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 少しの時間が過ぎる。寄り添うような二羽の鳥の囀りが聞こえていた。
 優しく撫でる手はエヴァリが泣き止むのを感じて絶妙なタイミングで止まった。代わりに自分の髪を掻き上げる。
「……慰めたら喉が渇いたな」
 その呟きは何気ない風を装っていた。
 エヴァリは顔を上げた。笑っていた。涙の跡は全くなかった。
「はい」
 彼から離れると水を注いで手渡した。天使はこれにも顔をしかめた。
「不味い」
「我慢して下さいませ」
 そこでふと疑問を尋ねてみる気になった。
「天使様は、喉の渇きや空腹感、眠気を覚えるものなのですか?」
「いや、普通は食事も睡眠も必要としない」
「それでは、何故求められるんです?」
「俺が好きなだけだ」
 想像通り平然とした答えが返ってきて、エヴァリはふふと笑った。素直ではないのだ、と少し彼を知った気持ちになった。素直ではないけれど、優しい人。
「ではお食事をなさいますね」
 素早く用意を始める。食料は夕べの内に村人が持ち寄ったのだと思われ、昨日とは比べものにならないほど倉庫が充実していた。村人には贅沢と言われる肉や上質の酒があったが、それでもきっとあの人は不味いと言うのだろうと用意しながら一人で笑った。
 想像通りの一口含んでは不味いと言う食事をすぐに終えると、天使はエヴァリに服装を整えさせて、肩布を掛けて外に出た。太陽は随分高い所まで昇っていた。
「何故飛ぶんです?」
「飛ぶ方が天使らしいだろう」
 案内に命じたエヴァリの後ろで、少しの高さで羽ばたいていた。エヴァリはなるほどと納得して、二人でそう広くはない村とその周辺を歩いて回った。
 村人は普通に仕事をしていた。畑に出て、井戸で水を汲み、家畜の世話をする。擦れ違う時にエヴァリが挨拶するのを胡乱そうに見て、「悪魔の子が」と吐き捨てて通り過ぎていく。エヴァリは後ろの天使を窺って、村人を心配した。
「天使様がここにいらっしゃるのに……」
「見えないようにしているからな。その方が真実の姿を見る事が出来る」
 そして「やっぱりお前は見えるんだな」と呟いた。
「いつもあんな事を言われているのか」
「まあ、挨拶のようなものです」
 天使は眉間に皺を寄せていた。エヴァリの何事もないような顔が本心のものだと分かったからだろうが、エヴァリにはそれが分からなかった。長い睫毛を伏せる横顔をじっと見ていた。
「哀れだな、お前は」
「哀れ?」
 ぽつりと言われた。エヴァリは驚いた。
「そんな事を言われたのは初めてです」
 哀れまれる事など何もなく、当然だと思っていた。新しい自分を見つけてもらった気がして、嬉しかったので笑顔になった。
 天使の顔が今度は気まずげなものになり、居たたまれないとばかりに顔を背けてさっさと進み始めてしまった。エヴァリは慌てて続く。嬉しいと感じたのは、悪い事だったのだろうか。
 天使は畑の方へ行くと急に空高くへと舞い上がり、旋回を始めた。見えないようにしていると言いながら、ここではそうしていないようで、畑に出ていた人々は天使に気付いて手を組んで祈り始めた。これは村人たちに対する見ているというパフォーマンスなんだ。エヴァリはすぐに理解した。
 天使は降りてこずそのまま遠くへ向かったので、エヴァリは走って追いかけねばならなかった。村を離れて遠くへ行く。エヴァリはそれ以上行けなかった。目の前に、大地の亀裂がエヴァリを拒んでいた。
 滑るように、鳥よりも優雅な羽ばたきが一度、二度。荒野の空へ昇っていく。白い翼はエヴァリを置いてみるみる内に小さくなっていった。
 エヴァリはひたすらに見つめ続けた。天使が、天へ帰ってしまう。私を残して行ってしまう。
「……いかないで」
 嫌だ。
「置いていかないで……!」
 初めて駄々を捏ねた。置いていかないでと。母にも言った事がない望みを口にした。置いて行かれてしまう事は初めての経験で、自分ではよく分からないまぜこぜになった感情が涙を生んだ。
 天使らしくないのに、誰よりも近く感じられる彼が帰ってしまう事は、これ以上なくエヴァリを震え上がらせた。この心の震えようは身を切るような感覚と心を失う怯えだった。
 うっすらと涙を浮かべ始めたエヴァリを笑うように、白い翼はゆっくりと降りてきた。エヴァリに気付いたのか、こちらに向かって。
 エヴァリは息を吸い込んだ。目を奪われていた。青い空に輝く大きな白い鳥。祝福の鳥はみるみる内に変化するように人の形を取り、エヴァリの前だけに天使として降り立った。翼をいっぱいに惜しげもなく広げ、羽根が祝福のようにこぼれ落ちる。清らかな光が射し込んでくるのは現実なのだろうか、それとも夢を見ているのか。
 思わず降りてきた彼を抱き留めるように手を伸ばしかけ、しかしはっとして両手を組んだエヴァリを、天使は訝しそうに見つめた。
「どうした」
「あ……あなた様が天に帰ってしまわれたのかと思って……。でも私の前に戻ってきて下さって、私の前だけに降り立たれたように思ったんです」
 目が潤んできたので拭った。
「降りてきて下さって、良かった」
 随分感情が揺れている。まさか自分が涙ぐむ時が来るなんて。恥ずかしくて誤魔化すように微笑むと、天使は「大袈裟だな」と言って呆れたような、しかし確かに愛情を持って微笑した。その一瞬にはっとなると、彼はすでに荒野に目を向けていた。
「……何もない土地だな。どこまでも何もない」
 空から見てきたのだとエヴァリは知った。
「はい。そういう土地なのですね。見捨てられた土地……」
 何も与えず、何も与えられない地。冷たい風が吹いて、人を蝕んでいく。独りにする。
「哀れだな。俺がいるから少しはマシになるだろうが、再生は無理だ。それこそ天の主の祝福がなければ」
「はい? 天の主はあなた様をここへ遣わしたのではなかったのですか?」
「偶然だ」
 目が遠くへ向けられたままなのは後ろめたさからか。
「たまたま降りてきたらあの場に遭遇した。全部はったりだ」
「まあ」
 エヴァリは目を見開き、天使を見つめた。
「祝福はないが、滞在している間守ってやる事は出来る。天使が纏う聖気が、周辺を少しは良くするだろう」
 天使はちらりと目だけでこちらを見た。
「幻滅したか」
 その声がどうしてか心細いように聞こえて、エヴァリはゆっくりと、穏やかに首を振った。
「あなた様は私をただの人間だと言って下さいました。悪魔の子と呼ばれた私に、触れて下さいました」
 どうして幻滅出来るだろう。優しく触れてくれたこの人に、愛おしさと慕わしさを感じこそすれ、悲しいと思う気持ちなど欠片もなかった。彼の乱暴な口調を知っている自分に、彼が触れてくれた自分に、優越感と喜びを持っている。彼が本当を見せてくれた自分を特別だと思ってしまうのは行き過ぎだろうか。
 あの優しい手を思い出していると、天使は再び手を伸ばしてエヴァリの頬に触れた。エヴァリは眼を閉じて感触の一粒一粒を刻みつけようとした。
 言葉が聞こえる。『お前は悪魔の子じゃない』『ただの人間だ』『いくらでも触ってやる』『俺が触りたいから触ってるんだ』
 エヴァリは目を開けて瞳で問い掛けた。
『触っても良いですか』
 天使が頷いたように思ったので、エヴァリは頬に触れる右手に、そっと左手を沿わせた。
 手の甲が手の平に触れる。自分の指の長さでは彼の指先まで届かなかった。荒れた人間の手で滑らかな天使の手に触れる事は罪が重い気がしなくもなかったが、手を重ねたまま、夢を胸に抱いた。
 彼がこの手で抱き締めてくれる。このまま引き寄せて口づけを落としてくれる。そして――愛を告げる。
 荒れ野の風が触れていった。いつもは冷たい風なのに、この温かさは何だろう。
 幸福な夢を見た。触れてくれる以上の望みを抱いて、その罪深さに唇を噛み締めた。
 天使の手が離れる気配がしたので、エヴァリは未練がましいところは見せずすぐに手を下ろした。
「……腹が減った」
 天使が呟いたので、エヴァリははいと笑って返事をした。



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