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[弱い]
 言ったのはオルギュットだった。風が収まり、残された夜の中で、膝をついたオヌを支えて。その通りだと思った。どれだけ泣き叫ばなければならないかは、消滅した魔の女が物語っている。魔物ですら痛みを叫んで滅するというのに、欠片を合わせた時の苦痛を思いはかれぬわけがなかった。
[離シテ]
 少女が割り込んできた。オルギュットの代わりに、オヌをぎゅうっと強く抱く。彼女からの親愛もまた、失われた部分なのだろうか。今、男の手に輝いているもの。
[記憶を戻すと、すべて忘れるのか?]
[感触は薄らぐが残るだろう。どのように合わさるかは例を見たことがないので分からない]
 そんな技を使うまでに彼らは切迫していたのだろうか。そうせねばならない理由があったとするならば聞いてみたかったが、それは後回しでいいだろうという気がした。
 オヌは手を出した。







 なんとなく、感じられる方向へと足を進めた。人は直感や勘という言葉で言い表す。目的のものがそこにあると感じられるなにがしかの感覚、きっとそうだろうという研ぎすまされた推量。磨けばそれは技になる。一方、感じ取れぬ者も多いため、偽りが跋扈する。偽称はなかなか暴かれない。真の者は己を異端と知るために秘匿し続けるものだからだ。
 シーベルの谷は、青い光に満たされている。田畑は風に合わせて波打ち、緑の草木は色付きの紗を被せたように、すべて碧色で覆われている。土の色は青黒く、石の色は青白く。そして、谷の果てである海は、深度ゆえに不透明な青い水をたたえて、月の光を揺らがせていた。
 手を挙げて、後ろをついていた少女に待っているように告げる。少女は聞き分けよく頷き、坂の家へ戻っていった。
 白い砂を踏んでいく。足が進まない。靴の中に細かな粒子が入り込むので、それを脱ぎ捨てて裸の足で行くことにする。波のざわめきが優しく耳をくすぐる。世界に初めて触れたような清々しさを覚えて、顎を上げて進んだ。海風の髪が強くなぶられる。水音は静かなのに、遮るものがなければこんなにも風は強く吹く。
 波打ち際まで来た。足の下で砂が滑る。波に運ばれてきたものが、誰にも忘れられたかのように捨て置かれている。乾いた木材、千切れた海藻、誰かが捨てた果実の皮。
 さらに進んでいく。波が、ふくらはぎへ、膝へ、腿へと寄せる。そこまで来ると手も手首くらいまで濡れ、前へと掻かねば進めなくなった。なおも先へ行こうとして、前後に振っていた後ろの手を取られる。
「何をしているんですか」
 お前こそ何をしているんだと言うべき男が、引き止めていた。顔を背け、進もうとするが、強く腕を引かれる。
「入水でもするつもりですか。止めてください」
 波が身体を打つ。掴まれた手が濡れる。氷と間違うほど水が冷たく感じられ、目に染みてくる。なんて冷たいのだろう。冬は遠くなり、季節が変わっていくというのに、この身体はまだ凍えている。
 腕が突っ張るほどに進んでも、アンバーシュは手を離さなかった。
 ついに海面を叩いた。何度も。激しく。水が跳ね飛ぶ。
 アンバーシュの視線が、濡れた身体に向けられ、息を呑むのが分かった。薄い素材のドレスは、濡れたことによって肌身を透けさせている。濡れた腹部に、黒い文様が見て取れる。
 呪いは、在るべきところに戻ったのだ。
[お離し]
「……嫌です」
[この期に及んでお前が言えると思うてか]
 鼻で笑ったが、すぐに怒りに変わった。
 いちるはすべてを覚えている。この男が何をしたのか。自分がどのように感じたか。そうして今ならば、アンバーシュがどのように思考を辿ったのかすら手に取れる。
[入水すれば行けるかもしれぬな。大神が欲するアガルタとやらへ]
 アンバーシュの表情は変わらなかったが、わずかに青ざめたように思えた。
 いちるの唇は震えた。
[愚かすぎて責める言葉も、浮かばぬ]
「…………」
 悔いていることを知りながら、それでも言わずにはおれなかった。
[東へ戻れと言うならば戻ろう。顔も見たくないのなら。妾も不快な思いをせずに済む。誤りだったのかもしれぬと思い続けるくらいならば、いっそ無しにすれば心地がよかろう。清々するぞ]
 残された時間をこの男のためだけに使う謂れはない。
 どんな痛みを覚えたとしても。
[我々は生き物なのだ。生けるものは進み続ける。お前は妾を忘れて、別の誰かを見出すことも可能じゃ。お前にはその時間が有り余って存在する]
 選ばれなかったことにして忘れることはどちらとも出来る。
 例えどれほど苦しかろうとも。
[一言発すればいい。それで何もかも終わる]
 お前ではなかったのだと――例え、忘れられなかったとしても何度思い返すであろうことが分かっていても思いやつれて苦しむ顔を見るくらいならば、その方が永遠になる。
(言えばいい。言えば、それで終い。だというのに)
 告げればいいのに出来ないでいる己こそ、臆病者だ。
 一度手に入れたものを、この手の熱さ、眼差しの甘さを、吐息を、囁きを、全て受け取って、満たしてしまったから、もう離れられないものになってしまった。こうしている間に抱き寄せてくれれば、言の葉を封じて身を委ねられるのに。有無をも言わさず連れ帰れば、朝が来ればなかったことにしてやろうと考えられるかもしれぬのに。
 わたしではなかったかもしれない。
 だが、わたしにとっては。
[後悔したのか。妾を選んだことを]
「いいえ」
 答えはすぐさまもたらされた。
 視線が静かに絡み合う。
 背を向けて逃げたはずの弱い男は、今は強く、いちるの手を捕らえている。
「――あなたがくれるもの。触れる手も、熱も、眼差しも。激しい言葉も感情も、深く傷つくことでさえも、大切で」
 瞳が溶けていくように、光を零していく。
「あなたがくれる喜びも傷も何もかも一緒くたになってしまって、何を愛していると、言えないけれど。でも、あなたと共に在ることで生まれるものを、愛おしいと思うから」
 いちるの唇がわなないた。
「あなたが――身体も、魂も、記憶もすべて。欲しくて、今もたまらない」
 力が抜けた隙だった。アンバーシュはいちるを抱き寄せると、かかる髪を耳の方へ押しやって、頬を包みながら口づけた。伸ばした手で彼の頭を抱えながら、ねだるように身体を押し付ける。
 肉体。
 魂。
 記憶。
 そのどれもがいちるで、どれが欠けても成立しない。しかし、すべてを抱えてくれるのならば、その一つ一つを異なる形で愛されるのならば、それは。
「わたしの、すべてを?」
 知り得ぬ感情で泣いていた。欲しくて、足りなくて、何度でも奪いたいと思う。アンバーシュはそこにいて、自分のものだというのに、触れてもまだ満たされない。息が詰まるほどに抱きしめ抱きしめられながら、口づけを交わす。
 抱擁がきつくなった。
「――許して」
 逃げるのはこれで最後。その呟きはひりついて火傷の跡のようだった。欲する思いに忠実であろうとするには、この男にも少し時間が必要だったのだとそれで知った。いちるはわずかに瞼を開き、男の苦痛が瞳に現れていることを知る。満足と、安らぎを覚え、囁きに思いを込めた。
「失いたくないのなら」
 息を継ぐ狭間で響くかすかな声。
「離すな」
 アンバーシュは、いちるの薄い肩に顔を埋めた。

「――ありがとう」







 吐息が肌に触れる。何だと顔をしかめる。不和は繰り返し触れ合うことで解消されていった。お互いの思いを確認しあうことができれば、もう考える必要はない。それが、恋と愛に溺れるものの一時だけの蜜月だと分かっていても。
「わたしでいいのか」と捻くれたことを尋ねた。
「……ちょっと分かってきました。あなたの、何故、どうしてという問いかけは自己防衛なんですね。考えさせる時間を与えて、その間に逃げようとするんだ。今も、ちょっと逃げたいなと思っている」
 鼻で笑い飛ばす。そうだとしても、それはついさきほどまで戻ってきていたオヌと呼ばれる女が持っている怯えだ。
「答えていない」
「信じろと言う方が無理ですよね。困ったな……自業自得なんですけど」
 その通り、いちるは何度か振り回され、裏切られている。しかし少しもその素振りでないのは、ずいぶん余裕なことだった。
 どうしたんだろう、と男は呟いた。いちると、その彼方にある何かを見つめて。
「……どうした」
 こんな気持ち、久しぶりだ。笑みの端から、そんな言葉が生まれでる。
 零れたものを拾い上げて、いちるは抱いた。目を閉じると、言の葉の寂しい名残が唇に触れ、いちるはそっと、与えるように顎を逸らした。
 眠りを誘う呪文のように、アンバーシュの声が降ってくる。
「今……幸せで、嬉しくて。あなたが、これ以上なく、大事でいとおしい」

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