第十四章
 筐底に秘める きょうていにひめる
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 目の前の娘の籠からこぼれ落ちた林檎を拾って差し出したら、相手は見覚えのある少女だった。だが、すぐに名前が出てこない。金色の巻き毛に青い瞳。街の娘にしては整った愛らしい顔立ち。十五歳くらいだろうから、ここ最近関わったのは間違いない。向こうはこちらの顔を見るなり、むっと押し黙ってしまった。それで思い出した。
「ガストール氏はお元気?」
 裏街に住む老人を尋ねたのはつい先日のこと。彼女は、そこで一緒に暮らしている、彼とは血の繋がりのない少女だと調べがついていた。
 彼女は、こっくりと頷く。警戒心の強い猫のようだと、セイラはこっそり笑う。
「何か困っていることはありません? よかったらお手伝いしますけれども」
 彼女はつかの間、目を逸らした。
「別に……特にないよ」
 隠し事ではなく交流下手ゆえの反応だと判断する。
「そう、ならよかったわ」
 名も知らない権力者は約束を守ったようだ。ガストールや彼女に何らかの手を加えた様子はないらしい。
 どこかでわっと騒ぐ声が聞こえて、セイラは振り返った。また何か起こったらしい。このまま少女といるところを見られれば、また何か探り出しているのだと思われる。面倒なので、離れる都合にしてしまう。
「結婚式のせいでしばらく騒がしくなるから、お気をつけなさい。あなたのような可愛らしい子は、取って食べられてしまいますわよ」
 林檎を返し、身を翻す。目をぎらつかせた欲ばかりの商人や昼間から酒を飲んでいる酔っぱらいより、触れ合うなら彼女のような可愛い娘がいいのだけれど、仕事上仕方のないことだった。

 雨の季節が直に終わる。その後、ヴェルタファレン国主の結婚式が控えている。
 未だ雨雲が燻って、湿気のせいで誰もがじんわりと汗を掻いていたが、これが終われば夏の始まりだ。夏が来ると、それまでの雨が嘘のようにからりと晴れて暑くなる。気温が上がるのと、街が活気づくのは比例していた。各地から人が訪れて、宿はどこも満室。貴族の館は外国に嫁いでいた娘や叔母、遠縁といった人間を迎え入れて、一の郭から三の郭まで、普段より数倍の人間で溢れている。
 セイラは、騎士団の人間であるのをいいことに、それらに向かっての実家関係の挨拶から逃れて、こうして街を見回ったり、式当日の打ち合わせに城と二の郭を行き来したりしているのだが、どちらにしても忙しいことに変わりはなかった。
 街では喧嘩が頻発し、掏摸や詐欺などの被害が絶えない。婦女暴行だけはと必死になって見回りをさせているおかげか、大きな被害は出ていない。しかし祭りの興奮が最高潮に達すると何が起こるか分からないため、夜の鐘以降の女性の外出を禁じるべきではないかという極端な意見も出ている。何にしても、警戒を呼びかけ、見回ることしかできない。近衛の上級騎士は、式が終わると解放されるが、下位の者たちはそうもいかなそうだ。緑葉騎士団がいるとはいえ、人出が足りない。セイラも走り回っている一人なのだ。
 そんなわけで、近道を利用しようと俗にいう獣道を分けていると「きゃあ!」と悲鳴がした。半裸の男女が絡み合っている。舌打ちしそうになった。
「失礼」
 それだけ言って通り過ぎる。頭の中では、なるほどどこそこの男爵とどこそこの伯爵令嬢だったわ茨の道ね、などと考えながら。
 今、城では『それ』が流行っている。
 色気のなかった国王が結婚だということにあやかってか、あちこちで恋の花が咲いているのだ。
 また、若い男女に燻っていた火種を燃え上がらせたのは、ミザントリ・イレスティン侯爵令嬢を巡る騒動が原因だった。将来有望な若者と人でない国王側近に同時に求婚された彼女は、最後には国王側近を選び、老若問わず女性たちの憎しみと怨嗟の声を浴びた。
 セイラにしてみれば、どっちつかずの境界に留まって、誰にでもいい顔をしてうまくやっていたミザントリが、少しだけ愚かな真似をしたことに清々しい気持ちを抱いていた。大いに悩みなさい、乙女よ! 若いから出来ることだから! 賞讃がやけくそ気味なのは今忙しいからだ。
 国主の結婚式を前に、ミザントリは周囲を騒がせないために、自宅と別邸といちるの部屋の三カ所にしか姿を見せない。送り迎えをしているのは当然クロードだ。いちるの護衛になったヘンディは、今は騎士団長の命令でその任を外されている。落ち着いた頃に戻される予定だ。
 長い獣道を分けていくと、別宮に到着する。今からそこで打ち合わせなのだ。


 細かな変更や、騎士たちの様子や、街の状況などの情報交換を終える頃には、すっかり日が暮れていた。街の見回りなどで起こったことは報告書になっており、セイラがいなくても他の者がうまく処理してくれたようだ。楽が出来て助かる。
 騎士団の制服を整えてもらうために自宅に預けてあったので、その様子を見に戻る。おかえりなさいませ、と家宰が出迎えてくれると、家の空気がいつもと違うことに気付いた。
「めずらしい。お兄様がお帰りなのね」
「はい。お忙しい時期だからこそ、ご同輩の中で交代でお休みを取るようにしたのだとか」
 各省庁も仕事に追われている。宰相補佐のエルンストは、誰よりも忙しない日々を送っているはずだ。せっかくだから顔を見に行こうと部屋に行くと、何かが落ちる音がした。また書類を突き崩したのだろう。
「お兄様、入りますわよ」
 返事を待たずに扉を開けると、エルンストが床に散らばったものを拾い集めているところだった。冬眠から無理矢理起こされた熊のような鈍さと、険しい顔つきでセイラを見る。一瞬で分かった。今、彼はとても眠い。
「拾うならちゃっちゃと拾ってください。それか、わたくしにお任せになって、お休みになったら?」
「帰っていたのか」
「そろそろ自分の支度もしておかなければならないので。……あら、これ、仕事の書類じゃありませんのね」
 流麗な飾り文字で書かれている、女性の名前。年齢。生年月日。両親の名前。守護神。趣味や資格。その他推薦文。
「お見合い用の釣書」と言ったセイラの手からそれを引ったくって、机の上にまとめてしまう。
「ご当主は大変ですわね。うるさい親がいないわたくしは気楽なものですけれど」
 お互いに結婚適齢期はとっくに過ぎている。セイラが遊び歩いているのはそれが性だからで、エルンストは単純に機会を逃しただけだ。当主として役目を果たしつつ宮廷に仕える働き盛りの男として、彼はまだまだ結婚する余地がある。口うるさい前当主もその妻も故人だから、せっつかれることはない。そのせいで、セイラが何故か、嫌味ともつかない突き方をしている。
 本当に、早く結婚したら諦めもつくのに。
「ちょうどあちこちで盛り上がっているみたいですし、これを機会に決めてしまえばよろしいのに。情熱的に囁いて差し上げればころっと落ちますわよ、みんな」
 エルンストはふっとセイラを振り返った。
 眉間に皺。何か言いたいが、眠いので言葉が出てこないのだ。
「眠いのでしたら寝てください。またすぐにお城に戻られるんでしょう?」
「お前はどうだった」
「何のお話ですの」
「囁かれたのか」
 情熱的に。
 それほどまでに顔をしかめるかという凶悪な面構えで、妹に艶話を振る。聞きたくないくせに聞いてしまうのは、睡眠欲のせいで理性の箍が緩んで、思ったことが口をつくからだ。そのせいで同僚から家に帰されたのだろう。迂闊なことを喋られてはかなわない。
「そういうことを聞いてしまうところが、お兄様はだめなんですのよ」
 特定の相手がいないことを知っているくせに。それとも、アンバーシュとのことを言っているのだろうか。
「でもまあお答えします。普通でしたわ、案外ね。もうちょっと乱暴な方が好みですわ」
「…………」
「そんなお顔をなさるなら聞かなければよろしいのに。さあさあ、もうお休みくださいな。それとも添い寝しましょうか」
「いらん」
 そこだけ返事が早くなくても。セイラは唇を歪め、就寝の挨拶をして部屋を出た。
 滅多に帰らない自室は、物も少ないが、家の者が掃除に入るので空気も淀んでいないし常に綺麗だ。その清潔さがほっとすると同時に、汚した方が居心地がよくなるかと気持ちが相反する。どこでも眠れるということは、汚い場所でも、綺麗な場所でも本当にどこでもなのだ。
 清潔な敷布の上に転がると、疲労が押し寄せてくる。あの兄もセイラの私室には滅多に入ってこないので、口うるさくない家族がいないのは素晴らしいことだ。その分、責任も増すけれど。
 そう思えば、最初にセイラがアンバーシュと噂が立った時、いったい、彼はどう思ったのだろう。
 エルンストは今はもうセイラがアンバーシュとは切れたと思っているらしいが、実際は少し微妙なところだ。愛人ではないが、共犯であると思う。秘密を抱え合っていることを了解して、口に出さないよう見張っている。ヴィヴィアンのことは劇薬だ。宮廷内部の力関係を崩壊させ、大神とアンバーシュの力を誇示させてしまう。アンバーシュは、まるで自分が人間のように振る舞いたがっている。この国にいる以上、それを務めと思っているのか。
(だから、あの兄のお小言を笑って聞けるのよね……)
 その気になれば独裁も出来るが、それをしない。エルンストも、分かってやっているのだろう。アンバーシュ王が民と近く言葉を交わしている、などという戦略を頭の中で組み立てた上でやっている。人の目に触れる立場というのは、誰しもそんなようなものだ。
 思考がとりとめないことを考え出したので、強制的に眠ることにする。目を閉じて、何も考えないように身体の力を抜いていけば、あっという間に眠りが訪れた。


 夢すらも見ない眠りが破ったのは、騒ぎの声を聞き取ったからだ。セイラは起き上がり、階下の声がまだ危険性のないものであることを感じ取りながら、手早く身支度を整えた。玄関から声が移動するところで行き会い、セイラは、家宰に連れられている見知った少女を認めて呼び止める。
「申し訳ありません。騒がしくしてしまいました」
「ちょうど目が覚めたの。ごめんなさい、わたくしのお客だわ」
 疑問が一瞬彼に去来したようだが、すぐさま押し隠した。セイラは、いらっしゃい、と少女の手を取って自室に招く。
「朝食は食べた?」
 首が振られる。お茶と食事を頼んで自室に戻ると、脱ぎ散らかした制服やら起き抜けのままの寝台やらが目に留り、思わず苦笑する。
「ごめんなさいね、汚くて。普段は綺麗にしてもらっているのだけれど」
 座るように言うと、彼女はまた首を振った。セイラは少女の姿を確認した。綺麗にまとめた髪は、整っている。まだ使用人くらいしか起きていない時刻だ。朝早く起き出して、家のことをしてからさほど経っていない。服装に乱れは見られないが、拳は固く握られ、かすかに震えている。何かを頑なに守っている。不機嫌そうな表情は、必死に感情を押し隠している。そんな子が、セイラを頼ってきた。
 肩をつかむと、少女ははっと顔を上げた。
「いったいどうしたの。話してごらんなさい。力になってあげられると思うわ」
 優しい声音で促すと、少女の唇がふるっとわなないた。
「が、ガストールさんが……」と言ったきり、言葉と涙を飲み込んでいる。泣いている顔を見られたくないのだろう。裏街のようなところで、老人と二人で暮らしているような娘が、弱味を見せたくないと強くなるのは、セイラには痛いほどよく分かる姿だった。
 急がせるようなことはしなかった。肩をさすってやりながら、待った。
「ガストールさんが……いつもなら、朝の体操だって言って出てくるのに、今日は、起きて、こな…………」
 声を詰まらせて、震えていた。ちょうどそこへ朝食が運ばれてきたので、セイラはすまないがそれを包んでおいてほしいと頼み、とりあえず温かいお茶を彼女に差し出した。
「まずはお飲みなさい。無理矢理にでも。これから、何も食べられなくなるかもしれないから」
 頷くか首を振るかでいいから、と言って、いくつか質問をした。そうして、彼女に包んでもらった麺麭類を持たせると、セイラは裏街のガストールの自宅へ向かった。

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