第2話

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 アシュレイ様が去り、養護院のいつもの日常が戻った。エスメは髪を切りそろえ、支給される制服のシャツとスカートに身を包むと、あっという間に普通の子どもになった。相変わらず痩せすぎだったけれど、毎日三食、栄養のあるものを食べると見た目は少しずつましになり、性別が女の子であるとわかるまでになった。
 エスメはずいぶん手足の長い子だった。手足だけでなく、首も、指もそうだった。細くて、力を込めれば折れてしまいそう。それを『華奢』と表現すると知ったとき、彼女のためにあるような言葉だと思った。『儚い』とは違う。どんなにほっそりした身体つきで、壊れもののように白い肌をしていても、瞳だけは青く炎のように輝いて、いつも相手を睨みつける強さを宿していた。
 そして実際、エスメは誰とも関わらなかった。指導役の修道女たちがどのように心配しても、周りの子どもたちが話しかけても、その言葉を殺した。無視して、彼女の世界から排除したのだ。どんな優しさも甘い言葉掛けも。興味を惹こうとする視線もエスメには必要のないものらしかった。
 事件が起こったのは、そんな頃だ。
 私たち養護院の住人は、十三歳までは子ども部屋と呼ばれる大部屋に男女それぞれ振り分けられ、寝台の上が個人の場所として充てがわれていた。そしてだいたいの子どもが、宝箱と呼んでいる箱を持ち、その中に綺麗な石や鳥の羽、大事な玩具、安物の装飾品などを入れていた。
 十三歳になって四人部屋に移った子のものだった寝台が、エスメの場所になった。そこは私の隣でもあった。
 彼女は就寝時間後のお喋りには参加しない。でも声が大きくなる子たちにうるさいと怒ることもない。寝ると決めたら寝る、周りは関係ないと、一日の始まりから終わりまでそれを貫いた。
 その夜、エスメは珍しく遅くまで起きていた。
 何故知っているのかというと、たまたま目が覚めたからだ。
 青い月夜だった。閉ざされているはずの帳を開けて、エスメは夜空を見上げていた。射し込む光が眩しかったせいで私は浅い眠りから覚めてしまったらしかった。
 室内は静まり返っている。かすかな寝息、そしていびきめいた響きが時折聞こえてくる。
 夜の虫の声も絶える時刻に、一人起きているエスメ。らしいといえば、らしい。
 眩しい、と声をかけるのが普通だったのだろう。けれど私はじっとそのまま彼女を見ていた。
 月を見上げる彼女に声をかけづらかったから。
 そして彼女の手の中にある腕輪が見たこともないくらい美しかったせい。
 いくつもの珠を金鎖で連ねたそれは、友人たちが持つどんな装飾品も敵わないくらいに手の込んだものだった。まろやかで青白い光を放つ白珠、幾何学的な形に輝くよう裁断された透明な石、葡萄のように色濃くいまにも滴り落ちそうな濃い紫の色石。捻った金の板や、波紋が金色に固まったような輪、透かしレースを丸めたような金の球体など、一流の職人では作れないような金具を組み合わせている。
 子どもたちが糸に玉を通すような単純なものではない。大人が、それも物語に登場する王女様のような女性が身につける『本物』だ。
 どうしてエスメがそんな高価なものを持っているのだろう?
 私の寝惚けた頭に浮かぶのは薄汚れた小鬼のようだった彼女の姿で、宝物のような腕輪はとても似合うとは思えない。
 それとも、毛布の波の隙間から覗き見ている彼女は私が見ている夢なのだろうか?
「――……」
 色のない唇でエスメが何かを囁く。
 よく聞こえなかったので耳を澄ました、その気配を察して青い瞳がこちらを捉えた。
 私は咄嗟に目を閉じて眠ったふりをし、エスメの青い眼差しから逃れるためにじっと耐えた。そしてそのまま本当に眠ってしまった。

 夜が明けて、起床時間に目が覚めた私はあっさり眠ってしまった自分に呆然としたものの、時間を巻き戻せるはずもなく一日を始めた。
 寝台を整え、顔を洗って歯を磨き、着替えて、食堂で朝食を取る。台所番のマリアと修道女たちが焼いたパン、丹精込めて育てた畑の野菜を使ったスープ、近所の農家から買った卵の料理。これに時々季節の果物がつく。育ち盛りの子どもたちには物足りない量だが食べられるだけ幸せだろう。実際彼らにとって最も恐ろしいのは罰則としての食事抜き、次点で書き取りなのだから。
 養護院での生活は厳密に決められている。朝食後は修道女を教師役に、読み書き計算といった学習の時間。昼食後は畑仕事や裁縫や工作、時々慈善活動として街に赴き清掃や緑化活動に励む。その後しばらく個々人が好きに過ごす時間があり、夕食後は読書や復習が推奨される自由時間を過ごして、清拭あるいは安息日前日の入浴を経て、就寝となる。安息日は教会での礼拝に参加する義務があるけれどいかなる仕事もしないでいい。
 その日の午後の自由時間、各々の仕事を終えた子どもたちが好きに過ごしていた。大半は門前の広場で集まって遊んでいる。ボールを蹴ったり、追いかけっこをしたり。手が空いて見守りにきた修道女にまとわりつく幼い子たちもいる。
 私は、だいたい女の子たちの輪の中にいる。暇さえあれば集まって、誰が格好いいだの、誰と誰が親密だなどという情報交換を行うのだけれど、話すのは大抵、一つ二つ年上のサリーか、しっかりした性格のジェインか、目立ちたがり屋のハンナの三人だ。
「……だからね、毎回髪を引っ張られて本当に困ってるの。どうしてそんなことをするのかしら?」
「そんなの決まってるじゃない!」
「そうよ。あいつ絶対、あなたのこと好きなのよ!」
「そんな。困るわ……どうしよう……」
 自慢の金髪をくるくると指に絡めながらサリーは眉を寄せ、弱り切った表情をする。戸惑いを見て取った他の二人は、『あいつ』と呼ぶ少年がいままで彼女にどんな仕打ちをしたのかを聞き出し、どのような意図を持って行われたのかという持論を披露していく。
「嫌いな蛙をわざわざ見せるって、あなたの気を惹きたいからよ」
「そういえば先週の学習の時間、みんなで絵を描いたよね? あのときあいつが選んだ緑の絵の具、あなたの目の色だったからじゃない!?」
 きゃー! と悲鳴めいた歓声。
 すごい想像力だ。彼女たちにかかれば、空が青いのは二人の恋を祝福しているからだ、なんてことになりそうだった。
 このようにして彼女たちのように誰かを驚かせられる話題を持たないと常に聞き役に回る。隣で熱心に相槌を打っているテレサは彼女たちに気に入られたくて大げさな反応をする。そして時々羨望の眼差しで彼女たちを見る。
 正反対の私は聞き役を受け入れ、話を聞きながら微笑み、求められて相槌を打っている。そうしているだけで誰からも攻撃されず、目立たず埋没していけるのでとても楽なのだ。だからテレサのことがいつも不思議でならなかった。何故それほど特別になりたがるのだろう、誰かに尊敬されて慕われようだなんて重荷を背負おうとするのか。普通でいれば当たり前の幸せをそのまま得られるはずなのだ。
 けれどその日に限って言えば、相槌を打つよりもエスメを探すことの方に心が向いていた。
 外にいるとすれば誰もいない木陰だろう。庭木の陰に目を凝らす、けれどここは賑やか過ぎたようで、エスメは見つからなかった。
 夕刻の鐘が鳴った。
 私たちにとっては、夕食が始まるので食堂に集合せよという指示でもある。すると、水瓶がある洗い場は非常に混雑する。年上の子たちが、石鹸で両手をしっかり洗うよう幼年組に指導している。それを修道女が微笑ましそうに見守り、別の修道女は、手洗いをおざなりにして食堂に駆け出す少年たちの首根っこを引っ掴んで再び洗い場に引きずっていく。
 手を洗った後、最近太った、そんなことはない、最近ますます綺麗になった、などの話題できゃっきゃと盛り上がる少女たちの後ろにつく形で私も食堂に向かう。
 そこへ、影が横切るようにしてエスメが通り過ぎていった。
 いくら自己中心的に、周囲に気を払わずに過ごしているとはいえ、養護院の規則にエスメは逆らわない、というか逆らえないのだろう。時間通りに決められた場所にいて決められていることをしなければ、共同生活に適応できないと考えられ、他所へやられるか、一人で生活するよう放り出されるかだから。
 ただそれ以外は誰とも関わらない。夕食のときにお喋りを禁じられるのを国も感じていないのは、私以外にエスメくらいのものだろう。
 食堂を目指すエスメはこちらにちらとも目をくれなかったが、少女たちを黙らせるのには十分な存在感を持っていた。
「相変わらず薄気味悪い子ね」
 サリーが鼻の頭に皺を寄せて吐き捨てた。
「誰が喋りかけてもにこりともしないのよ。生意気だって修道女たちも言ってるわ、『普段喋らないのに口応えだけは達者だ』って。それに聞いたんだけれど、アシュレイ様に親しげな口を利いていたんですって」
 少女たちが驚愕に言葉を飲むので、私もついサリーを見てしまった。
「アシュレイ様はお優しいから、そのままにこにことお話しされていたそうよ。聖女様がそうだったから、あの子、他の人間のことはそれより下だと考えてるんじゃないかしら。だとしたら可哀想ね。いずれ痛い目を見るわ、きっと」
 髪を指に巻きつけながら年上の憂いを込めてため息をつくと、ジェインとハンナがもっともだと頷いた。
「注意してあげた方がいいんじゃない?」
「そうよ。あの子、ここに来たときに格好がああだったし、常識を知らないのよ。きっとそう!」
「じゃあ私が注意するわっ!」
 三人はぴたっと口をつぐんで、声を上擦らせたテレサの赤い顔を見つめる。
「私が注意するわ! 私の方が歳が近いし。みんなが行くと、ええと、い、萎縮、そう萎縮すると思うの、だから」
 途中でつっかえたのは注目されていると気付いて我に返ったせいだ。
 勇気を振り絞り、真っ赤な顔で言い募った彼女に、他の三人はまるで示し会わせたように顔を見合わせ、微笑んだ。あまりいい気持ちのしない表情だった。物わかりの悪い子どもに言い聞かせるような、道理を知らない人間を哀れんでいるような顔。
「そうは言うけれど、上手く注意できるの? 無視されたらそれ以上何も言えなくなると思うんだけれど?」
「そうよ、あなたには荷が重いわ」
「二人とも、そんな風に言うのは悪いわ。テレサだって正義感で申し出てくれたんだもの。でも私もあなたは優しすぎると思うわ。こういう嫌な役目は私に任せてくれて大丈夫よ」
 ありがとう、と微笑まれてテレサの顔は赤く染まりきり、汗が額を濡らす。それが羞恥なのか怒りなのかを確かめることもしないまま、彼女たちの話題は夕食の内容についてのものに変わった。

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