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 次に目が覚めると真昼だった。朝に鳴く鳥の声は人の眠りを呼び覚ますべく優しいものだが、昼中の鳥は処構わず賑やかに鳴き交わすので、目が覚めた瞬間に時刻が分かる。ぐったりと寝台に横になっていたいちるは、ひたすらに呻いた。
 このままでは、いけない。何もかもがアンバーシュの思いのままになっている気がする。
 結婚は、勝ち負けではないと分かっているのだが、優位に立ちたいという気が収まらない。ただ、任せるのもいいかと考え始めている己が許し難い。それは甘えだ。堕落だ。こんな風に、明るい時刻に横になっているのは最たるものだ。起きねばならないと毛布を除けると、腕が伸びてきて倒された。つっかえさせた腕はもちろんアンバーシュのもので、顔を枕に押し付けながらくつくつと笑っていた。
「いい加減にしろ。わたしは起きる」
「もうちょっと。だめですか?」
「だめだ。……あらゆることを放置しすぎている。そろそろ怒らせることになるぞ」
 思い当たる人物が何人も浮かんだのか、アンバーシュもようやく身を起こした。いちるは部屋着をまとうと部屋を出て、小走りに自室へ戻る。さすがに人目につきたくなかったのだ。
 幸い、誰に呼び止められることもなく戻ることができた。着替えは、東のものを選んだ。一人で無事に身にまとえるものがそれだったのだ。袖も足下も広く取ってあるので、ずいぶんと涼しいと感じられる。
 そうして、この後どうしようかと考え、似たようなことがあったのを思い出し、呼んでみた。
「エマ? どこにいる」
[しゃんぐりら!]
 声が弾けて、少女が姿を現した。いちるの腰に抱きつくのはすでに定位置だ。
「すまなかった。一人にさせた」
[遊んデクレタ。おるぎゅっと。スズル]
 オルギュットはやはり残っていたらしい。いなくなっていた珠洲流まで戻ってきている。恵舟は彼の側にいることだろう。どう相手をしたものか考えていると、フロゥディジェンマが呼んだ。
[しゃんぐりら]
「何だ?」
[ばーしゅノ、匂イ]
 言わんとするところは明らかだった。
 いちるは、少女の肩を強く握った。
「エマ…………そういうことは、指摘してはいけない」
[何故?]
「匂いの話題というのは、禁忌だからだ」
 そういうものなのかという顔を、フロゥディジェンマはした。後ろで噴き出す声が聞こえなければ、そのまま納得しただろう。いつの間にか姿を現していたオルギュットが、顔を背けて口を抑えて身体を震わせているので、いちるは顔を引きつらせることになってしまった。
[嘘?]
「いいや、イチルは嘘をついていない。エマ、人間にとって匂いというものは本能を想起させるものだから、話題にしないのが作法だ。君には難しいかな」
[エマ、子ドモジャナイー]
 むっとしたように、だだをこねる調子で言うのが意外だった。いちるの知るフロゥディジェンマは、どこか淡々としていて、超然とした雰囲気を持つ少女神だった。子どもらしい物の言い方を初めて聞く。それは、オルギュットがまるきり彼女を童女扱いするせいだろうか。
「額面通り受け取るのなら君はまだまだ純粋な子どもだよ。匂いを話題にする会話術もある。しかし本当だな。匂いが違う」
 いちるは微笑んだ。
「あなたにはたくさん借りがあったな」
「殴って済ますより、貸しにしておいた方が得だよ。イチル」
 何が悪いと言えば、オルギュットが悪いのだ。そして実力行使できなかったアンバーシュも、逃げられなかったいちるも悪い。でもやはり最初が誰かと言えばこの男で、命じた西の大神アストラスだった。さてどのように報復すべきか。
「ならば礼を言うべきだろうか」
「必要ない」とオルギュットは撥ね除けた。何故と問う前に彼は呟いた。
「及ばなかったことを思い知らせたいのなら、礼を言うのは効果的だと思うけれどね」
 皮肉を言う気が失せる。この男もまた、何らかの方法で窮地を脱する術をこらしたのだ、と気付いてしまったからだった。アンバーシュが逃げ出したとき、つけ込むことも可能だったはずなのに、オルギュットはいちるを在るべき形に戻すことを許した。形を取り戻したいちるが、己を撥ね付けることを知りながらそうしたのは、この男なりの情だったのかもしれない。
(罪悪感? そう単純ではない、もっと絡み合ったものを感じる。妾への執着もあろうし、もしや、アンバーシュにも思うところがあったのだろうか……?)
 言い難い思いで目を細めていると、すべらかな衣擦れの音がした。オルギュットが跪いたのだった。
 美丈夫が敬虔に沙汰を待っている姿は、心臓を握られたかのような迫力があった。
「君が望めば、いつでも力を貸そう。私には常に君を受け入れる用意がある。君の剣となり、逃げ場となり、戦うことも辞さず、憩わせることも厭わない。イバーマ国主、銀夜王オルギュットの名にかけて」
 オルギュットは名とともに約定を提示した。
 これがこの男なりの誠意だとするならば、受け取らなければ名が廃る。思うところは数多くあったが、とりあえず矛先を収めようといちるは頷いた。何よりも、味方であると誓うのであれば、それは有益である。
「違わぬことを祈る」
「そう言うところが君は可愛い」
 立ち上がると手を伸べたが、思い直したかのように引いた。フロゥディジェンマが嗅ぎ取るように、オルギュットの目には何かが映ったのかもしれない。それほどまでに相手の気配は残っているものか。
(そういえば、撫胡でも麝香のようなにおいをさせている者がいたな……)
 己の体臭はなかなか分からぬのがもどかしい。
 オルギュットが楽しげに喉を震わせる。
「では、また会おう。アンバーシュには、今回のことは調べておくと伝えてほしい。顔を見るとねちねちと嬲ってしまいそうだから、それが祝儀だと言っておいて」
 それから、といちるの首元に何かをかける。
 青石の首飾り。エンチャンティレーアの宝飾だった。だが、触れても声は聞こえなかった。居ることは感じられるのだが、じっとオルギュットを見ているらしい。
「君に贈る。結婚祝いに」
[それでいいのか]
 知っているだろうに、オルギュットは住人のことにまったく頓着していない。エンチャンティレーアに問いかけると、うるさいわね、と低い声が響いた。
[……もう、解放されたいのよ……]
 レア、と呼びかけるが、答えが返ってくることはなかった。目を閉じ、耳を塞いで、やってくる悲しみや苦しみに囚われることのないよう閉じこもったのだった。そうしなければ、暗い闇が風を起こし彼女を引きずり込む。
「この宝石はいずこの?」
 オルギュットに視線を戻し尋ねると「ビノンクシュトの秘蔵だよ」と答えがあった。
 小さな女神を思い浮かべた。
 オルギュットはいちるの額に指を向け、前髪を分けると、そこに口づけを落とした。アンバーシュがする顔と同じならば、紫紺の瞳が囁きかけるのは、静かすぎるくらい穏やかな、言葉を必要としない溜め息だった。もどかしい、憐憫と情愛の光だった。
「可愛い、私の乙嫁。幸せになれるといいね」
 そして、弟を頼む、と取り逃がしてしまうほどの小さな囁きが耳を掠めた。


 オルギュットが去ると、すぐにアンバーシュが来た。「帰りましたか」と尋ねるからには立ち聞きしており、なおかつオルギュットもそれを知っていたということだ。面倒な兄弟だった。見えないところでも張り合っている。
「わたしを介するな。直接話をしろ」
「オルギュットも言ったでしょう、嫌味の応酬になりますよ。その内、口に出すのも憚られる話題に移るのは目に見えてます」
 いちるは上手に聞いていないふりをした。
「本当は、その首飾りも海に投げ捨てたいくらいです。受け取らないでください」
「物に罪はない。これは青石だ。青は、お前の色だろう?」
 アンバーシュはちょっと言葉を止めて、拗ねたようにむっとする。
「今度、ちゃんとしたのを贈ります」
「楽しみにしよう。それで?」
「話をしましょう。呼びにきたんです。珠洲流が客間にいるそうなので」
 連れられた客間では、珠洲流が座り、恵舟が立っていた。後ろについてきたフロゥディジェンマが「スズル」と呼んで近付いていく。意外だったのは珠洲流が膝をついて「何か」と尋ねたことで、目元が柔らかく見えるのは気のせいではないようだった。フロゥディジェンマは、目と仕草でしきりに「撫でて」と訴えており、珠洲流は気を配りながら、少女神の頭を撫でている。しばらく呆気にとられていたが、アンバーシュはやっと苦笑を浮かべた。
[すみません。面倒を見ていただいていたようですね。めずらしく懐いたんですか]
[好いてはいただけているようだ。それよりも、私は東へ戻らねばならない。最後の問いをするために来た]
 東の娘よ、と呼んだ。はいと答えて問いを待つ。
「東へ戻るか、西に残るか。お前が選ばねばならない」
[東の大神は何と仰せでしたか?]
 アンバーシュの問いの答えは、珠洲流にはあまり腑に落ちるものではなかったらしい。複雑そうに、不機嫌な声音で言った。
[その者の望むように、とだけ仰った]
[アストラスの企みを東の大神が感知していないはずがないので、静観とも取れますね。イチルがどちらにいても問題のない段階にあるのかもしれない]
[私は東に戻って、兄神や姉神にお尋ねしようと思う。各地におられる神獣たちも何か知っているかもしれん。ただ、どうやらこちらも古神ばかりがその記憶を持っているらしく、私のすぐ上の兄などは何も知らぬようだった]
[こちらも知っている者とそうでない者がいます。古神を捕まえられれば一番なんですが、多分出てこないでしょうね]
 味方が分からない。ただ、敵も出てこない。いちるが近いうちに何らかの手に落ち込むのを、多くの者が知って、ただじっと見ている、その薄気味悪さ。平穏が訪れようと感じながらも、じりじりと時が迫るのを感じなければならないのは、心が削られることに等しい。
 真の安寧は、もうきっとない。
 溜め息が重なり、再びいちるの元に話が戻る。
「お前の答えを聞く」
「アンバーシュの元に留まることをお許しいただきたく存じます」
 すべて分かっていたという態度で珠洲流は頷いて、背筋を伸ばした。ずいぶん下にあるフロゥディジェンマの髪をかき混ぜる。
[これで助けになっただろうか]
 こっくりと頷き、それから何かを考えるように首を傾げ、はっと気付いて頭を揺らし、言った。
[アリガトウ!]
「なんの」と見たこともないような優美な微笑みで珠洲流が言う。相手が優しいことを知って、フロゥディジェンマは、尾があったらますます激しく振っていただろうという喜びようだった。腰に抱きついたのだ。
[それでは、私は戻る]
[ありがとうございました。そちらも大変な状況だと窺っています。もし救援要請をいただければ、すぐに駆けつけます]
[太陽と月の子たる西のきょうだいとの縁を得たのは喜ばしきことだ。だが、何もないことを祈っておこう]
 いちるは恵舟にも礼を言った。
「お世話になりました。たいしたお礼もできず、申し訳ありません」
「西島を見ることができたので、十分です。ところで、イチル殿。あなたには、ご兄弟がおられるか? 両親はどのような」
 立ち入った問いだと気付いた恵舟は、いちるの答えが首を振るばかり、分からないというものだったので、しばらく考えたようだった。そうして、なんとなくなので気にするものではないですが、と前を置いた。
「イチル殿は、東の神々の顔立ちに似ておられる気がする。ただそれが誰なのかは思い出せぬので、神でなければ、あなたは正しく東人だと思います」
「美しく壮麗であられる東神に近しいと言われるのならば、誇ってもいいのでしょう。ありがとう、恵舟殿」
 珠洲流と恵舟も独自の道を持っている。外へ出ると姿が見えなくなり、家の中には三人が残された。フロゥディジェンマが袖を引く。
「オナカヘッタ」
「わたしもだ」と腹部を押さえる。飲み物以外ほとんど何も口にしておらず、あまり力が出ないのだった。アンバーシュが、大きく伸びをした。
「クロードに知らせは出していたんですが、そろそろ向こうも限界でしょうね。食事をしたらヴェルタファレンへ戻りましょう」
「おいで、エマ」
 フロゥディジェンマはふと、いちるの顔を見、アンバーシュの顔を見て、ことりと首を傾げた。足音をさせるように小さな歩幅で近付き、いちるの手を取ると、アンバーシュのところへ導き、重ね合わせる。何事かと少女の顔を見るが、どうやら観察しているらしいが何がしたいのか読み取れない。どうすればいい、アンバーシュと顔を見合わせるが、男は指を曲げていちると絡めた。
「……何をしている」
「いや、手があったんで。繋ごうかと」
 時々意味が不明になるのは、誰の血筋だろう。この男も、血縁だというフロゥディジェンマも、突然周囲に無頓着になって我を通すことがある。
「どうしましたか、エマ」
 少女はぱっと顔を上げて。
[仲良シ!]
 ――そう、言った。
 いちるは、かっと頬を染めた。少女が何を望んでいたのか思い出されたからだった。
 そして、少女は無垢な瞳で続けるのだった。
[ばーしゅモ、しゃんぐりらノ、匂イ]
 
 とうに夜を越えていた世界で、アンバーシュの笑い声が爆発した。

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