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 耳を澄ましている。
 軽やかで儚い、雪解けを思わせる声が、再び聞こえてくるのではないかと、失われたことを理解しながら、それでもなお、求めている。
 彼女の姿を彼は知らない。彼にとって、彼女は声のみで、しかしそれだけですべてを感じ取れるほど、純粋そのものを体現した存在だった。悲しみは悲しみに、喜びは喜びに、怒りは怒りに。表も裏もない、まっすぐな感情を伝える声。それはいつもどこか消えてしまいそうな純粋さを帯びていて、地上のものに握りつぶされてしまう花の、雫のようだった。
 冷たい大気のたなびく、花園に立つ乙女。失われたアガルタは、彼にひたすらな悲しみをもたらす。
 かすかなため息が重なる。
 彼と向かい合う片割れは、普段は饒舌だが、二人きりの時は沈黙している方が多い。軽々しさと騒々しさは形を潜め、この男が孤独であることを知らしめる。どれほど妻を持とうと、子を生そうと、それらは男の望む愛を持ち得ない。ゆえに、この半身がアガルタを手に入れたならば、自分と同じことをしただろうということを、彼はよく分かっていた。
 対照的に座す、遠くて近しい片割れ、アストラス。
「わたしたちは、ただ、かえりたいだけ……」
 半身が呟く。彼は目を閉じる。
(そこへ行けば、いつか、そなたに逢えるだろうか……)
 そして等しいときに席を立った。
 光と闇を映す目と目を合わせ、彼らは同時に口を開いた。

「時が来た」




「――……すか……大丈夫ですか!?」
 息が、できる。
 揺さぶられ、大きく息を吐いた。身体の中のものをすべて吐き出してしまう発作的な不快感に襲われたあと、いちるは己の手をまじまじと見つめた。肌は白い。痛みもない。だが、どうして生きているのか分からない。
 辺りを見回すと、恐慌を来す直前の者たちが、それぞれ異なる大きさの荷を負い、足を縺れさせながら走っていくところだ。泥が、と叫ぶ者があり、あっちは沈んだ、と言う者がいる。いちるを害そうとした男の姿はなく、男の身丈に合わせた一振りの刀が、それがどこかへ消え去ったことを教えていた。
 まじまじと我が身を見つめ、ああ、と息を吐いた。
(そう、か。妾は、もう……)
「大丈夫ですか」
 ずっと語りかけていた声の主は、あばたの浮かぶ少女だった。髪をひっつめ、下働きのものらしい粗末な着物に身を包んでいる。真摯な眼差しに頷きを返すと、彼女はいちるの腕を己の肩にかけた。
「逃げましょう。おかしな黒い泥が湧き出てきて、触れているとどんどん力をなくしてしまうんです。ここが沈む前に、早く逃げなくては」
 いちるは腕を抜いた。だが、立っていられずそこにへたり込む。
「お前一人でお行き。妾は足手まといになろう」
 少女は、きゅっと眉を寄せ、首を振った。
「いいえ。ご恩返しをさせてください」
 意味が取れぬいちるに、娘は言う。
「三年前、針をなくした者がいたことを覚えておいでではありませんか。処罰されるところであったのを、尊い方の千里眼によって救われたのです」
 そんなことがあったような、といちるは考え込んだ。西島に渡る前、アンバーシュと出会う前の出来事だが、この娘はずっと恩に感じていたらしい。倒れていたいちるを見つけ、この状況で連れ出そうとしていたようだった。
「ならばなおのこと、手を借りるわけにはいくまい」
「そんなことを言わないでください。お願いです、恩人を見捨てさせないでください」
 どのように突き放せばこの娘が背を向けてくれるか、いちるは言葉の刃を研ごうとした。
 その時、空が眩く、世界を白く染め上げた。
 清浄な風が通り抜ける。
 いちるは、巨大な何かが滅したことを知った。途端、身体の奥深くが疼くように痛み、ぐ、と唇を噛む。
 行かなくては。
 落ちていた刀に手を伸ばし、それを杖にして立ち上がる。慌てて介添えする娘の手を外そうとし、いちるはその目に固いものが宿っていることを見て、ため息を零した。
「……では、妾を外に連れて行っておくれ。ここから最も近いところでよい。外が見たいのだ」
 針を持つ女の腕は、だというのにいちるよりも格段に力強かった。肩を担ぎ、人の流れのない方へと進むと、やがて開かれた回廊へ出た。ここから庭へ出ることができるはずだが、その光景は無惨なものだった。
 黒い海がとぷりとぷりと波打っている。波の中に折れて落ち込んだ木々に打ち寄せる波は、それらを黒く染めていた。白砂など影も形もない。花などいわずもがな。世界の終わりと最果てが混ざり合った混沌の風景は、色彩が失せた暗色の世界だ。
 娘がそこから更に進もうとするので、ここでいい、と伝え、杖を使いつつ柱に寄りかかる。娘は不安そうに、本当でここでいいのかと躊躇い、いちるのか細く息を吐く姿を見守っていた。
 力が失われつつあった。この身体は余力で動いているようなものなのだ。アガルタと、アマノミヤと、アストラスの三つの力が宿っているというのなら、今、己を動かしているのはあの男の与えたものであるといい、といちるは思った。
「これを」と立ち去りがたい娘に微笑み、外した耳飾りを握らせた。黄金と宝石で形作ったものであり、神から授けられた装身具だ。それと分からずとも価値があることは察せられたのだろう、娘は青くなった。
「いただけません!」
「いいからお持ち。妾にはもう不要なものじゃ」
 荒れた手、しかしいちるを連れてきた強さに謝意を示し、両手を包み込む。捧げ持つようにして、か弱く、しかし力強い娘の心根を尊ぶ。
「妾が祈ろう。お前とお前の一族は、この先どんな苦難の道を歩もうとも、必ず光の導きを得るだろう。迷い、傷つこうとも、必ず光を手にするだろう」
 娘の手の中にある耳飾り。銘は『光輝』という。
 押し出すようにして娘を遠ざける。そこに留まっていた娘は、いちるがゆっくりと立ち上がるのを見届けると、堪える様子で頭を下げ、踵を返した。走り行くその背が見えなくなると、ゆっくりと、太刀を突きつつ足を踏み出す。
 雷が閃き、空が光っては暗くなる。
 火花のように散った何処かの神の光が消えていく。
 カレンミーアの力を感じる。たった今触れた風は、渡汰流の力だろうか。遠くで陽炎のように揺らめいているのは、紗久良姫や満津野姫を始めとした、姫神たちの結界に違いあるまい。大気が湿っているのは、珠洲流や、恐らくナゼロフォビナも来ているのだろう。雷光によって雲に長い蛇の影が映る。その力が腐った大気を封じ、清めている。
 そして、彼らが戦う闇は、巨大でいて鈍重に、周囲の風と雲を飲み込みながら、空に渦を作って蠢いている。おお、と低い唸りと、ああ、という高い悲鳴を響かせて、上空を彷徨っているのだった。
 その暗い世界で鮮烈に輝く光の主をいちるは知っている。
 何故だろう、ここに立っていて浮かぶのは、諍いあったことでも、思いを通わせたことでもなく、夜に包まれる雪世界で雷雲を見上げている最初の自分なのだ。
 舞い飛ぶ雪片、吹きすさぶ寒風の中、唇を噛み締めていた。降り立つ者が己の領域を踏み荒らす者でないかと、きつく中空を睨み、待ち構えていたあの時。手を伸ばすなど以ての外で、手を取られるなど想像もしていなかった。
 闇の泥に真紅の裾がたゆたう。汚れた文様の梅花をたぐり寄せるようにして、握った。
 目を閉じる。
 時が来たのだと、思った。
 大きく息を吸い込むと、光に向かって声を放った。



 力の差は僅かになった。際限なく湧き出る魔の力は、フロゥディジェンマによって一気に削がれた。火の神の影は消え、収まる形を失った闇は、奇妙な声を響かせながら大きくうねっている。どうやら、宗樹にも制御することのできないものになりつつあるようだ。下僕として放っていた力を失い、アンバーシュと直接戦うしか術はないらしい。
 それぞれに右手に生じさせたものがぶつかり、大きく弾けた。勢いに負けて二人して後ろへ飛ばされる。だが同時に宙を蹴り、再び右手を突き出した。二の舞になると踏み、宗樹が大きく足を蹴りだす。ぶつかり、弾ける音。宗樹が体勢を立て直す。だが何かに気付いて身をかわす。顎を閉じた狼が、男の目前で消失する。
 眷属をかわされたアンバーシュに、宗樹が笑いかける。男の周りには、敵を滅し、最後の一人を認めた神々が集い、包囲を固めていた。

 ――アンバーシュ!

 そして、声が響く。
 地上に立ってあるのは、求めて止まない彼女の姿。左手を空へ伸ばし、微笑をたたえている。血の気を失い透き通るような白い顔に、黒い瞳がきらきらと輝いているのが分かった。楽しげに見えるほど明るい顔をして、まっすぐにアンバーシュを見ている。
 だが、その手は、伸ばされたのではなく、手のひらが向けられているのだった。まるで――手を振るかのように。
 いちるが、もう一方の手にあったものをゆっくりと持ち上げる。
 抜き身の白刃はその場の何よりも美しく、研ぎすまされていた。髪を乱し、衣装を着崩して、刀を手に立っている姿は、まさに撫瑚の妖女と呼ばれる者の姿。
「やめろ――!!」
 宗樹が大きく身を乗り出し、吠えた。それは、アンバーシュの叫びと同じものだった。
 その瞬間、いちるの白刃は、彼女自身の腹部を貫いたのだった。
 吠えた宗樹は敵を忘れた。男の嘆きを聞いていたアンバーシュは、己と等しくするその悲しみの声の中央に向かって、雷槍を叩き込んだ。喉の奥にあった悲鳴は、光と衝撃音と混ざり合い、天地に轟いた。

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