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引きこもりがちな己を意識して、いちるはなるべく外に出ることを心がけている。その方が人の口に上りやすくなるからだ。異国の女に注目している者たちの好奇心を十分に満たしてやるため、今では勝手気ままに城の中を歩き回っている。それは一度だけ、「必要でなければ官僚の執務部屋へは行かないでくださいね」とやんわりとアンバーシュにたしなめられた。彼らが萎縮してしまうのだともっともらしい理由を付けていたが、正確には邪魔してほしくないという意味だろう。女が政に口を出してほしくない男は大勢いる。東も西も変わらないことだ。
ゆえに、いちるの生活は退屈かつ緩慢で、アンバーシュの挙動に目を吊り上げることがなければ、平穏そのものと言えた。どんな書物も手に取ることができたし、どんな奇抜な装いをして周囲から眉をひそめられようとも、誰もいちるに罰を加えようとする者はいなかった。しかしそれは、正式に表に出ていないだけという見方もできる。まだ、宴らしき場所に一度も招かれたことがなかった。
だから、今、いちるの世界は、光あまねく真昼の場所にある。
中庭の、ちょうどよく茂った木の下で文字を食むのが好きだった。昼中を過ぎると影が伸びて、木漏れ日も頁の上から退いた。初夏の風は涼しいが、今日は少し温い。そろそろ暑くなってくるだろう。だが、この国の衣装は袖や裾を隠すのが主なので、少々苦労するかもしれなかった。
(一年が、まだ遠い)
それでも、もう数ヶ月だ。東にいたのは、まだ冬の前だった。東はどちらかというと冷たい気候で、地上には雪が積もっていた。焦る足下が凍っていてよく滑り、白く吐いた息が薄曇りの空にかかって消えた。明るく雷光が閃き、そして。
膝に重みを感じて本を上げる。まるで、霧から形を生じさせたように、知らぬうちにフロゥディジェンマがいちるの膝に頭を置いていた。
「エマ」
ぱちりと目を開いて、反転し、俯せた状態からいちるを見上げる。いちるがそれ以上何も言わないので、再び仰向けになって寝転がってしまった。しばらくそのまま、本を持ち上げて読み進めていたが、疲れてくる。フロゥディジェンマの頭の上に背表紙を当てるわけにはいかず、仕方なしに本を置いた。
目を閉じた少女は、まるで丁寧に植えたように睫毛が豊かだった。それだけで頬にきらびやかな影が出来る。もつれた髪をほどくように手櫛で梳くと、ぴくりと動いたが、心地よさそうに鼻で息をした。
「……なんだ」と声がして、二人目が現れる。
「上から見えたので来てみたんですが、エマに先を越されましたね」
アンバーシュだった。笑いながらいちるの隣に、当然という顔で腰を下ろす。あぐらを組んで覗き込んでくるので、いちるは身体を遠ざけながら嫌な顔をした。
[執務は]
「休憩です。教育大臣の認め印待ちです。彼、今すごく忙しくて、書類が回ってないみたいなんです」
最後にまとめて見た方が効率がいい、だから急がせていない、と言うアンバーシュは、お気楽そのものだ。ふと上を見上げて笑うので、いちるは呟いた。
[お前が来たおかげでうるさくなったではないか]
「印象づけるいい機会でしょう?」
笑った顔を近付けて囁く。
この距離では上から見れば、被さっているように映るだろうなといちるは冷静に思った。建物の二階から、何人かの人間が興味深そうにこちらを覗き込んでいる。官僚もいれば下働きの者も、たまたまやってきていた貴族も。しかし彼らの存在よりも、いちるは膝の上を気にした。
[エマが見ている]
「寝てますよ」
[そうでなくとも教育に悪い]
「ヒューフの認可印はもらえないでしょうねえ」
くすくす、と吐息が鼻にかかる。くすぐられたように感じて鼻の頭に皺を寄せた時、アンバーシュの唇が掠めるように触れていた。
いちるはじっくりと言った。
[お前の惚けた頭に、錆びた釘を叩き込んでやりたい]
「おや、あんまり嫌がりませんね。どうして?」
慣れたからだと言えばつけあがるだろう。いちいち赤面するのももう飽きただけだった。どうせ、何を言おうとも臆面なくこの男は触れてくるのだ。
[仕方なしと、受け入れたまで]
傷ついた顔は無視した。後味の悪いものが、いちるの口の中にも広がった。無意識に広がった渋面を逸らし、木葉の間を風が吹く音に気を紛らわす。
日常の音の中に、二人の沈黙が漂う。本を置いた分だけ近く、遠い距離に、どちらも動かないままでいた。
愛想のない物言いをしていると分かっている、その埋め合わせのようにそこにいるいちる。アンバーシュはどうだろう。それこそ、仕方がないと受け入れて、苦く思っているのか。この男もまた、いちるに対して後ろめたいことが山ほどあるからそうしているのだ。
失敗した結び目のようだ。固く寄り合わさっているのに、こじれて解けぬ。
いちるはふと気付いて、目を上に上げた。少女の姿から獣の姿に変じたエマがいた。まさか、何か変事か。
「エ……っ!?」
言葉を失う。フロゥディジェンマが、急にいちるに襲いかかるようにしてのしかかってきたのだ。声を上げる間もなく仰向けに倒れてしまう。
混乱するいちるに、銀の獣は赤い目を輝かせてからいちるを大きな舌で一嘗めすると、身を引いてあっという間に姿を消してしまった。
平和な木漏れ日が、影と光の波紋を描いている。
ちょっと何が起こったのか分からないでいるいちるは、フロゥディジェンマが何をしたかったのか考えようとしてみる。
(空気を察知して、それを修復しようと試みた……のか?)
それで、どうして押し倒されたのかが分からない。
「……えーっと、イチル? 起きてもらって、いいですか?」
「っ!?」
耳のすぐ近くでアンバーシュの声がした。
仰向けに倒されたいちるを支えるために巻き添えを食ったアンバーシュが、途方に暮れたようにいちるを抱えている。
「嫌でなければ、そのままでいいんですけれど」
[馬鹿を言え]
反転した。すると、アンバーシュの上にいちるが乗っているようになった。自由を奪われたアンバーシュが、逸らしていた顎を引いて、お手上げだと言わんばかりに困って笑っている。
――ぞわりと、腹の中で何かが湧いた。
「…………えっと……イチル? どうして、そんな悪そうに笑うんですか? イチル? ちょ、なっ!? 止め――!!」
きゃー、と、悲鳴が高く。長く。
騒ぎがあったと聞いて、事の次第を確認しに走ったネイサとジュゼットは、前方から同じ顔をしたエルンスト・バークハード宰相補佐とクロード国王補佐に行き会った。目的の場所はやっぱりと言うべきか、中庭の一つだった。
到着した時、女官たちは、ちょうど暁の宮の主と出くわした。乱れた髪を無造作に払い、裾を叩いている。いつもは青白い頬が、興奮直後の紅潮で染まっていて、ネイサは嫌な予感がして背筋をぞっとさせた。まさか。こんなところで何を。
「ひ、姫様……」
「声を出しすぎて喉が痛い。飲み物の用意を頼みます」
「あ、はい。かしこまりました」
不思議に思いつつも冷静に答えたジュゼットに、ネイサは恐ろしいものを見る目をする。
「なんでそんな冷静なの!?」
「え、だって……」
あれ、とジュゼットが差した場所。中庭の木の根元に、エルンストとクロードが駆けつける。あいたた、と腹部と腰を押さえて、疲れた中年のように、彼女たちの王が起き上がる。
「だって、聞こえてたのって笑い声でしょ? 仲いいよねえ」
そこへ「すみません」と声をかけてきたのはクロードだった。
「姫に言伝をお願いできますか。『ちょっと手加減してやってください』と」
「な、何があったんでしょう……?」
びくびくしながら聞くと、クロードは眉を掻いて。
「どうやら、かなり手酷く」
「手酷く」
「――くすぐられたようなんです」
「………………」
クロードが困ったように頬を掻いている。
「あれでも、アンバーシュは脇腹がすごく弱くて、それを重点的に」
ネイサもジュゼットも動きを止めた。ゆっくりと、中庭から出てくる王を見る。しくしくと泣き真似をしている傍らに、これ以上なく渋面のエルンストを連れているところで、ネイサは己の主が満足げに笑む顔をすぐに思い浮かべることができた。
「ひどい……弄ばれた……」
「外聞が悪いのでそういう言い方は止めてください!」
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