第二十一章
 連鎖円環 れんさえんかん
<<  ―    ―  >>

 闇だ。
 己以外の何も存在しない、本当の黒の世界。生者の気配の感じられない、空気の動くかすかな音だけが聞こえてくる。何も見えない、そう思ったとき、足下に何かが触れた。
 ぴしゃり、と初めて他の音が聞こえた。足下を舐めるのは、闇の色を映す鏡のような水だ。その水の源を目で辿っていくと、遠くに発光するものがある。鱗のような波紋を描く、銀の河だ。
「なるほど……」と言った声は耳の中で反響する。
 アガルタへの道とはこのような闇の道らしい。振り返っても見えるものはなく、ならば進むまでと、いちるは河を下っていくことにした。
 恐らく迷うことはない。道筋をつけねば辿れぬということは、往くさだめの者はその道を知るということ。そしていちるは、もう地上に肉体を持たないのだから。
 河を沿って歩き、どのくらい経ったのか分からぬが、それほど時間をかけずに何かに行き会った。
 川辺に漂う何か。疲れたようにふらつき、絶え絶えに発光している。
 それに触れて、いちるは微笑んだ。
 両手で包み込み、囁く。
「地上へお戻り。わたしの道を辿っていけば、望むところへ帰ることができよう」
 道が見出される前に送り出されたために、彼は傷つき、弱っていた。答える力も失い、また自身の形すらも見失って、いちるに抱えられるままになっている。
「ミザントリや、ディアスやベルンデアが待っている。戻っておあげ」
 妻と子の名に、無限の闇に埋没しつつあった記憶を取り戻したクロードは、輝きを増し、いちるの来た道を泳ぎ始めた。
 だが、何かに気付いて立ち止まる。
 いちるはそれに首を振った。
「わたしは、もう戻れぬのだ。だから伝言を頼めるだろうか」
 言う側から視界が歪む。この場所では、時は一瞬にも永遠に近くもなる。過去と未来が混ざり合い、入れ替わるのだ。空間が捻れ、クロードが遠ざかっていく。
「アンバーシュに。『愛している』と」
 黒い霧が視界を消し、再び辺りは闇に包まれる。誘うように水が寄せ、いちるは再び歩き出した。川幅が大きくなり、水の嵩が増す。足首が浸かり、膝が濡れてきた。掻き分けるようにして進む水の流れは、いちるだけが乱している。だが、河は拒まなかった。それどころか導くようにして、流れが背中を押してきた。攫われぬよう足を踏み出し、今は顎まで迫ったその水に、意を決して沈んだ。
 河はそれを待っていた。水が抱いていた力をもって押し出されたいちるは、巨大な扉を見た。
 銀細工で出来たような、緻密な彫刻と装飾の扉だった。半円を描く上部、左右には細い溝が刻まれた柱が支えている。だが、花や獣といった生き物の姿はない。線や点が組み合わさり、極上の文様を描き出しているだけ。繊細な部品を組み合わせ、壮麗な扉を作り上げているのだ。
 扉が開かれる。意識が遠のく。地上の者を拒むその入り口も、どのように中へ入るのかも知ることも、世界の秘密と等しいものだったのかもしれない。いちるは気を失い、何もないところへ落ちていく。


 …………。

 ……………………。

 ……。

 ………………………………………………………………………………。

 …………――――――。


「――……ヘーラ、アフロディー、テ、デーメテール、ア、テ、ナ!」
「ディーアナダイアナ、セレーネアルテミース……」
 少女が楽しげに呪文を繰っている。人の名だろうか。気ままな音程と拍で歌うそれは、明るく楽しく、笑いを含んでいる。
 瞼の裏に光がある。触れた香りは、日向に温もった草と土。どこからか水音が聞こえてくる。このまま微睡んでいたい陽気。
 ゆっくりと目を開く。最初に見えたのは、白い花だった。宝石のように輝く花が、地に根ざし、咲き群れて、鼻先に開いている。手を伸ばそうとして、あ、と声がした。
 二つの影が覗き込む。
「目が覚めた?」
「気分はどう?」
 口々に言ったうち、一人は、茶色の髪に緑の目をしている。髪を二つの三つ編みにして、形も色も異なるいくつもの花で飾っていた。もう一人は黒い髪に黒茶の瞳をして、こちらは腰まである髪を束ねた先から細かに編んでいる。
 どちらとも、十代前半。まだまだ子どもの年頃だが、その愛らしさは凄まじかった。どちらも成長すれば目を見張る美女になるだろう造形と、彼女たち自身の持つ愛嬌が光となって取り巻いているのだ。
 黒髪の方が言った。
「陽月のを呼んできて」
「どっち?」
「リラの方」
「分かった、任せて!」
 走っていく娘は裸足だ。だが、彼女を傷付けるものは何もないのだろう。まっすぐに風を切っていく。
 起き上がり、辺りを見回す。離れたところに河が見え、草原が延々と広がっている。遠くに霞んで見える山並みは緑に覆われ、丘の起伏に木々が群れている。ささやかな木立から鳥が飛び立ち、小さな翼をはためかせていった。座り込んでいる足に何かの感触を覚えて裾を持ち上げてみると、靴のない足に羽蟻が這っており、視線に気付いて飛び立っていく。
 暖かい。空気が、ここが春なのだと教えてくる。
 晴れた空に、雲が穏やかに運ばれていく。さあっ、と吹き抜けた風が、河の水面を揺らす。魚が跳ねる音がした。
 ――ここは、本当に……?
「ちょっと待ってて。あたしたちが連れて行ってもいいんだけど、陽月の双人(ふたり)の方がしっかりしてるから」
 そう言っている間に、緑の海を誰かがやってくる。
 三人目の女は、黒い髪を肩までに短く揃え、少女たちと丈の異なる白い衣装をまとっていた。細かな飾り網の肩布を身体に巻き、微笑みをたたえながら歩んでくる。歳の頃は二十代、透き通った儚い美貌にあるのは壊れそうな繊細さではなく、彼女自身が身につけた時の流れによる落ち着きだ。
 こちらにやってくると、膝をつき、涼やかな声で尋ねた。
「ここがどこなのか、分かって?」
 裸足の足。滑らかな手。自然の音ばかりが支配する、清らかな国。
「――……アガルタ」
 女は頷いた。
「ようこそ。……そして、おかえりなさい。ここはアガルタ。すべての始まりの土地です」
 女は少女たちに言った。
「目を覚ましたと、アルに伝えてきてもらえる? 私はこれから、この子に色々教えなければならないから」
「他の子たちにも知らせていいよね?」
「ええ。水魚池(みずうおのいけ)に、白魚(しらうお)のと春見(はるみ)のがいたわ」
 二人は手を繋いでいく。仲睦まじいのもあるが、そうすることが自然な仕草だった。大人しく走っていたのは最初だけで、しばらくすると止まったり引いたりと遊び始める甲高い嬌声が聞こえてきた。ふっ、と笑い声がした。
「歌舞(うたまい)の双人は元気ね」
 視線に気付いて女が言う。
「ここでは、皆が好きなものを名にしているの。あの双人は歌舞(うたまい)。他にも、白魚(しらうお)春見(はるみ)紫蜂(しほう)、たくさんいるわ。私は陽月(ようげつ)
「二人の名が同じなのか?」
「ここでは、すべての者が片割れを持っているの。ばらばらで動いていることはあまりないから、歌舞の、と言えばだいたい通るのよ。でも今の私のような時もあって、そういう時は『どっち?』『アルの方』というようなやり取りをしているわね」
 区別があってね、と陽月のは吹いた風に髪を押さえた。
 遠く遥かな、海と大地の彼方に、傷つくことも、飢えることも、寒さに震えることもない、すべてが存在する場所がある。緑はあたたかに育まれ、澄んだ水に魚が遊び、木々は鳥に枝を差し出し、花は揺れて太陽に微笑みかける。ここに住まうものはあらゆる祝福を受け、平和と静寂を約束される。

「あなたも知っているはず。アガルタには双の乙女がいる」

 繰り返し唱えた楽土の名。
 丘の向こうから、手を取り合った乙女たちがやってくる。

「――シャングリラの一族、そして、アルカディアの一族。あなたはシャングリラの娘。この場所から去ったシャングリラの血を引く、最初で最後、唯一の、娘なのよ」

<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―