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 ひくり、と口の端が持ち上がった。笑おうとして失敗したのだ。見開く瞼もぴくぴくとし、扇を持つ手は中途なところでぶるぶるとし、実声ではないのにわななく声でいちるは問い返した。
[あいにく、聞こえなんだ。何と申された?]
[俺の妃として貰い受けると言いました]
 たわやかで豊かな、愉快さを含んだ声は、神の力でもって城内の隅々に響き渡ったらしかった。なんと、とあちこちで漏れたうめき声は、果たして恐怖か畏怖か。なんにせよ、相手を剛胆と見たはずだ。撫瑚に巣食う妖女を貰い受けるとは恐れ知らず。
「ふざけるな!」
 思わず地声で怒鳴りつけていた。異なる言葉で怒鳴りつけられ、目を丸くする相手に「ふ……」といちるは笑った。なんとか嘲笑したというのが本当のところだったが。
「神ともあろうものが、冗談にもほどがあろう。東神との和睦がなされたというのなら、このような勝手が許されるはずがない!」
 対する神は、嬉しげな微笑。異なる言葉だったが感情が伴い、強い意志は声なき声となって相手に正しくぶつかったせいで、いちるの言葉を解している。
[なら何故俺がここに来たと思うんです。供の者を連れず、単独で敵地に来たわけは?]
 見慣れぬ履物が玉砂利を擦った。反射的に後ろへ引く。相手は歩みを止めず、いちるの側まで来たかと思うと無作法に手を伸ばして手首を掴んだ。
 強い。――熱い。
 雷神の手のひらの熱は痛いほどだった。
[横槍を入れられる前に事実を作ってしまえばいい]
 その瞬間、いちるは右の手に持った扇を一閃させ、相手の頬を打っていた。ばしっ、と激しい音がして首を竦めた周囲だったが、彼は違った。衝撃に目を細めはしたものの揺らぎもしない存在を見て、いちるは叫んだ。
「この、無礼者!」
[言われ慣れてますよ]
 ひっと息を呑んだ。相手が身体をすくいあげたからだ。足が浮き、身体が自由にならず身をよじるが、車に乱暴に放り投げられてしまう。逃げ出そうと身体を起こすが相手はひらり乗り込んでくると、手綱を握って一震いさせた。神馬がいななき、車は宙に浮く。
「いちる姫!」
 悲鳴で呼んだのは鉦貞か。箱の縁に手をかけるも、景色はぐんぐんと遠ざかっていく。城の屋根よりも高く。城下の明かりは極小に、人はあっという間に消えた。いちるの住処だった離れは、紙を折った細工物よりもか弱く小さく、遠くなる。
 あれが二百年間、いちるの世界だったところだ。
 長い髪が重く、鞭のようにしなる。握りしめた縁の下で、国土である暗闇が広がっている。時折輝くものが見えるが錯覚かと思うほどあっという間に過ぎ去ってしまう。
(遠くなる。遠く――)
[イチル、というのが名ですか? 千年姫]
 頭の中で声がして相手を見遣る。馬は行き先を知っているのか、手綱を握っているだけで落ち着いて空を疾駆している。だからかの神の瞳はこちらに向けられていた。
 いちるはつくづくと相手を見た。風が身体をなぶるので、黄金よりも濃い色の髪がすべて後ろになびき、額が露になっている。額が突き出ているのは西国の者の骨格の特徴だというのは本当のようだ。襟が立って首を覆っている上着を羽織り、袖は細く腕に沿っており、下は袴のようだが裾が短くこちらも足に沿うようになっている。そしてやはり変わった履物を履いている。革で作った、藁靴のような形をしたものだ。先が尖っている。全体的に濃灰色の装いに、金や銀で飾っているため、地味とは言えない。
[そんなに見ないでください。照れます]
[問いに答える義務を感じぬ。が、御方にはこちらに答える必要があろう。なにゆえ、妾を『千年姫』と呼ばれる。千年姫とはなんぞや]
[アンバーシュです。さっきから思っていたんですが、かなり古風な喋り方をしますねえ]
「…………」
 相手はにかりと笑う。
[冷たいなあ。まあいいです、先に答えましょう。千年姫というのは西神の間で通る渾名ですよ。この百年ほど東国が豊かになったのを誰の仕業かと占ってみた神が、あなたの姿を捉えたんです。この世でそんな力を持つ人間は稀ですから、そんな希少さを、人の身で千年生きる脅威になぞらえて千年姫。だから、あなたを千年姫と呼んだんです]
[それで名前は]と続いた言葉をいちるは無視した。あまり嬉しくはない通り名ではあることが分かっただけで頭痛がする。いちるごときが境の海の神戦を視ることができるのだから、それを超える西神がいて当然だろうが、相手方が自分を知っていることが少なからず衝撃だった。
(東神には見向きもされぬというのに)
 無意識に抱えた腕を見て、彼が言う。
[寒いのなら、そんなに離れずにこっちにいらっしゃい。あまり端に寄ると落ちてしまいますよ]
「っ!」
 答えもしないのに手を伸ばして肩を抱えられる。右手を振り上げたが、掴まれた。目が笑う。
[二度は殴られませんよ]
[……手を離されよ。妾とて落ちるのは御免じゃ]
 なぶる風に怒りが冷え、抵抗しない意志を表すと、望みは叶えられた。
 東神の末の神が守るという黄泉の河に似た鈍色の流れが、地表を蛇のように這っている。東島で最も高い霊峰から流れる大河はやがて境の海に至るという。書物でしか読んだことがないそれが眼下に広がっているのを見て、惜しいといちるは思った。月と星の明かりだけでは、どのような風景が広がっているか直に見ることができない。
(となると本当に境の海へ向かっているのか。東と西では神の有り様が異なるというが、これが例外なだけなのではないか?)
 恐れ多くも神の末席に座る男をこれ呼ばわりしたいちるは、自身の知識を並べていく。
 東島では、神というものは国土のあらゆるものを司っている。神は神として在り、人の呼びかけに応じないものも多く、大抵は人に関わることがない。それでも人が決して絶えることがないよう、闇の者が引き起こす天災を抑える役目を負っている。また、相反する考えを持つ西神と戦い、その支配が及ばぬよう東国を守っている。
 西島の神々は、人と交わる。人の世に降りた神が人との間に子を成し、アンバーシュのように半神半人といった狭間の者が生まれる土地だ。西神は西島の守護者であり支配者で、島のすべての国が己の分を越えることの最終的な裁量を西の大神に委ねるのだそうだ――と、その程度の伝聞が東者の認識である。
 だから、先ほどのように神に肩を抱かれるという感覚がよく理解できない。
[境の海に向かっているようだが、これから西国へ渡るわけではなかろう? このままでは本当に人攫いになる]
[もちろん。戦が終わった後に走ってきましたから、さすがに俺も休みたいです。ミハナの国に陣があります。ヴェルタファレンに戻るのはそれから]
(ならば半日ほど時間がある。これは独断だと言った。つまりは西の神々は承知していないということ。陣に戻れば他の西神が何事か言ってくるだろう。いくらなんでも和睦の条件に妾の身ひとつでは軽すぎる、とな)
 地平に再び熾き火のような集まりが見え、その上空に銀色の雲が浮いているのが見えた。地上の小さな火は人の住む明かりだ。大地神が命と引き換えに人に与えられた火だった。
 馬と車は雲に突き進み、濃密な空気の膜に覆われたかと思うと、辺りには白く明るい場所が広がっていた。馬は今度も静かに、白く光る地面に降り立った。
 向こうには幕屋がいくつも立っており、車に繋がれた馬のような神格の高い生き物が動いている。
[到着です。西神の陣へようこそ]
 アンバーシュに気付いて何かがやってきた。地面を旋回するものに気付いて顔を上げると、いちるは軽く目を見開いて、必要でないのに降り立つ場所を譲ってしまった。
 その固まりが滑空し、白色の翼を畳む。
 巨大な鳥は、くちばしから深い息をついて首を振った。聞き慣れない言葉で、アンバーシュの軽卒を諌める。アンバーシュはにやっとした。
[だから連れてきたんですよ。モノを受け取ったなら和議は成るでしょう?]
 鳥はいちるを見つめた。いちるは黙って、これは自分の意志ではないことを目で訴えた。相手は心得たように頷き、翼を広げて飛び立った。
[クロードを呼んできてくれませんか?]
 鳥が鳴いた、と同時に声がした。
[クロードはここに。アンバーシュ。あなたはまた、なんて横暴をなさったんですか]
 優しい声色の男は、茶色の髪に、緑と黄色のまだらの瞳をしていた。混ぜ物をした蜻蛉玉のような瞳でいちるに目礼し、アンバーシュに弱った顔をする。
[すでにアマノミヤの神々から、こちらに問い合わせが来ています]
[対応はナゼロフォビナに任せればいいですよ。あれは二枚舌だから]
[そのナゼロ様から、あなたが戻り次第寄越すようにと伝言を賜っています。すぐに向かってください。その間にちゃんと言い訳を考えてください]
[やれやれ。休む暇もないですねえ]
 アンバーシュは深々と息を吐いて肩を落とす。[そなたが悪い]といちるがぴしゃりと言ったのに、クロードと呼ばれた班目の男は驚いた顔をした。
[それで妾は放っておかれるのか。やれ、これが西神の歓待の仕方らしい]
[歓待。してあげましょう、存分に。俺が戻ってきてから]
 アンバーシュ、とクロードが半目をやっても、彼はいちるを見たまま笑っていた。
[クロード。もう知っているでしょうが、彼女は東国の千年姫です。俺の天幕へ案内してください。千年姫、必要なものがあるならクロードに言ってください。彼も半分神の身ですから、俺と同じように言葉を交わすことができるでしょう]
 連れてきた責任を放棄して、あるいは自業自得の咎を受けて出向するアンバーシュを見送って、うんざりとため息をつく。神の陣営に招かれて寒さは和らいだものの、感覚が鋭敏になって休まらない。神気が強く、こんなところで休めるだろうか。
[主の勝手をお許しください。どうぞ、ご案内します]
 アンバーシュとは違ってそっと呼びかけられ、いちるは頷いた。
 彼の天幕は、黄金色の幕が垂れ下がった一画だった。辺りに人気はなく、陣幕は静かに微風にそよいでいる。こんなところで客人扱いも無理かと諦めたところで[必要なもの、用意させていただくものはありますか?]と尋ねられた。
[脂と水と顔を拭くための布を。それから着替えと化粧道具をいただきたいが、これはミハナの国の者に女の着替えを申し付けられるとよいかと思います。――ご面倒をおかけする]
 アンバーシュよりも見た目年下に見える神は目を瞬かせている。微笑みかけると、顔をほんのり紅潮させた。
[こちらで休ませていただけるのだろうか?]
[はい。主の身勝手、誠に申し訳ありません。どうぞおくつろぎください]
 いちるは鷹揚に頷いた。こちらとて、誰彼構わず強情な態度を取るわけではない。クロードの非はどこにも見当たらないのだから、アンバーシュに対するのと同じ態度を取る意味がないのだった。
 天幕の中には机と椅子があり、奥に天蓋をかけた枕の山があるのが見えた。布団で横になれるわけがないから、幕のあるじの断りなくそこに腰を下ろし、身を投げ出した。目だけをやって、天蓋の布の隙間から、アンバーシュが座るのであろう椅子の細工の見事さを辿る。絹で背もたれと座を張っている。その布も山吹色で、黄金に光って映る。
(夜が明ける頃には妾の処遇も決まるだろう。それまでの辛抱だ。一時的であろうとはいえ、神々の戦いの休息にこの身ひとつではあまりに軽すぎる……)
 それが現実なのだった。東島において撫瑚の妖女と呼ばれようとも、東神の加護を得ることも何らかの守護を与えられることもなく、巫女のように神聖な僕になることもできなかった。東神の有り様からすれば、例え巫女であっても停戦の条件にはならない。
 人がやってくる気配に身体を起こす。クロードが化粧を落とすための道具を持ってやってきた。到底身体が休まるとは思えないが、一晩の辛抱だと言い聞かせた。

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