第十二章
 繍毬花 てまりばな
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 帰還は、ヴェルタファレンに騒ぎと混乱、喜びなのか絶望なのか判別できない風や荒波のようなものを巻き起こした。
 早々にアンバーシュはエルンストらや大臣たちに連れて行かれ、いちるはとにかく身体を休めて後ほど宮廷管理官に健康状態などを確認されることになり、騒ぎの渦中から逃れることができた。未だヴェルタファレンの国事に関していないことが幸いし、おかげでゆっくり休息を取ることができた。
 女官三人がすぐに現れ、着替えや食事などの世話を焼く。レイチェルは開口一番、少々外征していたという風情で「外つ国はいかがでしたか」と尋ねたので、いちるは答えた。
「どこに行っても、騒ぎが放っておいてはくれないようです」

 エシ宮廷管理官長補佐が訪れ、問診をし、魔石を当てるなどして診断した結果、現在のいちるはさほど生命活動に支障はなさそうだという結論に至った。いちるの呪詛は腹部の起点に留まっており、負の力を注がぬかぎり爆発的に浸食することはないらしい。自身の見立てとも差異はなかった。
 侵蝕の緩急に不明な点はあれど、今すぐに死に至るというわけではない、ということだ。
 それからと、最後にエシは見覚えのある小箱を取り出した。
「イバーマのオルギュット王から……こちらが送られてきました。忘れ物だということでした」
 いちるは箱を開けた。
 取り出した金色の耳飾りをエシの前にかざすと、彼は大きく目を見開いた。
 それを耳に納めて、いちるは微笑んだ。
「エシ宮廷管理長補佐官」
「は、はい……?」
 肩をすくめるようにして首を傾けて微笑むと、耳飾りは小さく歌う。
「わたくしはアンバーシュ王より、婚約の証として、至宝の一つであるこの耳飾りを受け取った。これをもって、アンバーシュの求婚を受け入れることを宣言します」
 エシが、大きく口を開けた。いったい何がどうなればそういうことになったのか、ヴェルタファレンから離れている間に何が起こったのか、誰も知らないためにそんな顔になる。
「即刻、審議を開始することを要請します」
 この国の仕組みを完全に把握したわけではないが、いつかのエルンストとセイラの話によれば、この国の動向について審議する場が設けられていることは分かっていた。結婚となればそこが動くだろう。求められた『光輝』の耳飾りを持ったいちるは、資格を持ちうるはず。
 それに、これは神事に関する官吏だ。アンバーシュが考慮せねばならぬのは、人心のみではないのだった。
「返事を」
「…………は、はっ!」
 椅子から転がり落ちるようにして、はっきりとしない返答を用いたエシは、そのまま転がるようにして部屋を出て行った。いちるは残され、小さな吐息を弾けさせて、にやにやした顔のまま、レイチェルたちがいる隣室へ戻った。
 行くと、客が来ているという。名前を聞いて、了承した。通されてきたのは、しばらくぶりに見る顔だ。しばらく日の光の中にいなかったせいか、顔色がいっそう白い。
「ミザントリ」
 侯爵令嬢は一度震えて、次の瞬間地を蹴ってきた。ドレスのせいで増した重量を受け止めねばならなかったが、それは、日頃フロゥディジェンマを支えてきたおかげか踏みとどまることができた。
 肩に顔を埋めたミザントリは、何度も訴えるように首を振った。
「無事に戻れたようですね」
「それはわたくしの台詞です! どんなに心配したか……わたくしがどんな重責を味わったかご存じないから、そんなことが言えるのです。いつも、いつもそう! 超然とした顔をして、ちっぽけな悩みに振り回される者や、大きなものを抱えて潰される者を眺めてばかり!」
 泣きながら怒るとは器用なことだった。だがいちるも怒りながら笑うことがあるので似たようなものなのかもしれぬ。
 ミザントリは、いつもどうにもならぬことで責を感じている。力が足りぬのはいちる自身であったが、しかし、彼女にそのような罪を感じさせることが己の力不足だった。それは、ミザントリに限らず、レイチェルや、他の者たちが『心配』と呼ぶ心の動き方のことを言うのだ。
 他者と心を交わすことによって、いちるは自身の力及ばぬところを重く受け止めた。まだ弱い。まだ、足りぬ。力を得ねばならまい。誰かに案じられることがなきように。
「わたくしには力があって、あなたにはなかった。ただそれだけのこと」
「だから悔しいんです。わたくしだって姫を助けてみたかった」
「笑いなさい」
 ミザントリは泣き顔のまま顔をしかめた。
「泣かせるために、力を尽くしたわけではないのだから」
 すると、彼女は鼻をすすり、涙を目尻から取り去って、強く頷いた。
「こうして無事に戻ってこられたので、お礼を申し上げます。ありがとうございまいた。そして、無事のお戻り、お喜び申し上げます」
 いちるは満足した。
「それでよろしい」



 一日経つ頃には、アンバーシュといちるが何をしていたのかという話は城内に浸透したようだ。夜になって「アンバーシュ陛下のお渡りです」と告げたネイサとジュゼットの顔に、ありありと好奇の色が浮かんでいるのを見て、婚約の話はどの話題よりも素早く駆け巡ったことが分かった。
 アンバーシュもまた彼女らの興味を感じて苦笑を浮かべ、椅子に腰を下ろして飲み物を求めた。用意された果実酒にお互い口を付けてから、アンバーシュは疲労に滲ませながらも手応えを感じているように微笑んでいる。
「あなたの宣言は、俺の報告の直後に上がってきました。危なかったですよ。女性に先に言われると立つ瀬がなかった」
「真っ先に報告するだろうと思っていたから、頃合いだろうと思った」
 アンバーシュは手のひらに笑いを握り、肩を震わせて告げた。
「エシに報告したのはよかった。宮廷管理官も、すぐに大神に奏上することができましたからね。反対を受けなかったそうですよ。余計に何を考えているのか分からない状況にはなりましたけれど」
「迎え撃つには強大すぎる相手だ」
 流血も荒廃も望んでいない。戦いたいわけではなく、ただ相手が手を出すならば噛み付くのだ、本能のままに。いちるは今恐らく純粋に平穏を望んでいるのだという気がしていた。生まれ落ちた者が、種々あれど充足した歓楽を欲するように、いちるは己の神を手にしたいと思っている。ただ、それは大神アストラスについても同じことが言えるのだ。彼は歓楽そのものを具現するために、弟妹や子らを翻弄する。
 いちるがアンバーシュを欲するように、アストラスとアマノミヤは、アガルタという場所を目指す。
「王妃という身分を持てば、ある程度牽制にはなるかもしれません」
 怪訝な顔をしてしまった。アンバーシュは首を振る。
「地上のことを気にしないのはアストラスくらいのものです。おおよその神は地上をおもねるものですよ。でなければ悪神として追われるからです。土地神はその傾向が強い。ビノンクシュトでさえ争い事を回避しようとしたでしょう? 一国の王妃の身分にある者を、他の神が簡単にどうこうしようとは考えなくなるはずです」
「わたしの素性を明かさないつもりか?」
「今明かす理由がありません。大神を初めとした古い神々が静観しているのは、静観するに足る理由があるからです。我々が動いても状況が把握できない今では、切り札はあなただけ。いたずらに敵を増やしたくありません。向こうもそうでしょう。あなたを傷つけられないことが、俺たちの最大の防御になります」
 一言は鋭く、切り込むようだった。
「殺させはしない」
 妾もむざむざ殺されるつもりはない。
 胸の内で呟く。これは猶予だ。いずれ終わりが来る。大神が与えた時間は、果てに惨たらしいものを残すかもしれない。神々の国と地上と楽園の絆が生み出すのは、なにがしかの終わりだろうという予感があった。
 ゆえに、これからの日々は短く、終焉を控えた清福を、ひとつひとつ数えることになる。それが、いちるが決めた結末への己の措置だった。
 不満かどうか、アンバーシュが目で探るので、いちるは頷いて見せた。それで、と審議の結果を尋ねる。
「ヴェルタファレン宮廷からも、諾、と返事がありましたよ、………………」
 椅子に腰掛けたアンバーシュの上にかがみ込んで、唇を合わせる。触れるだけだったが、アンバーシュが追うようにしたので二度、重なった。ふ、とアンバーシュが笑うので、目を細める。
「何故笑う」
「可愛いから」
 溜め息を禁じ得ない。
「お前は容易にその言葉を用いるが、基準が分からない。時々、わたしはお前を絞め殺したくなるというのに」
 言う側から、アンバーシュの手がいちるの首にかかった。熱い手のひらだった。
「知っていましたか。俺の手もここにあるんですよ」
 その手がいちるを引き寄せ息を呑む。胸の中へ倒れ込まされる。
 見上げた途端にまた唇が重なる。
 口づけに安らぎを見出している己を驚異的に感じた。先頃は、無理矢理にこうされて恥知らずと罵ったくせに、今は柔らかな感触を望んで、静かに待っている。少し離れて、もう一度合わせてみる。アンバーシュの笑って弧を描いたその端に、何度か口を付けてみる。
 口づけにも様々にあって、手を合わせるごとく今のような静かなものもあれば、奪い尽くすようなものもある。いちるは、穏やかなこの口づけが好きだと思った。
 アンバーシュは、鳥のさえずりのごとく軽やかに笑った。
「絞め殺そうと考えている人は、こんなキスをしません」

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