第4話

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 目覚めたとき、私は見たこともない部屋にいた。天井は白く、凝った浮き彫りが施されている。横になっている寝台はふかふかで、大部屋の子が全員乗れるくらいに広かった。温かい布団に包まれている、というより飲み込まれているような状態でぼんやり瞬きをしていると、少し離れたところで誰かが話しているのが聞こえてきた。
「だから言ったでしょう、私が普通に暮らすのなんて無理だって。いつかこういうことが起こるって」
「ええ、そうね。あなたは確かにそう言った。でも最後には承諾したわ。そうしなければならないとわかっていたから。違って?」
 物柔らかだが、鋭く図星を突く言葉だったらしく相手は黙り込む。すると重ねるように優しい声が続けた。
「それにあなたが普通の暮らしをすることはアベルの望みだったわ。自分との暮らししか知らないあなたに、他の選択肢があることを知ってほしかったのよ。彼のことだからきっと何も言わなかったでしょうけれど」
「止めて」
「それでもあなたは彼の考えを読み取り、その意志を尊重して頷いた」
「止めて、アシュレイ。聞きたくない」
 驚いた。相手が聖女アシュレイ様であることも、そうやって対等な、まるで友人であるかのような口を利いているのがエスメであることも。
 二人の話の行方が気になって、意識が戻っていると知られないようそっと息を殺した。幸いにも二人は気付いていないようだ。ちっぽけな私の息遣いよりもエスメの苦々しいため息が大きく響いたせいもあるだろう。
「……あのときはそれが正しい選択だと思った。私を連れているだけでアベルが危ない目に遭うから、離れなくちゃいけないって。でもいまはそれを後悔してる。私はアベルさえいればなんにも怖くなかった。何を言われても、何をされても平気だった。アベルが危ないなら、私がアベルを守れるくらい強くなればよかったんだ」
 エスメはいま、どんな顔をしているのだろう。
 遠い過去に想いを馳せて悔恨を呟く彼女の声は、とても子どものものではない。
 ――この世で最も大事なものを見つけている人の言葉。
 多くの人と接して様々な経験を経た後ならそのように言い表すことができるのだけれど、その頃の私は大人のようだと感じる以外に例えるものを知らずにいた。
「ねえアシュレイ、私、」
『起きた』
 私は悲鳴を飲み込んだ。
 あの黒い牛型の悪魔が寝台を無遠慮に覗き込み、一ツ目で私が起きているのを確認し、エスメの言葉を遮った。すると話を中断したアシュレイ様がやってきて、私が健康そのものの状態で固まっているのを見て、ほっと息を吐いた。
「目が覚めたのね。具合はどう? どこか痛むところはある?」
 私は首を振った。背中に受けた衝撃は痛みとして残っていなかったし、不調も感じていない。むしろ寝心地が良すぎて起きたくないくらいだ。それを伝えると、アシュレイ様は安堵の表情に微笑みを重ねた。
「そう、よかった。ちゃんと傷は浄化できているみたいね。でも無理はしないで、しばらくこの教会で療養するといいわ。ほらエスメ、こっちにいらっしゃい。言うべきことがあるでしょう?」
 促されたエスメが寝台の側に立つ。先ほどの感情豊かな声とは打って変わって、興味の薄い、つまらなさそうな顔をしている。
 けれど私は思い出していた。気を失う直前、エスメが悪魔を制止しようと叫んだこと。止めろ、と悪魔の攻撃を制し、私は悪くないと伝えようとしていた。
「悪かった」
「エスメ」
 アシュレイ様の微笑みを独り占めしておきながらエスメはため息をつく。
「……悪かった、ごめんなさい」
 それで終わったとばかりにエスメは背を向け、部屋を出て行ってしまった。
 アシュレイ様が、仕方のない子、と呟く。その様子が、どうも養護院の子どもたちを思うものとは異なっているように思えて、じっと観察していると、気付かれた。視線に応える淡い微笑みとともにアシュレイ様は口を開いた。
「あの子を連れてきたのは私だもの、お詫びしなければならないわね。本当にごめんなさい。あんなことが起こらないよう、私も彼女も、事情を知る者たちはみんな気を付けていたのに。悪魔が現れて驚いたと思うけれど悪いものではないのよ。エスメを助けようとして、悪魔の常識の下に動いてしまったの」
 ロス、というのがあの悪魔の名前らしい。普段はエスメを守るために影に潜んでいるという。敵とみなしたサリーを排除しようとしたのは守り役の使命を果たそうとしたからだったらしい。
 エスメのようなものを、俗に『悪魔つき』と呼ぶ。
 悪魔や魔物の興味の対象となった結果、彼らの庇護、あるいは被害を受ける人間がごく稀に現れる。魔物の場合は『魔物つき』だが、よく知られているのは『悪魔つき』の方だ。悪魔の助力を得たために堕落し、人間の敵となって罪を犯した者たちは、浄罪を行ったとしても人々から嫌悪され忌まれる存在だ。
 しかし話に聞いていたほど、エスメは悪魔つきとしての邪悪さを持っていない。不思議な現象も起こっていないし、彼女が優遇されたり得をするような動きも見られない。唯一奇妙なのはあの高価な装飾品類だけだ。
 あれは悪魔の宝物なのだろうか。そういう呪物に魅入られた者の逸話は、礼拝のときにも聞かされる。じっと考えている理由を聞かれ、そのことを話すと、アシュレイ様は何故かくっと笑い、口元を押さえた手の中に堪えきれない声を隠した。
「あれは彼女を大事に思っている人がエスメのためだけに贈ったものよ。ロスもそう、あの子を心配して守り役に付けられたの」
 装飾品の贈り主と悪魔に守り役を命じたのは同一人物らしい。
「エスメ自身はまったく危険なものではないから安心して。誰かに危害を加えるようなことは決してないわ。ただこれからも時々、理解しがたい出来事や奇妙なものを目にするかもしれないけれど、どうかそのまま受け止めてあげてほしいの」
 私は、わかりました、と頷いた。本当にそうできるという保証はなかったけれど、アシュレイ様に悲しい顔をさせたくなかったからだ。
 けれどずっとある疑問が浮かんでいた。
 年端もいかない少女に高価な宝飾を贈り、悪魔を守り役につけるような人物とはいったい何者なのだろう? と。

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