第3話

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 祈りを伴った食事が終わる頃には日が落ち、夜がやってくる。ほの暗い時間から修道女たちが祭壇の周りに蝋燭を灯し、魔のものの脅威を退けてくださるよう、女神像に祈りを捧げる。そしてその祭壇の火を建物のあちこちに灯して回るのだ。
 私は夜の自由時間に本を読もうと決めていた。昨日街の書店の店主がやってきて、本を数冊寄贈していったのを知っていたからだ。
 養護院では繕い物や調理など軽い賃仕事を引き受けることがあり、十歳以上の希望者はその労働でわずかな小遣いを得ることができる。私もそうやってお金をこつこつ貯めてはいるものの、やはり本は高価で定期的な購入が難しい。
 しかし養護院の図書室には宗教関係の本がたくさんあり、アシュレイ様のおかげで子どもの本も寄付金や寄贈で収集されるようになった。だから新しい本が入ったと聞けば必ず一度見に行くのがすっかり習慣になっている。
 忙しい修道女たちは、図書室を清潔にするだけで整理するまでには至らない。なので私は掃除を理由に、新しく入った本にざっと目を通して、似通った内容の本の棚に置いている。いままで誰かが文句を言っているのを聞いたことがないから、大丈夫だろうと思って続けていた。
 ――悲鳴は、図書室にまで聞こえてくるくらい大きなものだった。
 整理を終え、寝台で読むための本を選んでいた私は、その声があの、仲間内で下位に置かれていたテレサのものであることに気付き、嫌な予感がして足早に図書室を出た。
 騒ぎは奥、子どもたちの大部屋の方で起きているらしかった。
 室内に飛び込むと、お喋りに興じていたであろう子どもたちが怯えた顔で壁際に避難しつつ、揉み合っている彼女たちから目を離せずにいた。
「返せッ! それは私のものだ! 勝手に触るな!!」
「こんな高価なものがあなたの私物なわけないでしょう! どこで盗んできたの、この泥棒!」
 押し合うエスメと年長のサリー、二人の剣幕に青ざめて傍観することしかできない取り巻きたち。
 争いの原因は古い建物には似つかわしくないほど美しく光輝く首飾り――腕輪ではなかったけれど揃えで作られたのだろうとわかるそれらを目にして、私はおおまかな状況を察した。
 発端は、最後方でいまにも倒れそうな顔をしているテレサに違いない。仲間にあのように言われて、いつもなら引き下がるところを今回は行動に移した。どうしても仲間内の地位を上げたくて、エスメと話そうとした。そして偶然か、故意に漁ったのかはわからないけれど彼女の私物を見つけた。
 あまりにも高価な首飾り。目にしたときにはきっと驚いたことだろう。
 そこにサリーたちが現れたのか、彼女が仲間たちに告げ口にいったのかはわからない。ともかく首飾りの存在はサリーたちの知るところとなり、正義感の下にエスメを糾弾するに至った。そうしてこの騒ぎなのだ。
「泥棒はお前だ! 子分たちにこそ泥の真似をさせて威張っているお前の方だ!」
「なっ!?」
 エスメの言葉は鋭い刃となった。サリーは図星を突かれて真っ赤になり、怯えて成り行きを見守っていた少女たちも顔を見合わせて小さく含み笑う。それにひどく自尊心を傷つけられたらしいサリーは、いままでよりも激しい勢いでエスメに掴みかかった。
「あんたに何がわかるのよ! 気取ってんじゃないわよ、泥棒のくせに!」
 爪を立て、服を掴み、相手を押して。力が拮抗しているようでどんどん傷が増えていく。間に入ると怪我をするとわかっているから、誰も止めに入れない。味方もできない。
 そのうち、サリーは焦れたのだろう。手にしていた首飾りを大きく振りかぶった。
「このっ、……こんなもの!」
 あっ、と思ったとき、首飾りは強く床に叩きつけられ、かしゃーんと澄んだ音を響かせてばらばらになっていた。
 金具が外れただけではない。飾りの輪は歪み、柔そうな白い珠には傷がついてしまっていた。それでも輝きを放つ色石の変わらなさが虚しいくらいだった。
 目を見開いて動きを止めたエスメは、途端に強く突き飛ばされ、寝台の脚に背中をぶつけて座り込む。それまでになく強い音が響いたとき、やっと騒ぎを聞き付けた修道女が飛び込んできた。
「どうしたのです、二人とも! いったい何の騒ぎなのですか!?」
 やり合っていた二人と、事情を知る子どもたちに問いを投げかけ、修道女がつかつかとやってくる。
「……ひっ!?」
 しかし、その歩みは途中で止まった。誰もその意味がわからず不思議そうな顔をした。
 でも、私は修道女の視線を辿り、気付いた。
 ざんばらに乱れた髪の間から睨むエスメ、そしてその前で彼女を庇うように立ち上がる黒いもの――。
 奇妙な生き物だった。成人男性ほどの巨躯を窮屈そうに丸め、全身には波打つ水のような黒い影が、意志を持っているかのように常にざわざわと蠢いている。生き物だとわかるのは、頭部と思しき辺りに、捩じくれた山羊のような角が二本ついているからだ。だがそこにあるはずの目は一つしかない。
 大きな山羊に似た一ツ目の黒い『何か』。
『殺そう』
 全員がびくりと耳を押さえた。頭の中で、石を擦り、硝子を掻く不快なざわめきを伴った声が響き、まるで耳の奥までかき回されたような不快感に襲われる。
『殺そう。殺そう。殺そう。殺そう。殺そう』
 繰り返される殺意は、しかしその言葉の単調さのせいで打楽器を打っているように聞こえる。けれどたとえそのように感じられても、『それ』が撥を叩きつける自然さで命を奪うことを私たちは、故郷や家族が襲われた、あるいは聖なる教えを受けている養護院の子どもと修道女は、知りすぎるほどよく知っていた。
「あ、あ、あ」
 頼れるはずの指導役の修道女は大きく目を見開き、がくがくと震えながら『それ』の正体を口にした。
「ああ、あ……あ、悪魔……!」
 悪魔。魔王の眷属。魔物を使って死を振りまき、この世界を我が物にしようとした者。走狗となる魔物は知性をほとんど持たないが、悪魔は違う。人のように考え、ときに狡猾で残忍だ。甘い言葉を弄んで人を騙し、戦い合わせたり、疑心暗鬼になっているところでさらに追い込む言葉を囁いたり。
 悪魔は魔王の眷属でありながら個々の目的や手段が異なっていて、特に剣の君と戦った魔王は悪魔同士の争いを推奨し、そのせいで多くの人が亡くなった。それは否応なしにここで共同生活を送るしかない子どもたちの存在で物語れる。
 その悪魔が、ここにいる。
 聖女アシュレイ様と剣の君が封じたはずの魔王の眷属が、私たちに本能のままに殺意を向けている。
 一ツ目はぐるりと瞳を回し、エスメと争っていたサリーを捉えた。
『殺そう』
「ひ……ッ」
 最初の獲物として選ばれたサリーは悲鳴すら上げられなかった。恐怖の涙で顔を汚し、これまでの威厳など見る影もない。もちろん誰も助けに来ない。来られないというのが正しい。この状況が理解できない上に恐怖心が足を縫い止めている。
『殺そう。殺そう。殺そう』
「いや……いや、いや、いやぁっ!」
 一ツ目が丸太のような前足を振り上げた。
『殺すね』
 私は咄嗟に前に出た。
 サリーを突き飛ばした腕も、ぶつかった身体も強い衝撃を受けた。けれど半身と背中に受けた冷たく熱い痛みは、意識のほとんどを持っていくほど激しいものだった。
「止めろロス、彼女は違う!」
 エスメの制止が最後だった。だからその後に何があったかは、翌々日に私が目覚めたときにそばにいてくれたアシュレイ様からの伝聞になる。

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