第十六章
 忘咲 わすれさき
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エマの日

 瞼が、重い。身体がだるい。空気がのしかかるようで、だというのに清浄な花の香りに満たされている。恐ろしいほど沈む寝台の内は、暑いくらいに温かい。水の中に浮かぶようなそこから抜け出すべく、深く息を吐いて、目を開けた。
 暗闇に包まれた部屋の窓側から、細い糸のような光が差し込んできている。時間は朝。いつも目覚める明朝だ。動こうとして、阻まれるものがあるので少しずつそこから逃れようとする。だが、いちるの後ろに回ったアンバーシュの腕は、解放を許す様子がない。
 あえかな寝息。少し渇いた唇は、その夜いちるに何度も触れ、愛の言葉を囁いた。馬鹿馬鹿しいほど単純で、愚かだと笑ってしまうくらい、そればかりを繰り返した。いちるの名を呼び、愛していると言った。それが真に愛なのか、分かってなどいないくせして。
(妾たちは、離れられぬようになっただけなのだ。愛しているから結びついたのではない。欲した時に、応えたのがそれだっただけ)
 いちるも、男を愛しているのかは分からない。分からないなりに、大事にしてやろうという気になっている。ここに至るまでに選ばなかった伴侶というものにアンバーシュを据えた。何者かも分からない妖女が、伴侶など選ぶ日があろうとも思わなかったのに、この男がこうして、いちると同じ褥で眠っている。
 手を伸ばせば触れられる。
 ゆえに、大事にしてやる。
 これが、いちるの側から消えることを選ばぬかぎり。
 いちるの指先は、アンバーシュの髪を摘んだ。癖のない金の髪は、いちるの黒い毛とは違い、少し細く、男の髪というせいか滑る感触が弱い。あまり構っていないのだ。いちるの方は油を塗ったり梳かしたりと人の手を煩わせて磨いているが、今は軽くなったために跳ねてしまうことに苦心している。男の長い髪は古風に映るが、真っ直ぐなのは羨ましい。
 アンバーシュが瞼を開けた。目が利かないのか、顔に皺が寄る。いちるはそれをいいことに、思いきり手を伸ばしてアンバーシュの額から髪を梳いた。男は、ふ、と息を零して、いちるの手が頬から首に滑るのに、長く息を吐く。
「早起きですね……もう起きるんですか?」
 そういえば、起こしに来るのか聞いていない。呼べば誰ぞ来るのだろうが、来たいものでもなかろう。いちるもアンバーシュも、普段から起床が早くて手がかかるのだ。
「午後からで、いいと思いますよ。昨日の今日で後始末があるから、誰も俺たちに構ってくれません」
 そう言うと、腕を伸ばして囲ってくる。男の匂いがする胸元に引き寄せて、髪の間に吐息を差し入れるようにして口づけると、鼻はおろか目が触れるのではという位置で見下ろした。空の色の瞳が、白く輝く。微笑んだ。
「……ね? もう少し、一緒にいたいな」
 とろみを帯びた声に、胸元がむずがゆくなる。身じろぎしたところをアンバーシュがさらに引き寄せ、後ろの肩や首に顔を寄せられた。笑う息がかかり、逃れようともがく。
「夜はもう明けた」
「別に時間なんて構わないでしょう」
[しゃんぐりらー]
 双方同時に動きを止めた。
 無垢な、少女の呼び声。
 アンバーシュが口を閉ざし、いちるを引き寄せて同じことを要請するように抱き寄せ、息を殺していた。聞き間違いであれと願う間の後、衣擦れの音をさせていちるに覆い被さったところで。
[オハヨウー]
 これはだめだと悟って項垂れたアンバーシュの下から、いちるは這い出た。髪や夜着を直してから扉を開ける。
 声の主は、今寝床を出てきたばかりだという格好で、軽くその場で飛び跳ねる。大人しく収まっていない髪に似つかわしい動作だが、表情が出ないのでおかしい。だが、心が浮いているのは確かなようだ。いつもより動きが速い。胸めがけて突進し、いちるの腹に顎を置いて見上げる。
「おはよう、エマ」
[オハヨウ。モウ、入ッテイイ?]
 アンバーシュが帳を開けた。朝の光が、部屋を白くする。あくびをしたアンバーシュは笑いかけたような顔でフロゥディジェンマに挨拶をした。
「よく大人しくしてて偉いと思っていたんですが、誰かに何か言われたんですね?」
[くろーど、言ッタ。『夜ハ、ダメゼッタイ』]
 だから待ったと言わんばかりにいちるに貼り付く。彼女にとって、こうしていることは自分のへの褒美なのだ。子どもの身体とは思えぬ強い力で、一生懸命なほどいちるを拘束したがっている。こんな子だったろうか、と考えながら髪を梳く。気に入られているとは思ったが、執着に変じているようだ。フロゥディジェンマは気に入ったようで[モット]とねだった。
[ばーしゅ。ばーしゅ。今日ハ、エマノ]
「なんですって?」
[エマ、我慢シタ。イッパイ。タクサン。ダカラ]
 少女の声が弾けた。
[今日ハ、エマノ日!]

 仕方なしに起きて支度することにし、食事をとりながら尋ねてみれば、エマの日というのは、彼女の思う通りにいちるを付き合わせる一日を指すらしかった。思えば、呪詛の騒ぎ以来、フロゥディジェンマに全く構ってやれていなかったいちるたちである。拗ねるのも致し方あるまい。都合のいい時にだけ力を借りてしまっていたのだから、一日言うことを聞くことは妥当だと思った。
「いいか」と尋ねると「いけないとは言えませんね」とアンバーシュは言った。
「人と関わっている我々の領分を侵すこと、怪我をするようなことや、危険なことをしなければ構わないです。よかったら付き合ってあげてください」
 そう言われれば、付き合うのもやぶさかではない。
 フロゥディジェンマという少女神について考えられることは尽きない。ふと気付けばそこにいたり、立ち所に現れたりなどする。また移動も素早く、瞬いた瞬間に姿が掻き消えているということも少なくなかった。人から獣へ姿を変じるが、どうも体躯を変化することができるようで、普段は大きな犬ほどしかない。少女の姿をしているが、年齢はいちるよりは年上だというのに、何故意思疎通がおぼつかない幼い娘の姿のままなのか。それに衣服に構っていない様子だが、誰がそれを着せているのだろう。そう考えると、彼女の一日に付き合って行動を知るということは妙案のように思われた。
「どこに連れて行ってくれるのだ?」
[ヒミツ]
「どこに行っても構いませんが、必ず帰ってきてくださいね? それから、まだ神々が帰っていないかもしれないので、会ったら挨拶だけしておいてくれますか。昨日はざっとだったので」
 結晶宮の広間で会した神々は、人の形をしているものもあれば気配だけのものもいた。それゆえに、あまりにも数が多すぎて時間を取ることが出来なかった。いちるはアンバーシュの件で会った者もいたが、一人一人に言葉をかけられず、アンバーシュが代表して結婚の報告をしただけだったのだ。客側の代表者は、いちるもよく知っているナゼロフォビナで、友人同士らしからぬ儀礼的なやりとりにそういうものなのかと腑に落ちないものも感じていたのだが。
 茶を飲みながらアンバーシュは言う。
「あなたを見ようと物見高くやってきていた者もいますからね。いちいち相手にしてられません。そうすると知人とも淡白に接しなければならないんですよ。贔屓になっちゃいますから。友人知人はまた日を置いて訪ねてくれます」
「神々の目に、わたしはどのように映ったのだろうな」
 アンバーシュはふと静かな笑みを漏らした。
「――期待は、したでしょうね」
「期待?」
「知っている者が見れば、あなたの価値はひどく高い」
 東の娘。千年姫。知っている者は、いちるがアガルタに関わる者として見る。それが西の半神の傍らに並ぶとなった時、西神たちは何を思ったのだろう。時の変遷か、単なる不快か、それとも悲願を果たす日が近付く感慨か。すべての者が真に祝福しているわけではないのだ。
 彼らがすべて味方であるわけではない。両の面を持っているのが彼らであり、利や己が楽しみや、その他気まぐれな状況で、協力的にもなれば敵にもなることを覚えておかねばならない。
「派閥が割れるかもしれない」とアンバーシュは真剣に呟いた。
「現状、古神と若神がおおまかな派閥、そこに大神に対して協力的な者、不満を抱えている者に大別されます。古い神はあなたのことをよく知っているはずですが、俺たちの結婚で大神とは別の方向の期待をする者が出てくるかも」
「はっきり言え」
「独り言です。あんまりいい考えじゃないので止めておきます」
[しゃんぐりら]
『エマの日』だというのに二人だけで話し込んでしまう気配を察知して、フロゥディジェンマが焦れていた。話を畳む頃合いと見て、いってらっしゃい、とアンバーシュは笑顔でいちるを送り出した。遅くならないようにと微笑んで、まるでどこにでもある家庭のように。そのことに、眉をひそめてしまう苛立ちを覚える。出掛けると知って女官たちが着替えを持ってきた。もちろん、少女の分も。



 てっきり背中に乗せられるか銜えられるかだと思ったのに、フロゥディジェンマはいちると手を繋ぐことを求めた。半歩先を行く足取りは平坦なものだが、目的地があるらしく、任せることにする。時々、城の者が足を止めて、口を開け、慌てて敬礼するのが見えた。
 フロゥディジェンマがここに来た当初、騒ぎを起こしたと誰かが言っていた。そのせいで深く関わらぬうちに恐れられるものになったのだろう。短いゆえに膨らんだ細い髪も少女らしい華奢な肢体も、美しいがゆえに畏怖を抱かせるものだが、いちるには強い力を秘めただけの、少女に見える。
 彼女はいちるを、城の奥にある塔に連れて行く。結晶宮の向こう、都を抱く山並みに最も近く、最も高い物見塔だ。二人の訪れを衛兵が直立で迎える。彼らがこちらを見ないようにしているのは、フロゥディジェンマがよくここに来るからか。
 石の階段を壁に添って登っていく。
「エマは、何故大きくならないのだ?」
 どうしてその問いなのだろう、と首を傾げられる。
「年頃の娘の姿なら、誰かに恐れられ遠ざけられることはない」
[分カラナイ。エマ、コノママ。アストラス、原因ハ、カコセイ、言ッタ]
 カコセイ。過去、生、世。過去世。つまり、今この世にいる己の以前の姿を言っている。
 だが、いちるは少女を注視する。
 ――その巡りの力は失われたはずだった。
 大地神がその役目を受け継がせる者を生むことができず、魂は、肉体と同じく最後に形を失うことを宿命づけられたと、東では言い伝えられている。前世、過去世という言葉は信仰として使われるものの、失われた術として、慰めで口にするに過ぎない。
 だから、前世は存在しない。築いたものはいつしか壊れる。失われたものは失われたままに。
「過去世が、あるのか」
[分カラナイ。エマ、前、広イトコロ、居タ。大切ナモノ、アッタ」
 フロゥディジェンマが導いた最上は、石を積んで欄干にした狭い場所だったが、高いところからはこの街へ吹き抜ける風が感じられた。神々の集まる結晶の宮殿の向こうに、なだらかに広がる街の裾が見える。
[大切ナモノニ、ズット、会イタカッタ。しゃんぐりら、来タ。ダカラ、多分、しゃんぐりら」
「わたしが、エマの過去世に関わるものだと?」
 紅玉の瞳は、底から泡が浮かびあがるように繊細に輝いている。
[覚エテナイ。構ワナイ。エマ、モ、全部、分カッテナイ]
 そう言った彼女は、いちるの数百も年を重ねた姿だった。
 手に触れられてはっとする。
[オナカヘッタ]
 突然、聞き分けのない少女になってしまった。もういいのかと尋ねると、日課、と答えがあった。ここに来て少しだけ過ごすのが毎日のことなのだ。いちるの手を引いて少女は行く。
 フロゥディジェンマがいちるを連れて行ったのは、二の郭の東側だった。二の郭という場所に、いちるは初めて足を踏み入れる。こういうところだというのは異能によって見ているのだが、実際は三の郭の街と違い、建物が密集し、土埃が凄まじい、石と砂の地区という印象だ。女二人が歩いているのは目立つ場所だが、人の気配があまりない。いちるは少し力を働かせて、この地区の住人の多くがそれぞれ集まるべきところで仕事を果たしているのを感じ取った。
 剣戟と、かけ声が聞こえてくる。石壁の向こう側に訓練所があるのだ。案内人はそこを通り過ぎて、目前の木立が見えたところで、すぐ近くの建物から青年が顔を出した。
「やあ、エマ様……って、あれ?」
「ヘンディ・エッドカール」
 いちるの護衛騎士に配属されていた赤毛の青年が大きく目を見張り、慌てて直立不動の姿勢を取る。目を上にやり、いちるを見ない。
「大変失礼をいたしました!」
「構わない。普段通りにしなさい」
 は、と了解を返し、フロゥディジェンマに向き直る。
「エマ様ったら、王妃陛下がいらっしゃるなら知らせてくださらないと」
[今日ハ、エマノ日]
 それでは分かるまいと思ったのに、あーとヘンディは笑った。
「エマ様に一日付き合ってもらう日なんですね? 最近お忙しかったですからね。でも、危ないことはなさらないでくださいね」
 これ、と差し出した袋を受け取って、フロゥディジェンマは中身を改める。
[イチジク]
「そうです、無花果を干したものです。いつもの調子で用意したんですが、参ったなあ……」
 市井の店で購入した干し果物を王妃に口にさせるわけにはいくまい。フロゥディジェンマはいちるを仰いで尋ねる。
[しゃんぐりら。イチジク、嫌イ?]
「いいや。木になる果実は好きだ。ありがたく頂戴しよう」
 だが、といちるはヘンディに微笑んだ。
「あなたのことだから、吹聴することはないでしょうが、このことは内密にするように。それから、この子に食べ物をやる時には注意をしてもらいたい。与えられたら与えられるだけ口に入れてしまうので」
「御意。……申し訳ありません」
「構いません。たまたまやったら懐いたのでしょう」
 笑うだけだったがそういうことなのだ。好意には好意を、悪意とそれら以外のものには無視を返す。さっそく果物を咀嚼するフロゥディジェンマを見て、付き合いがそれなりに長いことを察する。獣が、人から与えられたものをすぐに口にする。最初から、ヘンディは彼女によくしたのだ。
 ヘンディは渡すものを渡してしまうと、最敬礼し、慌ただしく持ち場に戻っていった。

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