後章
 離庭の始 りていのはじめ
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 裾を絡げて女官が走る。騒ぎを運ぶ足音を、聞きつけた者が驚いた表情で見送る。白花宮付きの女官は風変わりの者が多いと評判だったが、宮の主が不在となってからはその存在も口の端に上らなくなった。しかし彼女が疾走するに至り、皆が思い出したらしい。あの娘が走っていると、必ず事件が起こっているのだ。
 前方にもう一人が見えた。同じく白花宮に仕えていた一人である。
「ネイサ!」
 いつも彼女を叱っていたネイサは、しかしかっと目を見開いたその表情のまま、ジュゼットに向かって手を伸ばした。がしっと両手を握り合う。
「ネイサ!」
「ジュゼット!」
 同時に叫ぶ。
「妃陛下が夢に出た!」
 そこへやってきたレイチェルも、苦笑いで頷いた。






「余計なお世話ですわよ。まったく……」
 男どもの声が行き交う訓練場を見下ろして、セイラは早朝から同じ言葉を繰り返している。隣で繰り返しを聞く緑葉騎士団長クレスも、その補佐官に一人として付くようになったヘンディ・エッドカールも、すっかり慣れたもので笑っているだけだった。
「お前はどんな夢だったんだ?」
「真面目にこつこつ努力しろ、と言われました。絶対に出世できるし望むものを手に入れることができるから。ただ、あんまり女性に入れ込むな、だそうです。押して押して、になるそうなので気をつけなければならないとか」
「ははあ。例の、白花宮の女官のことだな?」
 ここ数年、ヘンディはとある女性に少々恋をしている。
 それこそ押しても押しても、何を贈っても「綺麗ですね!」「美味しいです!」、ちょっと囁きかけても「勘違いされるので気をつけてください!」と明るい笑顔を返してくれる、それはそれで嬉しいのだけれどもうちょっと違う反応がいいなあ、という彼女のことを思い出し、ヘンディはため息をついた。もうちょっと、やり方を変えてみよう、そう決意する。
「そういう団長は?」と尋ね返されたクレスの顔は晴れやかに意地悪だった。
「教えるわけないだろうが」
「ほんっと! 余計な! お世話ですわ!」
 セイラが吠える。黙っていればいいものを、腹立たしいあまり周りに言って回っているようだが、それでも堪えきれず今朝から怒りをぶつけている。波のようにやってくる怒声に、ヘンディは首をすくめた。
「そんなに怒るってこたぁ、図星だったわけだろう。いいじゃないか、婚期を逃しても。今でも十分、お前は立志伝中の人物だぞ? 下町生まれが今や近衛騎士団長様なんだから」
「いちいち指摘してくるその無神経さが嫌いなんですわ! 言われなくても分かってますわよ!」
 たった一つが手に入らないくらい、と低めた声は誰にも聞き取られなかった。クレスとヘンディが、来訪したエルンスト・バークハード宰相補佐に敬礼したからだ。
「まだ怒っているのか。いい加減にしなさい」
「ああら、そろそろ現実に目を向けろと夢のお告げをいただいたお兄様ではありませんの。こんなところで何をなさっているのかしらぁ?」
 エルンストは騎士の二人を下がらせ、深くため息した。妹の性格をよく知っているために呆れて、苛立ちで歪んだ顔を見る。彼には、妹が怒りながらも、すべてを吐き出さずにいることを知っている。その証拠に、注視しているとセイラは眉をひそめ、顔を背けた。本音が透けることを恐れたのだ。この女にかかれば、怒りも悲しみも仮面になる。
「さっさとご用件をおっしゃったらいかが?」
「キュネイル家との見合いだが、断ってきた」
 顔を向けぬまま、セイラが息を呑んだ。
「あちらも仕事の方が楽しくて、家庭に収まりたくないということだったのでな。それでまあ、今日の夢のこともあるし、自分と向き合ってみたのだ」
 今朝のヴェルタファレンでは不可思議な現象があちこちで起こっていた。
 多くの者が、不在となった王妃が現れる夢を見たのだ。
 そこでは、幼子だったという者もいたし、妙齢の女、老女であったと言う者もいた。とにかく夢を見た者はそこにいるのがイチル王妃だと知り、思わず声をかけた。彼女は夢見る者に語りかけた。例えば、エルンストには。
『いい加減、目を背けるのは止めたらどうだ。お前が守りたいものはひとつであるし、それが変わらぬかぎり、お前に守れるものはたったひとつ。現実に目を向けなさい。そこにあるものを失う前に』
「だからここに来たのだ――セイラ。私は結婚は諦めた。バークハードの血は、適当な者を養子として継がせればよかろう。それが認められるくらいには、私も権力がある。不届きな父の血が継がれるのはぞっとせんからな」
 腕を組んで、セイラは視線を落としていた。唇を噛み締めて、長く、息を吐いている。
「……それで?」
「それでまあ、お前に面倒でも見てもらおうと思ってな。どうせお前も結婚するつもりはないのだろうし、腹違いの兄妹で余生を過ごすのも悪くはなかろう」
「勝手なことをおっしゃらないで。わたくしは立志伝中の人物ですのよ。この上、玉の輿に乗る予定なのです」
「馬鹿を言うな。お前の美貌があれば、とっくに婿など容易く手に入れているだろうが」
 セイラは目を丸くした。
 腹違いの妹が美しいことに、エルンストはずっと苦々しい気持ちでいた。この女は有効活用するどころか悪徳に利用するごとく、己を踏み台にしていったのだ。自分のことをもう少し大事にすればよかろうものを、粗雑に扱って、逆に口惜しさを募らせていたことを知らないとでも思ったか。
「適当なことを言うのは止めろ。大切にされたいのならば、自分を大事に扱うべきだ」
 白い頬に、血が上っていく。
 ふるふると震えていたセイラは、口を開け、何かを言いかけた。だが、ぐっと顔を歪めて歯を噛むと、地を這うごとく低い声で「お兄様のくせに」と言った。
「エルンストのくせに。エルンストのくせにエルンストのくせにエルンストのくせに――!!」
 子どもっぽい怒鳴り声をあげて地団駄を踏む妹を見て、エルンストは唇の端を歪めた。
「観念しろ。多分私たちは、一生二人だぞ」






 仁王立ちする銀と真紅の女神を前に、アンバーシュの顔が引きつった。妙齢の姿の女神は腕を組み、眉間に皺を寄せている。美貌が不機嫌に覆われると言いようのない迫力となって、アンバーシュは思わず繋いでいた手を後ろに隠す。
「エマ」
 その一方で、一縷の顔は綻んだ。袖から覗く少女の手が伸ばされると、途端、女神の顔はくしゃりとなった。
[イチルぅー……っ]
 一縷に覆いかぶさるとぐすぐすと泣き始める。抱きとめる方が、よほど大人らしい顔をしている。
[イチルがお嫁に行くのは、まだ、早い]
「母上は気が早い。私は生まれてまだ五年しか経っていないのだよ」
[だって、オルギュットは三歳のレグランスに結婚を申し込んだ!]
「私はまだ何も言われていない」
[言ってないの、バーシュ!? イチル(私の娘)の何が気に入らない!?]
 涙で目の周りを赤くし、頬を濡らした状態で睨まれるものだから、後ずさりするほかない。
「ご……五歳にはさすがにまだ求婚できません」
[意気地なし!]
「結婚してほしいのかそうじゃないのかどっちかにしてください!」
 くすくすくす、と軽やかな笑い声が春の庭に響く。母の胸に頭をもたらせながら、黒い真珠の瞳が穏やかにきらめいている。あれほど望んだ由縁が彼女を守り、彼女が守ったものが、今の少女神を包む。
 それを見守るだけでも、今は十分だ。
[一緒にいなきゃ、だめでしょ!]
 大神に叱られ、一縷と二人、肩を竦める。だったら約束させてください、とアンバーシュは女神に請うた。
「また会いにきます。これからのあなたのことを、もっと教えてください」
 そして恋をしよう。二度目の恋だ。
 一縷は母の腕から離れて立つ。以前よりもずっと小さくなった手のひらを、アンバーシュの頬にそっと伸ばして。
「待っている……」
 その続きがあったのかどうかは、とりあえず忘れておく。
 言葉はアンバーシュの喉に奥に消えて、見開かれた目はゆっくりと閉じられる。合わさった唇の熱に酔うように睫毛を震わせて、一度離れ、もう一度、重ねる。うっすらと染まった頬に、変わらないなと囁いた。
「……何が」
「キスが好きだったなあって」
[アンバーシュ――!!]
 怒声は、紗久良のものだった。頃合いとみて戻ってきたらしい。口づけの現場を目撃して、思わず叫んでしまったというところだろう。とても東の高位女神とは思えない、真っ赤な顔で震えている。その後ろでは満津野が両手を合わせて目を輝かせていた。
[わたくしの! 可愛い一縷に!]
[すみません。もう俺のものなんで]
 一縷を腕にとらえてそう言うと、フロゥディジェンマが恨めしげにしている。とんとんと胸を叩かれて、アンバーシュは一縷を見た。
「すまないが、もう少しだけ、猶予を……」
「そうみたいですね。五年は、まだちょっと短いですもんね」
 生まれた我が子を五年で手放してしまうのは悲しいだろうし、戻ってきた妹が同じように離れてしまうのも難しいだろう。可愛がられていることに安堵しながら、アンバーシュは一縷を抱きしめた。
「もう少し待つくらい、どうってことないですよ。だから、ちゃんと準備をして、お嫁に来てくださいね」
「私が嫁に行かずとも、お前が婿にくればよかろう」
 鼻をこすり合わせて、囁く。
「本当に来ちゃいますよ?」
「ああ。来い。婿に貰ってやる」
 紗久良がいびってやると呟いた隣で満津野が笑いの衝動で肩を震わせ、阿多流を連れてきた珠洲流が、やれやれと顔を見合わせる。そうして、人目もはばからず触れ合うアンバーシュと一縷に向かって、フロゥディジェンマが両腕を広げて体当たりを食らわせた。
「愛している」
 声は、花びらの舞う空に、溶けていく。








 ロレリア特交守護官によると、王妃の夢は、彼女の神の力によるものだという。答えたロレリアもまた夢を見たそうだ。感謝の言葉をたくさん貰ったと、目尻に多くの皺を寄せて語った。フロゥディジェンマの訪れが少なくなり、寂しいと漏らしていたところのそれだったので、もう一度会いたいとしみじみ言っていた。
「ネイサは何を言われたの?」
「よくやってる、これからも頑張れ。周りの面倒ばかり見ると自分のことがおろそかになるから気をつけろ、ですって。ねえ、これってもしかして婚期を逃すってことかしら……?」
「私は、腕を磨いておけ、だって。だから究極の給仕を目指すわ! だって、妃陛下はいつか戻るっておっしゃったんだもん」
 その言葉は、例えば衣装部のイルネアやクレイシャたちにも、衣装などは処分しないで保管してもらいたいという形で告げられたそうだ。あの素晴らしい衣装の数々を処分するなんてもってのほかだと、お針子たちが食って掛かったそうで、夢の中でいちるは苦笑していたという。特交守護官のジェファン、エルネ、クゥイルの三人は、もう一度結婚はしてもいいが戻ってこなくていい、もっとややこしい事態になると声を揃え、インズ宰相はじめ諸大臣は、系譜をどうするかということから王妃を空位にするか維持するか頭を悩ませている。
 いちるは、いなくなってもヴェルタファレン宮廷を騒がせる。それはまるで、今でもそこにいるようだった。
 レイチェルはその騒がしさを愛していた。それはきっと、この先の自分が一人きりになっていようと、己を慰め、楽しませる記憶になってくれる。記憶、思い出は、積み重なっていけば何度も取り出し眺めることの叶う宝物となるだろう。
 だから、レイチェルはずっと、いちるを好ましく思っていた。あの人ほど、何かが起きる人もいない。そして恐らくは、その記憶は多くの人もまた楽しませる物語になる。
 楽しみだった。自分が歳をとって王宮を下り、一人暮らしの老婆、近所の子どもの家庭教師などをしながら『ただものではないばあさま』になること。いちるの物語は、子どもたちの目を輝かせる、素晴らしい日々。
 だから、夢の中でレイチェルは訴えた。――早く戻ってきてくださいまし。でなければ、わたしも退屈で仕方がございません。
「レイチェルさん! レイチェルさんはなんて言われたんですか?」
 ジュゼットが好奇心に輝く瞳で覗き込む。レイチェルは微笑みをたたえて答えた。
「『夢を叶えてやるから待っていろ』、だそうですよ」

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