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 翌朝、きっちりと足首を手当てして、エヴァリは教会の天使の部屋へと向かった。
 扉を叩く。しばらく待っても返事はなく、どうしたものかと考えた挙げ句、握りに手を掛ける。
 鍵など上等な物は付いておらず、閂を掛けられていたら入る事は出来ないが、扉はすんなりと内側に開いた。
「おはようございます」
 酒が強く香った。机の上で酒瓶が横倒れになっていた。中身は空だった。
 天使は、ベッドで俯せになって眠っていた。翼はやはり眠るのに邪魔なようだ。呼吸に合わせて上下していて、側には羽根が落ちていた。ずぼらにも聖衣のままだったので、衣は皺だらけになっていると思われた。
「おはようございます、天使様」
 天使はうっすらと目を開けた。
「うるさい」
 挨拶はそれ。エヴァリは苦笑した。
「おはようございます。そろそろお起きになられた方が良いかと思います。村人が挨拶に参るかもしれません」
 エヴァリは窓を開けた。見上げた空は澄んで青く、空気が瑞々しく感じられた。いつもの乾いた空と風ではない。天使様が降りられたからだ、と村人はきっと言うだろう。
 窓から離れ、もう一度天使の顔を覗き込んだ。天使は起きるつもりはあるのか、今は仰向けになっていた。
「起きて下さいませ、天使さ、きゃっ!」
 突然伸びた手がエヴァリを引き倒した。覆い被さるようになってしまったエヴァリは、鼓動の音を聞いて慌てて身体を起こした。
 しかし腕をしっかり掴まれ、手を付く事は出来たものの離れる事は出来なかった。腕と共に、濃い青の瞳がエヴァリを捕らえていた。息をする事を忘れてしまいそうな程、強く。
 速くなる心音は自分のもの。では先程の鼓動は彼のものだろうか。
 薄い色の唇がゆっくりと開く。
「お前、何故俺が見える?」
「は、はい?」
 唇に見とれていて、質問の意味が分からずにそんな返事になった。
「天使は姿を見えなくする事が出来る。俺はそうしているはずだが」
「さ、さあ、私には見えておりますけれど……」
 濃い夜空の瞳と、鋭利な目元。縁取るのは長い睫毛。青白い月色の髪。すっきりと高い鼻。ちょうど良い形の唇。艶やかな肌。長身。しっかりした体付き。普通の、いや、麗しく体格にも恵まれた理想的な男性なのにその背には翼。今は艶のない銀だがそれでも殺風景で埃くさい部屋では白く輝くばかり。その羽根のひとつひとつに至るまで、エヴァリの茶色の瞳にはちゃんと映っていた。
 天使は検分するように目を細めた。
「お前、天使か悪魔の祝福があるのかもしれんな」
「あ、悪魔だなんて、そんな!」
 声を上げながら、あるかもしれない、と一瞬暗い影が過ぎる。
 天使は見逃さなかった。
「心当たりがあるのか」
 話せ、と天使は命令した。
「『自分は神父でも司教でもない』と言われたくせに……」
 小さく呟いて、非難の目で天使を見る。不遜な態度で聞こうとする彼に、もうどうなっても良いと思ってエヴァリは話し始めた。
 この地には発狂する者が少なくない。そういう者は悪魔に魅入られたのだと忌まれる、そんな土地に母はエヴァリを連れて流れ着いた。父はなく、ついに教えてもらえなかった。
 母は家に籠もりがちだった。周囲に興味を持たず、自分の事にも関心がないように思われた。自分の食事も忘れ、エヴァリも食事を与えられなかった事もしょっちゅうあった。
 それでも気紛れのように与えられるもので成長し、自立するようになったエヴァリだったが、母はいっそう空虚に落ち込んでいくのを感じていた。
 崩壊の時は必然やって来た。
 母が悪魔に魅入られた。
「首を、絞められました」
 喉をさすった。あの時の感触が忘れられない。生暖かく固い力が喉を締め上げるのを。
「息が出来なくて苦しくて、言葉も出なくて、それでも必死に抵抗しました。私は若くて、母は大人でしたけれど病人のように痩せ細っていましたから、突き飛ばす事が出来たのです。私は後から、母が村人を三人殺し、他にも人を襲ってから私の元へ来たのだと知りました。私に抵抗された後、まるで最初から決めていたように、そこにあった刃物で自分の喉を掻き切りました。私に見せつけ、」
「もういい」
 天使は遮り、エヴァリは口を閉じた。
 後は大人たちが片付けた。人々は、母は悪魔に憑かれたのだと、この荒れ野で悪魔に魅入られたのだと言って、死体を亀裂の奈落に放り込んだ。
 そうして娘であるエヴァリを恐れ、忌み嫌い、最後は憎んだ。だから人身御供に、生贄に選んだ。そのエヴァリを天使の世話役に命じたのは、天の御遣いに悪魔の子を裁いてもらおうという目算。エヴァリが少しでも悪魔の片鱗を見せれば、容赦なく裁かれ、天使が裁いたという正義を手に入れる事が出来、自らは手を汚さずに済むという人間の醜い目論み。
 彼はエヴァリの話を聞いて後悔しただろうか。見ただけでは分からなかった。初めて誰か他人に話したので、どうしていいかエヴァリには分からなかった。
「お前は悪魔の子じゃない」
 天使がそう言った時、エヴァリは一瞬呆然とした。
「天使でもない。お前はただの人間だ」
 優しい表情。しかしただ無条件に許そうというものではなく、自分の考えと感情の上で自分が許すのだという自己中心的なもの。
 エヴァリの心に何か射し込んでくる感触があった。嬉しい、と思った。強ばりが――長く閉ざされ、歪で傷だらけだった強ばりが、解けていく。
 私は大いなる存在に救いを求めていたわけではない。ただ一人の誰かにそう言ってもらいたかったのだ……。
「恐ろしいのです」
 エヴァリは心を口にした。
「私の中には悪魔がおります。母は悪魔に魅入られた。私にもその狂気がないとは言えません。ただ……」
 笑った。泣き笑いにも見える顔になった、と思った。
「あなた様が言うのなら、私は人間だと思って良いのですよね?」
 天使が黙ったまま手を伸ばし、髪に触れ、頭を撫でたので、エヴァリはそれに甘えた。胸に顔を埋めると、目から涙が生まれた。誰かの胸に縋った事、その胸で泣いた事はこれが初めてだった。
 何もないと思っていた心で溶け始め、生まれくるもの。
 胸はきちんと温かかった。



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