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「伊座矢(いざや)に太刀を借り受けて、一体何をしようというの。ここにいるのは、若い娘と西の女神。その他はお前だけ。お前だけが、害意を持っている」
「しかし……姉上……」
 いちるは目を開く。
「その者たちは呪詛を吐きましたか。敵意を叫びましたか? お前を収め、取りなそうとしたはず。分かったならばお退き、渡汰流。この者たちの身柄は、この紗久良(さくら)姫が預かります」
 渡汰流が口を開けた。
「な……なりません、姉上! この者たちは……」
「この上なく出所ははっきりしています。西の、光の神狼の娘フロゥディジェンマ殿。そして、我が東の地の娘、今は雷霆王アンバーシュの妃、いちる」
 黒い瞳がにっこりと笑うと、目の縁に小さな花が開いた印象を受ける。
「珠洲流を頼ってきてくれたこと、嬉しく思います。そなたさえよければ、しばらく滞在なさい。わたくしの花媛殿では少し騒がしいだろうから、銀珠殿を開けましょう」
「銀珠殿!? 姉上、そんな勝手は許されませぬ! 銀珠の宮は父上の」
「お前は先ほどからやかましいこと。銀珠の鍵はわたくしの預かり。わたくしの好きにせよと父神様も仰せです。この者には銀珠殿を与えます。わたくしと阿多流(あたる)がそう決めたの。お前に言えることがあって?」
 渡汰流は面を伏せた。女神は特別怒りを見せたわけではなく、ただ明るい調子で有無を言わさぬことを言っていただけだ。というのに、渡汰流は青ざめ、収まり切らぬ怒りに震えている。
 花の姫は、変わらぬ調子でいちるたちに同行を命じると、身を翻し、扉の前に誘った。
 両開きの扉の前には、膝を折った二人の女が矛を垂直に立てて控えていた。こんな扉は知らない。最初から存在していたかのような存在感だが、異界に通じているもの、現れては消えるものだ。
 女神は命じ、それを女たちに開かせる。曖昧な鈍色の空間が続いている。
「神山の領域へ繋いでいるのよ。空を行くのも、地を行くのも時間がかかってしまうから」
 おいでなさい、と他愛なく誘われるものの、逡巡する気持ちを抑えられなかった。選ばれし者と認識される東神の本拠へ足を踏み入れること、それは、渡汰流の怒りももっともである異例の措置だ。
 思惑が掴めない。花のような微笑みにはぐらかされ、何の裏もないと思ってしまいそうだ。だがそんなことは有り得ない。彼女が花の女神と呼ばれるものならば、アガルタのことを知っているに違いないのだ。
「さあ、行きましょう」
 いちるの迷いを知りながら、柔らかい手のひらがいちるの右手を取る。ためらいのない触れ合いに、心は決まった。
 この女神を信じよう。このひとが、紗久良姫と呼ばれる、最も古い神の一人、東の女神の頂に立つ人ならば。東の娘と呼ばれたいちるは、庇護を受けるべき立場にある。
 神域へと、足を踏み入れた。
 鈍色の空間の向こうは、板張りの廊下だった。滑らかな白さが、気持ちのいいほど真っ直ぐに続く。道の中央に出現した扉から、紗久良姫はするすると歩き出し、立ち止まっているいちるとフロゥディジェンマに、安心を伝えるように微笑みかける。また、いちるが、辺りを包む冷気に似た清浄な空気を察して怯もうとしているのを知って、硬くなる必要はないと軽やかな笑い声を漏らす。
 獣の姿から戻らずにいるフロゥディジェンマは、警戒を解かない。太い尾を揺らし、いちるを待っている。いちるは、行こう、と目で言って足を進めた。
 やがて建物を抜けた。白い水蒸気が右手側からやってくる。簾がかかるようになっており、今は昼間であるため、開かれたそこにもうもうと水の気が立ちこめているのだった。夜間に灯火を入れるのだろう燭台が点在している。そして、その向こうはどうやら空中であるらしい。
(左手側に山がある……山の間に邸を建て、繋いでいるのか。建物が入り組んでいるのなら、迷うことのないようにせねば……)
 渡汰流のように領域を侵されることに敏感な神もいるだろう。しかしどうやら、紗久良姫が誘うのは、そういった人々やこの地に住まう者たちからかなり隔てられた場所らしい。燭台の数がどんどん減り、白い雲の中を突き進んでいく。かろうじて感じられていた人らしきものの気配は、静かな風と草木の音ばかりになり、不安になるほど己の足音と呼吸が響く。
 紗久良姫は足音をほとんど立てない。彼女の衣の中で風が吹いて花びらが散る音の方が大きい。フロゥディジェンマはその気になれば気配を消せるため、いちるだけが無作法に音を立てているように思える。
「銀珠殿は」と女神は口を開いた。
「父神様と、わたくしと、阿多流神が鍵を持っています。ゆえに、出入りが叶うのはわたくしたちと、銀珠殿に住まう者が認めた者のみという不文律があります。招くものを、よく見極めることです」
「はい」
「渡汰流は、もう仕様がないの。すぐ上の弟の影響を受けて、勇ましいことを言うけれど口ばかり。あれは武神にはなれないが、真っ直ぐな気性が災いを呼ぶこともあるかもしれない。ああ、妹たちには後日引き合わせましょう。あなたのことを聞いて、興味を抱いた様子だったから」
 景色が変わる。片側だけが開いた扉を抜けると、途端、気配がまったく感じられない、新築のような建物の中にいる。それほど大きなものではないらしく、大部屋が一つ、小部屋が片手ほどあるだけの造りの宮殿だった。
「あなたの世話に、花姫の藤と葵をつけます。何かあれば言付けていらっしゃい。わたくしも時々寄らせてもらいましょう。わたくしも、あなたと話がしてみたかった」
 背後に女が二人、控えたのを知りながら、いちるは紗久良姫を見つめた。いくつか年上の外見ながら、彼女の齢は、いちるの知るどの神よりも深い。何を考えているのか知りたいと思った。
「何故、わたくしを留め置かれるのです」
「あなた方がわたくしたちを頼ったから」
「わたくしは放たれたはずです。わたくしもそれを望みました」
 東神と西神の戦の結果、いちるは報償としてアンバーシュに与えられた。人にあらず、守護を得られぬ身かと諦め、受け入れたものが、都合よく助けを求めたからと、それほど度量の深い神々ならばいちるは呪詛じみた楽園の名前を唱えたりはしなかった。
 それを知ってか知らずか、女神はゆったりと微笑んだ。
「あなた方を抱え込むほど、わたくしたちは情の厚いものではないと?」
「お怒りはごもっとも、なれど、真実です」
 怒気を現すか。初手から怒らせ、立場を悪くしたとしても深層を見ることが叶うか。知りたい。己の知らぬところで動いている思惑の尾を掴みたい。
 女神は、しかし、素直に頷いた。
「そう、これはわたくしと阿多流の独断です。わたくしたちが父神様にお願い申し上げ、父神様は、好きにせよと仰せでいらした。ゆえに、あなたを庇護するのです。味方はわたくしと阿多流のみとお思いなさい」
「それはわたくしが、アガルタに関わる者ゆえに?」
 深く、紗久良姫は嘆息した。
「あなたの不幸は、この地ではそれについて語る者がないということ。そしてわたくしの幸いは、黙秘することが許されることです。いちる、ここにいたいのならば、それについて触れてはいけません。恒久を望むのならば、遠国の園はそのままにしておかなければならないのだから」
 東の大神が認めたわけではない。
 紗久良姫神と阿多流神が、いちるの出自について知っている。ただ、その事実は彼女らから語られることはない。
 告げられたもの、そこに因するいちると女神たちの繋がりは何だろうと思った。アガルタに関わるというだけで、紗久良姫はいちるを庇護する立場を明言するには、理由が弱くはなかろうか。
「わたくしの望みは、永らえること。――我が夫と共に」
 紗久良姫は口元を綻ばせた。憐れみだ、といちるはわずかに眉を寄せる。
「美しい望みだこと。助力しましょう。出来るかぎり」
 そうしてフロゥディジェンマを見上げる。
「あなたは何を望まれますか」
[しゃんぐりら、守ルコト]
 頷きを返した女神は「では側に。わたくしたちも東の娘を守護しましょう」と言い、控えたままの二人に後を任せると、来た道を戻っていった。彼女の衣の花が、再び咲き始める音が、遠ざかっていく。
 残されたいちるは、藤と葵と呼ばれた女たちを見遣った。花姫と呼ばれていた。恐らく紗久良姫の眷属に当たる、彼女たちもまたれっきとした女神であろう。髪を波打たせた藤色の衣装の者が藤、顔の側の房を短く揃えて二葉葵の文様の衣装を着た者が葵だろう。どちらもいちるの外見より年上の娘たちだった。
「ご面倒をおかけする」
 年上のはずだと思いそう言ったが、藤が顔を上げて喜色を浮かべた。
「紗久良姫様の特別な方をお世話できて光栄にございます。藤でございます」
「葵でございます。何なりとお申し付けくださいませ」
「お部屋は整えてございます。まずは、何か召し上がりますか?」
 好意的に接せられ、いちるは強ばりを解いた。女神の眷属は女神の意志を汲むようだ。頼む、と頷いた。

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