く。
 でもそんな視線を年下の少女に向ける人が、ただ優しいだけのはずがない。
 けれど、何者なのだろう。暮らしているのはみんな帰る場所のない子たちだから、養護院に面会に来るような大人はほとんどいないと言っていい。だが他人なら奥まで立ち入ることを修道女や修道院長が許すはずがない。
 私は読みかけの本を置き、図書室を出て中庭に向かった。建物から庭に出るところにも子どもたちが溜まっていて、男女関係なくうっとりと二人を――正しくは男性を見つめている。小さな子たちでそうなら、年上の少女たちはもちろん陶然と、魅入られたような熱っぽい表情になっていた。
 そのときだった。男性と向かい合っていたはずのエスメが、静かな足取りでこちらにやってくる。
 そして何故か私の手を取った。
「来て」
 短く言うと返事も聞かず私を連れて行く。
 背中に視線が突き刺さる。そうして私は彼の人の前に引きずり出されてしまったのだった。
「この子だよ」
 近くで見ると彼はますます人外めいた美貌の持ち主だった。いままで見たこともなければ、絵に描かれた王子様も、どんな想像もこの人の静謐な美麗さには及ばない。長い睫毛が瞬きをするとまるで黒蝶の羽ばたきになった。
「君か」
 君かと言われましても。
 何故こうなっているのかまったく心当たりがない。けれどエスメは答えをくれそうになく、ふてくされたように顔を背け、目を伏せている。
 そんな私をさらに戸惑わせたのは、男性が差し出したものだった。
「エスメが迷惑をかけたそうだな。すまなかった。これは詫びの品だ」
 絹糸で編まれたレースを一巻き。これが、詫び? 一体何の? 意味がわからない。私が立ち尽くしていると、かすかに眉をひそめて彼が言った。
「受け取れないか。エスメは、まだ許されていないんだな」
「そういうわけじゃない。いきなり見ず知らずの相手からそんなものを渡されて、驚かないわけないってだけ」
 見兼ねたらしく口を挟んだエスメが、そうでしょう、と問う。心の中で助けをありがたく思いながら、私は大きく頷いた。
「そうなのか。アシュレイが綺麗だと言っていたものだったので、贈れば謝罪が伝わるだろうと思ったんだが」
 どうも、調子が狂う人だ。世慣れていないというか、人の機微に疎いというか。決して器用とはいえないエスメが保護者のように思えるくらい、浮世離れした大人だった。
「とりあえず受け取って。必要ないなら売るなり誰かに譲るなり好きにしていいから」
 お詫びの品だというのなら断るのはこの人に悪い気がする。それだったら、と私はひと抱えあるレースを受け取った。
 アシュレイ様が賞賛したという品は、間近で見ると、真珠のようなまろい光を丁寧に編み上げた素晴らしい品であるとわかった。値段のことは、怖いので考えないようにする。
「エスメ。お前にはこれだ」
 そう言って、男性は懐から無造作に髪飾りを取り出した。箱にも袋にも入っていない剥き出しのそれは、薄紫色の石がはめ込まれた金細工で、私はぎょっとし、エスメは小さくため息をついた。
「どうした」
「なんでもない。……綺麗だね。でも私には似合わない。こんな髪だし」
「髪くらいすぐ伸びる。おいで。着けてやる」
 短い髪を摘み、顔を歪めるエスメを呼び寄せて、彼は彼女の黒い髪に指を通して丁寧に髪飾りを着けた。
 宗教画の、戴冠の儀式のようだった。
 けれど厳粛でいて高い位置からエスメのつむじを見下ろす彼の眼差しは、相手を愛おしみ慈しむ感情に満ちている。
「よく似合う」
「信用できない。あなたは私に甘いから」
 憎まれ口を叩きながら、エスメは彼に少し寄りかかるような素振りを見せた。けれど決してそうはしなかった。薄い瞼を閉じ、すぐ近くにある彼の存在や体温を感じているだけだ。
 感謝の言葉を告げる彼女は、いつも通り落ち着きすぎているほど静かだった。
「ありがとう、アベル」
「エスメ。俺と来るか」
 唐突に言われて、エスメの顔に驚愕が走る。
 彼はどこまでも静謐に、言うべきことを淡々と告げる。
「アシュレイに、お前の様子を見に行けと言われた。何かあったんだろう。俺のところに戻って来るか?」
 風が吹く。木漏れ日が揺らめく。
 エスメの瞳に、頼りない光がゆらゆらと迷う。
「戻っていいの」
「当たり前だ」
 一欠片の躊躇もない答えを聞いて、エスメは、ふっと唇の端で笑った。
 紫色の石と金の光を黒い髪に淡くまとう彼女は、皮肉な笑みを刻み、人に馴染まない動物のようであり、孤高の姫君のようだった。
「下級をまとめたり、上級のやつらと手を組むために腹の探り合いで忙しいって、アシュレイから聞いてるよ。私のことは気にしないでいい。こんな大所帯で騒ぎを起こさない方が不自然だ。今度は上手くやるよ」
 強がりだ。本当は彼と一緒に行きたいのを、彼女の守り役に誤って傷付けられた後に盗み聞きしていた私は知っている。
 私にわかるなら、この人が、エスメに最も似合う装飾品を贈る人が気付かないはずがない。
 それでも甘言を堂々と跳ね除けるエスメの思いを汲んで、彼はそれ以上誘うような真似をしなかった。
「わかった。だがこれからは時々様子を見に来るようにする。年頃の娘は色々と入り用だろう」
「無理しなくていい」
「俺がそうしたい。それができるくらいには落ち着いてきた」
 伸ばされた大きな手が、エスメの頭を撫でる。子犬にするような手つきは強気なことを言った彼女を甘やかすための仕草だ。むっとしながらも、伏せた顔をわずかに緩ませるエスメはいとけなくもいじらしい。
「ではな」と言って、男性は去っていった。見惚れている誰かに捕まるのではないかと思って見ていたけれど、誰一人として彼に近付くことはなかった。声をかけられないのとはまた違って、鏡に映るもの、厚い氷に向こうに見えるものを覗いているだけで、声をかけるなんて考えもしない。そんな感じだった。
 雲の影が通り過ぎるみたいにして跡形もなくなった気配に、私は数度瞬きをし、腕に抱えたレースの重みに先程までの出来事が夢でないと確かめる。その隣でエスメは髪飾りを毟り取り、視線に気付いて眉をひそめた。
「何。レースを返されても私にはどうにもできない」
 男性に対するのとは打って変わって、他人が自分の領域に入り込むのを許さない潔癖なくらいの拒絶だ。けれど私は怯まずに尋ねた。
 あれは誰、と。アベルと呼ばれた彼はあなたの家族なのかと。
「家族じゃない。でも、私のこの世界で一番大切な人」
 そうしてエスメはこともなげに畏怖と呪いの存在の名を口にした。
「彼の名はアベル。大悪魔のアベル」
 純粋なほど透明な笑みに、私は悟る。
 あなたなどには関係ないと普段なら拒否する問いの答えを口にしたのは、彼女が彼の存在を知らしめたいからであり、自分もまた恐怖の対象にされたいからだ。
 では何故そのように思われたいのか。大悪魔に会いに来ると誓われる特別な謂れを持つらしい少女がそう考える理由に、私は思考を巡らせる。けれど何一つぴんと来るものが思いつかなかった。当然だ。私はまだ大部屋の住人でしかない年齢の子どもで、年上の美しい異性に大事にされることも、大事にしたいと思う感情も知らなかった。
 だから言った。
「アベルさん、アベルさん……じゃあ今度アベルさんが来たときにお礼する。焼き菓子を焼こうと思うんだけれど、あの人、甘いものは好きかな?」
 お詫びにしては高価すぎる返礼品だったから、出来ればその差を埋めたいと思っての言葉だった。
 辛口の強い口調か冷徹な失笑のどちらかが返ってくると思ったけれど、何故か長い沈黙が続いた。うっとりしていた子どもたちは続々と夢から覚めたように動き出し、何人かは彼を追いかけて門へと向かい、残った子たちは口々に彼のことを言い合って、ちらちらとこっちを気にしている。建物から顔を覗かせた修道女は何か起こった気配を感じたのか、不思議そうに庭を見回していたが、異変を見つけられず首を傾げて仕事に戻っていった。
 鐘が鳴る。
 夕空に広がる残響を聞き、私は急いで駆け出した。早くこのレースを収納しなければ出所を修道女に問い詰められてしまうし、うっかり置き忘れでもしたら誰かに盗られる可能性だってある。大事なものは早々に仕舞わなければならない。
 そこでふと、先ほどの質問の答えをもらっていないことを思い出し、足を止めて振り返った。沈む陽の光が目を射り、ちかちかと瞬く視界で、何故かその場に立ち尽くしていたエスメが片手で頭を抱えるみたいに顔を覆っていた。
 顔が、赤い。夕日の色。そして。
「見るな」
 手を外して、きっと鋭く私を睨み付けると、長い足で大股に私を追い越していく。
 なのに、彼女もまた私を振り返る。
 短い髪、険しい目つき。長い手足を持て余し、誰をも顧みることのないエスメ。その青い瞳を真正面から受け止める、どこにでもいる、巷に溢れた不幸な子どもの一人だった私。
 どうしてこんなことになっているのかわからないけれど、この瞬間、私たちは結ばれたのだと思う。絆とか情などと呼ばれるはっきりしたものではない、これからどんなものが形作られるのかわからない水や粘土のような何か。
「――いいんじゃない。アベルは、甘いものが好きだから」
 声を遠くに連れ去る風は、夜の匂いがした。

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