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 鏡の前で固い毛の櫛で髪を梳き、肩布を椅子にかけて寝間に向かったときだった。誰かが訪れる気配がし、応対に静かにネイサが下がるのに耳を澄ませていたが、戻ってきた困惑顔の女官は、何故か男を伴っていた。
「今日はもういいですよ。おやすみなさい」
 礼儀のように目を伏せた女官たちを下がらせたのは、主であるいちるではなくその男だ。いちるは眉を動かし、こちらを窺いながら退室していく女たちを眺める。そうして目の前に残った者を、腕を組み、傲然と顔を上げ、見下ろすようにした。
「何故ここに来る?」
「え?」
 心底驚いた、という顔と声を露にして、アンバーシュはいちるの顔を見つめた。いちるは答えを待った。待ったが、何を言うかを察して、顔を歪め、引きつらせた。アンバーシュは、しょんぼりと肩を落とす。濡れた犬の風情。
「ええと……」
「馬鹿、言うな、喋るな、口に出すな! お前っ……」
 さも当然という態度でやってきたくせに、いきなり殊勝になる。確かにいちるはアンバーシュを受け入れ、夫婦の形を公表できる立場にしようと働きかけた。だが、まさかその前に、関係を日常に反映させるとは思わなかったのだ。それは公私の混同になる。明確な立場がなければいちるの足下は危ういものだが、なにものでもない立場の者を贔屓にすることは外聞が良くない。
 苛々と指で己の腕を叩きながら、足踏みをし、何を言おうかを逡巡した。お前、の口を動かすが、的確な言葉が出て来ず、悄然といちるの沙汰を待っているアンバーシュに言えたのは。
「この、変態」
 という可愛げがないが間違ってはいない台詞だった。アンバーシュは大袈裟に嘆いた。
「うっ、ひどい……! 花嫁と一緒に寝たいだけなのに……!」
「まだ婚約者だ! 寝たいだけなどとほらを吹くな! 婚姻の儀がまだなのにこんなことではつけ込まれるぞ」
「側にいたいという気持ちと立場を天秤にかけろと? どっちが大事かは分かるでしょう?」
「理解できるとも。取り返しのつかないことは存在する。わたしのことでお前が失う信頼や尊敬は、二度と戻らないだろう」
 アンバーシュはゆるりと笑った。少年のごとき我がままを見せた後、この男は嗜虐的嗜好のある強者に変じる。腕を組み、首を傾けて斜に構え、いちるの眼差しを受け止めた。
「上手くやれないとでも?」
 いちるは溜め息をついた。
「準備を進めているのだ。これ以上の立場は望まない。わたしはお前に連れて来られた東の女で、お前の婚約者となって、後に王妃に、花嫁となることになった。すべて順調だ。予測不可能な事故、突発的な問題でも関わらないかぎり、わたしに与えられる立場は揺るがない」
「政略結婚ゆえに愛がないと言われるのは我慢ならないんです」
「事実と周囲の認識が常に重なっているとは限らない。この場合、誤認であったとしてもそれは駒の一つに変じて、わたしたちに何の不利益はもたらさない」
 深く、アンバーシュの笑う息があった。
「小賢しいな。一緒にいる理由をつけるのにそこまで持ち出すんですか?」
「己の立場を知れ、と言っている」
 アンバーシュもまた腕を組み、いちるを見下ろした。そうすると、男の肩や胸の厚みが増し、いちるはか弱い女になったかのような気がする。
「愚かしい振る舞いは嫌いだ」
「だったら、あなたの知らない札を切りましょう。――先日、シストラ公爵から縁談の話をいただきました。相手は公爵の令嬢の一人、エリスラーナ」
「…………」
 いちるが黙ったのをいいことに意気揚々と続ける。
「東の娘を娶るなら、国内の者と結婚するのは国王として国を治める義務にもなりましょう、というのが相手の言い分でした。十年ぶりくらいに聞きましたよ、あのだいっきらいな言い分。あなたがただ人じゃないので、娘を差し出すことを考えても黙っている人間も多かったようですね。今回、俺が公爵に答えたのを、周りの者は戦々恐々と聞いていました」
 演者のように、アンバーシュははっきりとした声でそう言いながら、落ち着かず歩き回った。苛立っていた。そのシストラ公爵は、この男にとって許されない言い分を口にしてしまったのだろう。
(仕方がないこと。あの娘は、ただの人だった)
 思い合ったかつての恋人を側に置いた、その重責がその娘を壊した。アンバーシュが厭うのはそれだ。身分差、権力志向、自由を奪う責任と役目で絡められるのを嫌う。
 代わりの者は誰もいないから選んだのだ。いちるは、選ばれた。
 分かっていた。だが、何と答えたのかと尋ねるのは負けた気がした。大人しくアンバーシュの言葉を聞く。
「分かりますか。あなたの立場は、約束されているように思えて疑われているんですよ」
 下に見られるのは嫌いでしょう、と、男はいちるを誘惑する。顔を覗き込むようにして、囁く。その顔は、いちるの答えを知って笑っていた。
「あなたでなければならないのだと、他の者にも思い知らせなければ。高望みを抱き、もしくは抱かされて、不幸になる者が現れる」
 いちるの頬に手を滑らせて、髪を後ろにやると頬に口付ける。軽く。触れるようにして。いちるが瞼を伏せると、囁きが触れる。
「だから、はっきりさせておきます。あなた以外には目もくれないと」
 溜め息した。呆れたのだ。
「同じ床につくだけでこうも長く話すことがあるのは感嘆する。……言っておくが、わたしは寝たい時には寝る。お前など顧みない」
「いいですよ。寝られるものなら」
 にっこり。俯いていたくせに今度は玩具を見つけた犬ころの顔だ。しかも子犬とは違い、どれほどで玩具が鳴って、壊れるか、熟知しているというえげつなさだ。とにかくいちるは布団へ潜ったが、隣に男が滑り込むのに、背を向けた。
「慣れない?」
「慣れるものか」
 いちるが触れる位置に誰かいる寝床についたことは、先だってが初めてなのだ。背中に相手の感触がある。それが伸びて、いちるを抱える。後頭部に男の顔の辺りが当たっている。
「アンバーシュ」
「何もしません。ゆっくり、おやすみなさい。優しい夢を約束します」
 抗議は、柔らかな眠りの誘いに打ち返される。いちるは肩の力を抜く方法が分からず、しばらく身じろぎしていたが、やがて寝づらいのだと気付き、仕方なしに仰向けになった。アンバーシュの眼差しが、同じ枕だというのに上から注がれる。男の指が、いちるの頭を転がすように撫でる。
「毎日来るつもりか」
「仕事が立て込まなければ。……正直に言うとですね、顔を見るのだけでも足りないし、話すのだけでも足りないんですよ。触れて、ちゃんとそこにいると分かるようにしないと、心が切り刻まれるみたいな悲鳴をあげるんです。ひとときも我慢できない。あなたを抱きしめたくてたまらなくなる」
 この近さ、夜の静寂に憚って囁かれる声は熱そのもので、いちるは首を竦め、男の胸を押した。「近い」と呟けば、もっとアンバーシュはいちるを抱き込んだ。
「寝るのだ、わたしは」
「これは刷り込みです。この胸の中でなければ眠れなくなるようにするために」
 冗談か本気か分からないくすくす声が胸を伝ってくる。いちるは抵抗を諦め、目を閉じた。休みたかった。眠りに落ちれば、このわずらわしい胸の騒ぎから逃れられる。
「アンバーシュ」
「はい」
「……おやすみ」
 その言葉でやり取りを終うつもりで言った。
「おやすみ。イチル」
 そんなつもりはなかったのに、今までのやり取りでは聞けなかった嬉しくてたまらないという答えが返ったので。
 いちるは、やむにやまれず、とアンバーシュの抱寝を許容することにしたのだった。

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