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 東の神山には層が存在する。
 頂上は、東の大神アマノミヤの領域であり、招かれる者はごく僅か。重用されている子神、紗久良姫と阿多流神が主に伝令を司り、大神の言葉を広く神々に知らせる役目を負っている。
 大神の宮の下層には紗久良姫と阿多流神の領域が存在し、男女の境を設けて、それぞれの世話をする女神と男神が住まうのだった。地上に守護地を持たぬ神はこの二神の管轄となり、それぞれの世話をしながら、やがて各地の守護神の元へ使わされたりなどする。紗久良姫の住まうところを花媛殿、阿多流神のところを麗光殿という。
 その遥か下層、地上に近いところに、仙たちが修行を行い暮らす街があるというが、いちるは、地上から見たこともなければ、この神域にあっても眺めやることが叶わなかった。
 案内役に導かれ、花媛殿へ足を踏み入れた。山肌に添った回廊を進んでいくと、人の気配が濃くなってくる。花の香り。女神たちが薫きしめる香と、庭に咲き群れる花々や緑の。雲になる以前の涼しい風すらかぐわしい。広間に巡らされた廊下の、御簾のみで遮ってあるところから、こちらを窺う気配がした。
 背筋を正す。何ら恥じることはない。
(妾は、東のいちる。雷霆王アンバーシュの妻、ヴェルタファレン王妃。それ以外ではない)
 室内には、二人の娘が座っていた。
 一人は長い黒髪の、明るい顔立ちの娘だった。東の美人に多い柳のような優美さではなく、木の実のように目が大きく、くっきりとした顔立ちだ。しかし黒々と濡れたような髪が見事で、それに合わせた青い衣が、彼女を淑やかで凛とした、明朗な気性の女であることを現している。藤の言葉が正しければ、こちらが満津野(みつや)姫。絆を司る、結びつきを尊ぶ女神。
 残るは燐(りん)姫。東神の三女で、虫を司る姫神だ。菊の化身のような、可愛らしい黄色に蜻蛉文様の衣をかけている。衣の上には二つに編んだお下げがあり、飾り玉のついた赤い紐でいくつも輪を作って結わえてあった。こちらは、下から窺うようにいちるを見て、視線をさまよわせている。
 彼女らは後ろに眷属を控えさせており、こちらの目の方がいちるを興味津々といった態で眺めていた。いちるは二方に向かって頭を垂れると、末席に控えた。鈴が鳴る音がし、いよいよ宮の主が姿を現す。
 紗久良姫はこの日薄紅の衣に緋袴だったが、地味だと感じたのは壮麗な桜の衣を印象にしてしまったせいかもしれない。座しながら、紗久良姫は声をかけた。
「皆、お揃いね。楽にして頂戴。まずは、いちるを紹介しましょう。満津野、燐、お前たちも聞き及びでしょうが、わたくしと阿多流の客としてこの者を銀珠殿に迎えました。西の神アンバーシュ殿の妻になった、いちる」
 いちるは再び両手を揃えて礼をした。女神たちが目礼する。
「いちる。わたくしの妹、満津野姫と燐姫です」
「満津野です。初めまして、いちる殿。ご縁が出来たこと、嬉しく思います」
「燐……です。はじめまして……」
「いちるでございます。この度、紗久良姫神のご厚遇をいただき、こちらに身を寄せることとなりました。姫神の皆様に、拝謁できたこと、心より嬉しく存じます。卑小の身なれど、末席にくわえていただけて光栄でございます。よろしくお願い致します」
 満津野姫がちらりと笑い、燐姫が驚いたように紗久良姫の顔を見る。紗久良姫は扇で口元を覆い、くすくすと笑った。
「そのような物言いは最初だけになさい。妹たちを呼ぶ時は、砕けたときばかりなの。あなたもそのように。このような会でそんな口上が聞く機会は皆無だから、燐は驚いていてよ」
「失礼を致しました」
「そんな! ええと……こちらこそ……ご丁寧にありがとうございます」
 思ったより、燐姫が幼い。あまり表に出ない女神なのかもしれない。彼女は確か、八人いるうちの六番目。どうやら、姉弟の下になるほど、いちるの素性を知っている可能性は、あまり高くなさそうだ。
 一方、満津野姫は四番目。落ち着いた仕草から読み取れるのは、彼女は紗久良姫に次いで力を持っているのであろうことだ。しかし姉を立てているらしい、輝く目を向けて、姉様、と呼ぶ。
「いちる殿は、姫の衣装がとてもお似合いだわ。姉様が贈られたのでしょ?」
「選んだのはいちるで、わたくしは揃えただけ。とても美しく装ってきてくれて嬉しいわ。やはり娘は華やかでなくてはね。燐も、神在の日にはきちんと着飾ってくるのですよ」
 燐姫はうっと口ごもった。
「だって、姉上。燐は、そういうの、よく分からないし……燐は、姉上たちみたいに綺麗じゃないもの……」
「馬鹿なことを言わないの。お前はわたくしの妹なのよ」
 困ったように笑いながら、どうやらいつもの台詞らしいものでたしなめる。
「あまり異界に引きこもっていてはだめ。繋がりを失えば、座を失うことになってしまう」
「仕方がないわ、姉様。片割れである多鹿津(たかつ)が、物事に関心がないのですもの。双子だからそういうところが似てしまうのね」
「まったく、せっかく可愛らしいのに、もったいないこと。いちる、わたくしはね、花に生まれた者はきちんとそれをまっとうすべきだと思うの」
 紗久良姫は微笑む。
「花をそのまま愛でるのもいいでしょう。けれど、そこに月が出ていたら? 雪が降ったなら? 風が吹いて、花弁が散ったなら? そういう種々を楽しむのも花の愛で方、遊び方なのよ。そのように花は様々あるもの。周囲と比べるのは馬鹿げているわ。いちる、あなたはどんな花がお好み?」
 紗久良姫は他愛なく尋ねたが、いちるはつかの間黙考した。
 そして、それを言うのは不敬だという気もしたが、真っ先に浮かんだのはそれだった。
「どの花も、美しいと思います。桜花、梅花。菖蒲や水仙も。西の地で見た、小さな女神の花も」
「西の地の花。わたくしも見てみたいわ。さぞや美しいことでしょう」
 いちるは微笑んで頷く。

「それら花の咲くところは、最も美しい。しかし、わたくしは咲き誇る花を見るとその潰えていく様を思うのです」

 無情な時の流れ。西神、東神の誰をもつかみ取ることのできない領域。時と運命の神々がさだめるところ。この世のものは、常にそのただ中に晒されている。花が、雨に打たれるように、風に吹かれるように。
 紗久良姫の目が、静かになっていちるをひたと見つめる。

「花は、やがて枯れる。わたくしと、傍らで共にそれを見ていた者を置いて。けれども滅びと悲しむことはない。花が咲くとき、夢想するのです。この花はこの先いつ見ることが叶うだろう。その瞬間隣に誰が在るだろう。その繰り返しを、どこまで続けて行けるのだろうかと」

 果てのない命だと思った。それだけが、己を支えるものだと感じていた。人ではなく、神でもない、何者にも見出されない異形の自分。何もかもから取り残され、見捨てられて生きるのだろうと思っていた。
 アンバーシュはそれを拾い上げた。高みから手を伸べて、欲しいと言った。
 その傍らで見てきたものは、心楽しいものばかりではなかった。言い合い、傷つけ合った。膿んだ傷に触れて抉った。取り返しのつかないものを見送ったこともある。しかしどれもが愛おしいと感じたとき、花の枯れることすらも目覚ましい生命の動きだと思うのは、不自然ではない。

 このようにありたい。咲く花の、終わる瞬間。その刹那に目を見開かせるような生を。
 ――忘れられないように。

「……この問いを、幾度と繰り返してきたけれど。枯れる花も美しいと言われたことは初めてね。覚悟とともに言われたことも」
 紗久良姫の瞳に、あたたかい光が滲む。
「あなたが、どのように咲いて、その時を終えるのか。花神、豊穣の神として、あなたを慈しみたいと思ったわ」
 周囲から、深い溜め息が漏れた。いちるの言葉は、やはり緊張をもたらしたらしい。泰然と受け止め、笑った紗久良姫の心の深さが際立つ。無理に私情を主張したと、いちるは目を伏せて恥じ入った。だが、それこそが己が本心なのだと、はっきりと刻み付けることができた。
 満津野姫が笑った。
「そのように東の娘と西の神が結びつくなんて、素晴らしいことだわ。ご夫君を心から愛しているなんて」
 いちるは怯んだ。
(そんなこと、言ったか……?)
「だって、ご夫君のことでしょ? お名前は出さなかったけれど、共に花を見る御仁というのは」
 息を呑み、顔を伏せた。そのように聞こえるのは最もだったが、改めて指摘されると頬が紅潮する。満津野姫は真っ赤になったわところころ笑い、紗久良姫も忍び笑った。燐姫も顔を綻ばせ、その他眷属女神たちも、くすくすと声を転がしている。
「あらあら、では、わたくしは面と向かって、花に例えて惚気られてしまったということ」
「仲睦まじいようで羨ましいわ。是非聞きたいことがたくさんあるの。質問状にしてきたから、教えてくださいな」
「し……質問状?」
 側の者がさっと巻き紙を広げる。流麗な文字で「最初にかけられた言葉は何か」「普段どのように呼び合っているのか」その他諸々の問いかけが記されており、その内のひとつ「相手のことをどのくらい愛しているのか」という文を目にして、くらくらと目眩がした。これに答えなければならないのか。雰囲気を壊す回答をした報復に感じるが、満津野姫は両手を合わせて笑顔だった。
「わたしは、愛情深い夫婦は相性で呼び合うと聞いたことがあるのだけれども、いちる殿にもあだ名があるの? 『愛しい人』とか」
「は……」
「『俺の大事な君』なんて風に呼ばれたりするの? ご夫君は、独占欲は強い方? 他の殿方と話していたら嫉妬したりする?」
「普通に……名前で呼び合っていますが……」
「もしかして、見えないところで甘えてくる方なのかしら。いちる殿は、甘えさせてあげるの?」
(どうすれば……)
 困惑して紗久良姫に助けを求めると、女神はにこにことこちらを眺めやっている。いちるの頬がひくついた。
 僅かに意趣返しの気配を感じる。
 あまりいい質問の答え方をしなかったという認識が、遅れてやってくる。紗久良姫は、いちるを少し困らせてやれという具合に、なおかつとてもわくわくしている、きらびやかな笑顔で、小首を傾げて言った。
「わたくしも、是非、聞いてみたいわ。あなたの結婚生活について」
 そこで、紗久良姫が夫である稲穂の神と長く離れて暮らし、妹女神たちは未婚であることを思い出した。婚姻とは遠いところにある花媛殿の女たちに、西の神と結婚したいちるは格好の話の種なのだ。掘れば掘るほど、物珍しいものが出てくる穴ぼこのようなもの。突かれることは覚悟していたが、ここまで面白がられ、普通の女たちのようだとは思いもしなかった。
「まずは、アンバーシュ殿が、あなたをどのように呼んでいるのかについて」
 顔を伏せて項垂れることのないよういちるは胸を張って微笑んだが、どう見ても顔が引きつっていることは、誰の目にも明らかだった。

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