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 暗がりの中に気配がある。
 息を密やかにして目を凝らしている。その視線は、寝台に横たわるいちるに注がれていた。
 横になった自分の傍らにじっと立ち尽くす気配に気付いて目を覚ましたはいいが、相手の目的が咄嗟に判断できず、寝入っているのを装っていたいちるは、どのように行動すべきかを考えた。
 無礼なと詰め寄ってもいいし、何が目的だと不意に尋ねて驚かせてもいいが、なにぶん夜更けだったためにいちる自身の機嫌がよくなかった。目の奥がしくしくと痛むほど、身体は睡眠を欲しており、不意に起こされて苛立っていた。
(いったい誰だ。こんな時間に)
 魔妖の類いかと考えたがどうも違うらしい。冷えた夜気に、生身の熱が感ぜられた。息の深さで男だと判断する。そうしてようやく、容易に部屋を訪れることができる者に思い至った。
(アンバーシュ?)
 クロードでもなくアンバーシュと見たのは、それぞれの性格による推量だったが、しかしいちるの疑問に、相手はまるで答えるかのように、深く、ため息を吐き出した。
 毛布の下でそっと拳を握った。ぬかった。この自分が。
(そのような気配などないから気を抜いていた。まさか――夜這いに来るとは!)
 最初の晩に気を張り過ぎ、何事もなかったために拍子抜けして以来、つい油断してしまっていた。いちるの立場は宙に浮いたままで、クロードも何やら勝手な事情があることをにおわせていたから、このまま泳がされるのだと、そう思い込んでいた己に腹が立った。
 潜り込んできたらその指食いちぎってくれると、表面は平穏な寝顔を繕いながらアンバーシュの挙動に神経を尖らせ、待った。
 しかし、何も起こらない。
 アンバーシュはただ静かに、寝台の側でいちるを見下ろしているだけだ。
(何をしている。さっさと来い!)
 歯噛みする時間は長かった。じっと待つだけでは苛立ちが募るばかりで、起き上がって罵倒した方がいいのではないかと思い始めた頃に、ようやく相手が動きを見せる。
 そっとかがみ込んだアンバーシュは、いちるの額に手を滑らせると、頬を包み込み、そのまま動きを止めた。
 何事かと驚くいちるは、やがて、額に口づけを受けた。

 それきり相手は身を翻し音もなく立ち去ってしまった。あまりにも不意を打たれたために罵りも蔑みもできなかったいちるは、暗闇の中で目を開き、何もない虚空に向けて思いきり顔をしかめた。
「……何じゃ、あの腰抜け」





 春を目前にした晴天の日。刷毛を使ったような掠れた淡い雲が空を彩っていた。
 娘たちの歌声が重なる。馬車に乗り合わせた娘たちは、楽しげに西国の歌を口ずさんで、いちるはそれを笑いたくもないのに笑って聞いていた。
「――今のはいかがでした? ヴェルタファレンの西地方で歌われる歌ですのよ」
「とても可愛らしい歌だと思います。皆さんの声も愛らしい」
 屈託なく話しかけてくるミザントリに答えると、周りは彼女とよく似た笑い声をあげた。
「一緒に歌えないのが残念ですわ」
「教えて差し上げますから、一緒に歌いましょう?」
 いちるは許容してやった。西国の歌は、東とは節や音の並びが違っており、これは誰かに師事しなければ獲得できない技術だと判断したためだ。
 一行は、街を出て西に向かっていた。イレスティン侯爵令嬢ミザントリの付き人たちが、軽食や飲み物を持った籠を持って、彼女たちの見えない遠くを歩いている。
 主都西部はロッテンヒルと呼ばれる丘と森の地帯、青き湖と呼ばれるマシェリ湖がある。当初の予定では一の郭のイレスティン侯爵邸で茶会を催すと聞いていたため、変更の連絡に面食らったものの、大急ぎで用意を整えた。いつの間に仕立てさせたのか、訪問着や礼装基本一着いちるに合わせて仕立て直されており、今日身につけた外出用のドレスは、セイラに鼻で笑われたような事態を再び招かずに済んでいる。
 今日のいちるは、水で洗ったような朱色、それもかなり少女めいた若い色の外出着を着ていた。遠目でも分かるはっきりとした色味で、黄色や緑という若々しい娘たちの装いの中でも群を抜いて派手だ。しかしくっきりした黒髪と淡い紅を引いた唇が浮ついた印象を引き締めていると自負している。実際、招待客を見た娘たちの刹那の嫉妬を、いちるは見逃してはいなかった。
「湖よ!」
 歓声が上がる。いちるも、ほう、と感嘆のため息をついた。
 この緑の中、瑠璃を溶かしたような青の水。水の色が深すぎて、遠目から見ても生き物の気配がしない。周りに獣の姿も見えず、不可思議な場所だと一目で分かる。
(神域か? 挨拶すべきだな)
 神の住居ならば一度目通りしておくべきだろう。不在の場合もあるだろうから、後ほどクロードに尋ねておくことにする。
 その湖が見える丘の上で、一行は荷物を広げ始めた。敷物の上に籠が置かれ、食器が準備されていく。従者たちが忙しなく働くのを横目に、ミザントリが「少し歩きましょうか」と号令をかけた。否やを言うものは誰もいない。
 懸命にさえずる鳥の声。森の中は湖の周りとは違い、ささやきめいた気配に満ちていた。木漏れ日の影に見える小さな姿は栗鼠だろうか。葉の陰に隠れた虫や、幹から離れた蝶の姿が見受けられる。空気は、香しい。
 しかし人が足を踏み入れない場所には、魔妖が隠れているのだろう。この天気だと悪さをしに出てくるとは思えないが、先日の襲撃を思えば警戒してしかるべきだった。
 くすりと笑う声がして目を向ける。口元に手を当て、ミザントリが笑っている。
「そんなに暗いところばかりをご覧になって。気になるのですか?」
「ええ」
「だいじょうぶです。ここはアンバーシュ陛下のお膝元。心配するようなことはありません」
 いつの間にか取り巻きは遠くへ行っている。
(追い払ったか)といちるは気付かないふりをして緑の風景を楽しむふりをした。椎や樺、楢といった見覚えのある木々が豊かに森を形成している。この辺りではもう春が訪れているのだ。アンバーシュやフロゥディジェンマが座すことによって、周囲に神気が流れ込んでいるのかもしれぬ。
 半神と呼ばれるものが、神と同じように大地に強い影響をもたらすのかどうか、いちるはまだ知らない。神が異界に居を構えるのは、人界に己の力を作用させることを厭うからだと聞いたことがあるが、アンバーシュはこの世に留まっている。半神は生粋の神々より人間に近いのやもしれなかった。
「この辺りには善き魔女が住んでいるという噂があるのですよ」
「魔女」
「ええ。恋に悩める乙女や、お腹をすかせた子どもを助けて、望む物を与えて送り出してやるのですって」
 その程度なら隠者の類いだろうか。本物の呪師ならもっと嫌悪されてしかるべきだろうと、魔女と呼ばれた過去があるいちるは思う。
「厭世して里を離れたのに、まだ己のことが人の口に上ってしまうとは、その魔女は親切な人物だこと」
 ミザントリはきょとんとして、噴き出した。
「面白い言い方! あなたのこと、やっぱり興味があります。最初は嫌いだと思ったけれど」

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