第7話

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 そのようにしてエスメは数多の嫌がらせと悪意を受け流しあるいは投げ返し、私はそれらを目撃する日々を送った。
 そうするうちに髪が伸び、節々に痛みを覚えていた手足が長くなり、スカートの丈が短く感じられるようになって、身体に柔らかな肉がつくようになった。大部屋の寝台は窮屈で、声は幾分か低く落ち着き、ばたばたと足音をさせて走る回数が減っていった。
 その頃には私に対する忌避や無視はかなり薄れて、少しずつ声をかけてくれる子や懐く素ぶりを見せた新入りの子も現れたけれど、私自身が他の子たちの輪に加わる気がすっかりなくなっていた。話しかけられれば答えるし、困っていそうならそれとなく助けたりもするけれど、私は基本的に単独で行動し、決められた時間割以外のときは大抵図書室で過ごした。
 本は、古書であっても書物であるというだけで私にたくさんのことを教えてくれた。
 私が住む国のこと、人と魔王の戦いの始まりとその変遷や、アシュレイ様に与えられた称号である聖女の役割、剣の君と呼ばれる勇者の使命と運命……一つの書物で知った物事は、別の書物では異なる解説を添えられていることも多々あり、どれが真実であるのかは私自身が見定めなければならないと告げていた。
 たとえば、魔王とはいったい何だったのだろう?
 人々は、私の周囲も含めて誰もがみんな、魔王は人類の敵でこの世のすべてを我がものとしたいと願って逆らう者を容赦なく殺した、と言う。
 確かにそのような支配欲が理由となることもあるけれど、私が読んだ歴史や王国や王にまつわる書物では、侵略や暴虐には理由があるようだ。自国が貧しかったために豊かな穀倉地帯を欲したとか、己の威光を保つために相反する思想を持つ人々を支配する必要があったとか。独裁による支配から逃れるための戦いというのもある。
 魔王が死を振り撒き人類の敵となった理由を、私は、私の周りの人たちの言葉でしか聞いたことがない。判で押したような、食事前には必ず祈りを捧げる常識めいた語り口で伝えられる「理由」だ。
 それは本当に信じるに値するものなのだろうか?
 そうして時間があれば図書室にいて読書や思索に耽るようになった私は、無口な性質に拍車がかかり、感情の薄さも相まってよく「何を考えているかわからない」と陰口を叩かれるようになっていた。
 どちらかというと共同生活に溶け込めない人間だと判断された私も、十三歳の春を迎えた。待ちに待った、大部屋から四人部屋への移動が行われるのだ。
 その年、移動するのは私を含めて三人だった。一人は上の歳の子たちで構成された一室の空きへ順当に滑り込んだけれど、院長は残された私たちを空いている部屋に振り分けることはせず、まとめて誰もいない部屋に放り込んだ。
 大きくなった子どもたちが養護院を後にし、新しく入ってくる子も一時期を思えば少なくなったので空室のまま放置されていたところだ。部屋の左右に二段式の寝台があり、入ってすぐと突き当たりの両側合わせて四つの机が置いてある。この机が個々人のものになるのだ。
 だが寝台には枕も毛布もなく、掃除もおざなりなのかうっすら埃が積もっている。籠もった空気は湿り気を帯びて黴臭かったが、エスメが窓を開けた途端、それらは新鮮な春の匂いのする風に吹き飛んでいった。
 長い髪がさらさらとそよぐ。
 肩を越した真っ直ぐな黒い髪。細い首、美しい鎖骨と荒れているけれど白い指、花びらの爪。肉付きは決していいとは言えないけれど、それが危ういほど曖昧な年頃の少女の清らかさを表すかのよう。
 十三歳のエスメは、骸骨ではなく、若くみずみずしい黒百合のような少女になっていた。
「知らない四人の人間と狭い部屋で生活するなんてぞっとするけれど、二人減るなら多少我慢できる」
 低くて落ち着いた心地よい声で呟いて、私を見る。白皙の頬をにやっと皮肉に歪めると完璧な悪童の顔だ。恐らくエスメはこうなると知っていたのだろう。
 いつの間にか二人まとめて問題児として扱われるようになっていた私たちだった。私は苦笑を返したけれど、先住の少女たちに気を使う生活を思えば、エスメとの二人部屋は私も気が楽だ。彼女は好きなように過ごすし、私は必要以上に気を使わなくていい。気にせず読書に耽ってもいいし、勉強をしても他の子たちのように「必死だ」と笑ったり「つまらない頭でっかち」などと言われないのだ。
 私たちは手分けして、寝台を叩いて埃を出し、部屋中を掃いて水拭きをして室内を清めた。無駄話をしないので、二人だけでも掃除はあっという間に終わり、収納部屋から持ってきた清潔な敷布と毛布で寝台を整える。
 私は入ってすぐの右側の机に、エスメは突き当たりの窓辺の左側をひとまず自分の居所と定め、それぞれの居場所を作るようにして私物を並べた。
 私はこつこつ貯めたお小遣いで買った絵本から始まって童話や画集を置く本棚となる場所を作り、街の広場で絵を描いていた人にもらった素描が入った額を立て、小さな空き瓶を置いた。いずれそこに花を飾るつもりだ。たったいま出来上がったばかりの、まだ不十分な居場所を眺め、少しの緊張と興奮を味わい、いつかここが私をほっとさせてくれるようになるのだと想像した。
 やがて修道女の声が聞こえてきた。部屋の移動と清掃が終わったのか確認するために順に部屋を回っているのだ。扉を叩く音に返事をすると、現れた修道女は疲れたため息をつきながら口を開こうとし、おやという顔をして室内を見回した。
「……片付いているようですね。清掃も終わっているし、寝台も整えたのですか」
 扉の向こうからは少女たちの騒ぐ声がする。うるさそうな顔から察するに、他の部屋はお喋りに時間を取られて作業が遅れているようだ。この部屋もそうだろうと思ったら当てが外れたらしく、感心したように何度か頷いた。
「よろしい。これからも規律正しく過ごすように。下の子たちの模範となるべく、慎みを持って行動しなさい」
 はい、という答えを聞いて満足して去っていく修道女は、エスメがたった一度も返事をしなかったと気付いていなかった。これからは私がエスメの分まで返事をする必要がありそうだ。
 さて四人部屋に移った子どもたちが次に迎える節目は、十六歳で決定する進路だ。養護院にいられる年齢が十六歳までなのだ。
 その年の春までに養護院の子は進路を決める。職工の徒弟になったり、どこかの店の従業員になったり。商人の隊に加わって旅立つ人もいるし、仕事を探すために遠く大きな街を目指す人もいる。養護院の生活で祈ることの尊さを知り、聖職者の道を選ぶ場合もある。自分を守ってくれた修道女をお手本にすればいいからか、そういう人は少なくない。また、夢を叶えようと去り、儲け話に乗り、罪を犯してここにいられなくなり、といった事情で消息が知れなくなった人も大勢いる。
 器量好しや要領のいい子は早々に声をかけられ、仕事を得て養護院を出て行くが、大抵はぎりぎりまで行き先を決められない。けれど仕事を持たないのは死活問題だから、理想を捨ててなんとか食べていけるだけの賃金をもらえる仕事に就く。私もそうなるだろう。商店の売り子か、大衆食堂の給仕か。どんなところでも宿屋の賄い人や住み込みは止めておいた方がいいとは昔から聞く。
 どちらにしろなんとかして自活の手段を得るために準備を始めなければならない。
 やっと大部屋を出たばかりだったけれど、ここで過ごせる時間が残り少ないことを自覚する。
 鐘が鳴り、夕食を摂るために食堂へ集まって、給仕された料理を前に全員で祈りを唱える。目を伏せているふりをしながら、私は少し離れた席にいるエスメを見た。祈っているように見えるが、本当にそうなのかはわからない。少なくとも目を閉じている彼女の口元はまったく動いていない。
 エスメはどんな道を選ぶのだろう。
 十六歳になった彼女は、きっとどんなところでもたくましく自分らしく生きていけるに違いない。裁縫も料理も人並みにできるし、掃除だってちゃんと隅まで綺麗にする。字も綺麗で計算も速い。愛想はないけれど、アベル以外の誰かを特別扱いしないという意味では平等だ。職人にしろ売り子にしろそれなりに仕事をしていけると思う。
 けれど、そう。アベルのことがある。
 アベルはエスメが十六歳になったとき、迎えに来るのだろうか、それとも保護者役は終わったとエスメを手放すのだろうか。
 私が考えることではないし尋ねたところでエスメが答えてくれるとは思えないとわかっているのに、気になってしまった。分かち難く思える二人だったから一緒にいればいいと思っているのだな、とそのときは思っていた。
 夜になって寝支度をしているとエスメが優しい香りをまとわせていた。彼女が手にしているのは、木の実が宝石に変わったような香水瓶だ。金と宝石があしらわれた蓋の部分が女王の杖のように装飾されていて、可憐で気品に溢れている。アベルからの贈り物だ。
 香水をつけた後、反対側の寝台にやってきた彼女は、私の視線に気付いて、む、と顔をしかめた。
「何。……もしかして、臭い?」
 腕を近付けて自らを嗅ぐエスメに、私は首を振った。エスメがつけている香水は、私の知らない、遠い国の花の香りを想像させた。それはきっと月下に咲く幻の花で、その花はエスメのまとう香りのように夢のごとく優しく気高い芳香を漂わせるに違いない。
 そんな香りを選んだアベルはやっぱりエスメのことを一番よくわかっている。
 でも気付いていないのではないかとも思う。彼女はすでに香水をつけるような年齢になっていること。聖女アシュレイ様と大悪魔アベル、そしてこの養護院という守られた世界から出て行くときが刻一刻と迫っているのだと。
 その予兆はまた別の日、異なる形で訪れた。

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