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 無惨な状態になったドレスは、惜しむことなく屑にした。裁縫上手なら使い様があったのだろうが、生憎、セイラの腕前は自分の服が修繕できる程度だ。貴族令嬢の普段着ほど、簡素かつ美的に仕上げるのが難しいものはない。夜会服は派手にすれば何でもいいところがあるが、平均的に並べて浮かない格好は着るのも作るのも最も困難なのだ。
 靴だけは磨いて泥を落とすことを決め、またこの靴に合う服を見繕わねばと思った。
「着替えにどれだけかかっているんですか」
 営舎の門前で停めた馬車の中で待っていたエルンストはそう文句を言って、騎士団の制服に着替えたセイラに嫌そうな顔を隠さなかった。相変わらず、つついてもっと歪ませたくなる、きついにおいを嗅いだ猫みたいな顔をする。
「汗だくのまま宮廷管理長官に会えと仰るのなら、半分の時間で参りますわ」
「それで香水か。デュシャンの『ネイズ』」
 銘柄を言い当ててみせた兄に、セイラは微笑んだ。
「そういうところが女性に嫌われるんですわよ」
 騎士たちの宿舎がある二の郭から、一の郭、更に城へと登る。官僚が利用する横門から入り、セイラを連れて、エルンストは迷いなく結晶宮へと向かった。神々が降臨する宮殿は、通常、宮廷管理官以外の侵入を許していない。つまり、それ以外に話を聞かれる可能性が低まるということだ。
 しかし、突き出た無数の魔石が近付くにつれて、セイラは嫌な感覚に足を止めそうになっていた。
 身体が重い。気分が悪い。中身を見られているような不快な感触がある。
「気分が悪くなっていませんか」とエルンストが聞いた。少し白くなった顔を向けると、めずらしく彼は笑った。
「私もここに来ると気分が悪くなる。才能の問題だそうだ。超常のものに対する防衛本能が高いとそうなるらしい」
「それは才能があるということですの」
「いいや。まったくないらしい。才能のあるものは、それらの負荷を逃がす力があるのだと。だがこれも訓練次第で、ある程度ましになるのだそうだ」
「分かりましたわ。つまり、鈍感であれということですのね」
 奥まで行くことはなかった。入ってすぐの部屋に管理官たちの執務部屋があり、その奥に通されたのだ。王宮の官僚の仕事部屋と変わらない、しかし窓のない一室で、白い髪を優雅にまとめ、こんな季節でも詰め襟の制服を着たロレリアは、教師か導師のようだった。
「ようこそ、バークハード宰相補佐殿、バークハード騎士団長殿」
「騎士団長の居場所をお知らせくださったこと、感謝申し上げます」
 いいえ、とロレリアは頭を振った。
「早計に過ぎた者を諌めるのは、当事者であるわたくしの責任でした。ただ、わたくしはあなた方に、他言無用をお願いせねばなりません。でなければ、生きて帰すな、と同等の脅しを頂戴しておりますゆえに」
 ロレリアが机の上に滑らせたのは契約書だった。
「わたくしは神ではございませんので……このように、呪術的な契約書を用いることにいたしました。ご不快でしょうが、お二人の安全のために、お願い申し上げます」
「あえての質問をいたしますが、このまま外に出たらどうなりますか?」
「数日後に、襲撃か毒か事故か、いずれかの方法でお命を落とされるかと」
 いったい誰の仕業だと感じる前に、エルンストが筆を持っていた。セイラは思わず低く、理性的に諌めていた。
「……宰相補佐」
「契約の文面は、他言無用を要求するものだ。それ以外に不自由はない。今までも秘匿されていたのだ、私たちが黙っていたところでそう変わりはしないだろう」
 言うなり、ためらいなく署名を終える。相手は神事にまつわる官僚だというのに、その変な肝の座り方がセイラには恐ろしい。ロレリアの静かな微笑みは、眠っているふりをする獅子だ。セイラには分かる。彼女は、神獣と同じく知性ある獣なのだ。
 エルンストが決めたのならば仕方がない。同じように署名すると、セイラはそれを机の上に置いたまま、ふと呟いた。
「わたくしどもはお約束しましたが、懸念すべきはイチル姫です。あの方は稀人ゆえに、それまでの形を思いがけず壊してしまいますわ」
 知られたくないことが明らかになることがある。いちるはよくも悪くも、ヴェルタファレンの騒動の種だった。今は、イバーマにいるらしい。戻ってきたらまた一騒ぎあるのだろう。アンバーシュが帰ってこないということはそういうことだ。
 どうやら、ロレリアもエルンストも同じことを考えたようだった。エルンストは渋面を作り、ロレリアは笑い混じりの溜め息をついた。目を合わせた彼女が笑い、さて、と表情を作る。
「騎士団長殿のお命を狙った者について、仔細は伏せさせていただきたく存じます。これより二度と触れぬとここに盟約くださったので、お二人が行動せぬかぎり、再び手を出すことはございません。首謀者はある程度の身分の者、とご認識いただければ幸いでございます」
「ワルダフット長官。長官は、わたくしが何を調べていたかご存知なのですね」
 ロレリアは深い色の瞳で微笑む。そうして、口火を切った。
「二十年以上前……よからぬことを企んだ者たちがおりました。その者たちは、ヴェルタファレンという国を我らが手に――神から人の手に戻すべきだという思想の持ち主だったのです」
 セイラとエルンストも背筋を正した。

 半神半人の王アンバーシュを戴いたことによって、譲位の発端であった混乱は収まり、国には平和が訪れた。貴族はかつての栄華を失ったが、アンバーシュは彼らからさほど権利を奪わず、特権階級として保護しつつも、責任を果たさせるために用務を課し、また、一般には才能ある者を集めるべく官僚登用への門戸を開いた、とされる。エルンストとロレリアは元々貴族出身だが、かつて庶子であったセイラが騎士団長になったのはその好例だと言える。
 そのように長きに渡って、ヴェルタファレンは他国への介入を許された調停国として在った。
 しかし、アンバーシュが唯一断固として処したのが、王家の存在だった。
「大神の意志であったと聞いています」
 エルンストの言葉にロレリアは頷いた。
「そのように伝わっております。国を腐敗させ、その国を返したのだから剥奪されてしかるべきであろうと、大神が裁きが下された記録が国史にございます」
 しかし、安寧を享受した者たちは、過信したのだ。
 この国は、自分たちのもの。その富も、平穏も、己の手で続けられるのだと妄信した。
「今日のヴェルタファレンが必要最低限の戦争、出兵で済んでいるのは、半神のアンバーシュが玉座にいるからです。それを」
「お怒りはごもっともです、バークハード騎士団長殿。ですが、考えてしまったのです。そして行動してしまった。王家の末裔だという娘に目を付け、その娘を利用しようと考えた」
 不幸な出会いだったと、ロレリアは言った。
 そんなもので済まされたくはないとセイラは思った。その娘の名を知っているから。
「不幸なことでした。娘に責はなく、陛下は何も負うことはなかった。王家の末裔の娘とアンバーシュ陛下を娶わせ、生まれた子を王位に就けることができれば、ヴェルタファレンが人の手に戻ると信じた者たちが真実、罰されるべきでした。けれど、それがそのまま成功していたらと思わずにはいられません。そうなれば、アンバーシュ様は恐らく、最後までヴィヴィアン様を慈しまれ、ヴィヴィアン様も壊れることはなかった」
「陛下が気付かれたのですか」
 いいえ、と頭を振ったロレリアは、真っ直ぐに目を上げる。
 セイラは、先ほどから覚えのある空気に戸惑っていたが、ここでようやく、あのガストール老と対面した時と同じものだと気付いた。
 机の上の誓約書を見る。これは過去を消し去るものなのか。在ったことを言い伝えながら、闇に葬るべき出来事なのか。知るべき者たちが知らねばならないのではないか。
 ロレリアが、心持ち低く、告げた。
「我らの大神。西神アストラスが、すべてをご存知でいたのです」

 ヴィヴィアン・フィッツとの結婚は認められない。何があっても。
 戻って国の者たちに告げるがいい。――我が意志に逆らう者は、我が怒りに触れることを。

 大神はすべてを語らなかった。
 伝え聞いた当事者たちが、大神の目から逃れられぬことを悟って恐れおののいた。

 この浅はかな企みも、半神王に対する排斥の思想も、何もかも見通して最終的な通告を下している……!

 万物の神に向かって牙を剥く者はいなかった。派閥は解散し、ヴィヴィアンの件は秘匿されることになった。やがて、誰も表立ってヴィヴィアンを庇うことはできなくなった。彼女は、大神から否を突きつけられたのだ。彼らは項垂れ、幸せだった恋人たちの崩壊を見た。
(そんなもののために……)
 セイラは、顔を覆うことはなかったが、口惜しさで歯を食いしばっていた。始まりが正しくなかったために叶わなかった恋なのだとすれば、やはりヴィヴィアンは被害者だった。
「アンバーシュは、知っていたのですか」
「陛下がこの件について口にされたことは一度もありませんでした。気付いていて知らないふりをなさったのかもしれません。もしそうだとするならば、ヴィヴィアン様のために口を閉ざしていたのだと考えることができます。陛下は、周囲の思惑があろうとも、ヴィヴィアン様との結びつきを離すつもりはなかったのです」
 今更そんなことを知っても。
 だが、思い直す。もし、アンバーシュがそれほど強くヴィヴィアンを思っていたのなら、簡単に手を離したりはしない。自分を、愛人として受け入れたりなどしなかったはずだった。
「それが、すべてですか」
 エルンストの問いかけに、ロレリアは「わたくしの知るすべてです」と頷き、つかの間の沈黙が漂った。時が失われるようにして、その中に消え去った者を思う時間が、しばし流れる。
 セイラは固く閉じていた目を開き、顔を上げた。
「宮廷管理長官にご報告申し上げます。ロッテンヒル西部の人家にて、魔眸の痕跡らしきものを発見いたしました。家の住人は失踪、突如姿が消えたかのようでした。――人間が魔眸と関係する場合、何か法則があるのですか」
「悪意を持つ者、嫉妬や憎悪に取り憑かれた者と一般的に言われています。けれど、わたくしの経験則を付け加えるのならば、魔眸はどこにでも目を置いて、堕ちてくる者に狙いを定めています。不幸の訪れを受けた者、この世を悲観している者などを、あの者たちは瞬く間に攫っていく。該当の地点の報告を挙げてください。至急調査させます」
 ありがとうございます、と告げて立ち上がる。
「わたくしはこれで失礼いたします。お話をありがとうございました。長官の思いは汲み取ったつもりでおります」
「わたくしの?」
「『過去はすべて、未来へ渡す。それが罪だろうと』」
 ロレリアは目を見張り、ゆるりと笑った。彼女自身の持つ、女性的で大らかな包容の表情だった。
 結晶宮を後にしたセイラは、そのまま二の郭へ下りた。今は別の騎士団がそこで訓練をしているはずだ。自分に近衛騎士団を譲り、新設の団へ移動した先代騎士団長がいることを知っていたので、直接そちらに向かう。セイラの登場に訓練中の兵士たちは礼を取ったが、適当に構って彼を呼び出した。
「オードワール殿。お聞きしたいことがあります」
「美人の呼び出しは歓迎だ。どこで話す?」
 二十歳も年上のくせに、そういうことを、まるで新米訓練兵のように軽々しく言う。クレス・オードワールは、セイラを友人として扱う数少ない男性だ。
 兵から見える、しかし確実に声は届かない距離にある営舎の影で、セイラは尋ねた。
「ヴィヴィアン様について覚えていることを教えていただきたいの。どうして、アンバーシュはヴィヴィアン様を追い出したりしたのか」
 今になって、とクレスは言わなかった。深く息を吐いて、言葉を探している風だった。恐らく、覚えていることが山ほどあるのだろう。当時アンバーシュの近くにおり、外出の際はヴィヴィアンを守ることを命じられることもあって、接することが多かった騎士だ。
 そして、何も語らなかった。――今までは。
「……あの方を取り押さえたのは俺だ」
 十年の歳月、そして訪れた変化に、彼は何を思ったのだろう。彼もまた、何かを託したいと願ったのだろうか。
 顔に深く刻まれた皺は、セイラが叙勲間もない騎士だった頃にはなかったもの。その頃、彼は団長になることも知らなかったし、それを突然セイラに譲り渡すとも知らなかった。

「あの方は、アンバーシュ王を殺そうとしたんだ」

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