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 湿った風が枝葉の間を吹き抜けてくる。頭の上に落とされるまだ若い緑葉を払いのけ、湖が見えるところまで戻ってくると、いちるはネイサに厳命した。
「人を近づけさせぬように、わたくしの邪魔をさせないようにしなさい。わたくしの心配はしないでよろしい。何かあったらアンバーシュに言いなさい」
「姫様!」
「それから、何か切る道具を持っていませんか?」
 不意をつかれた顔をして、ネイサは反射的にばたっと己の服の裾を叩く。そうしてから改めて慌てた様子で持ち物を探り出した彼女は、おずおずと小さな箱を取り出して、そこから小さな刃物を差し出した。
「あの……糸切りばさみくらいしか……」
「結構です。借ります」
 携帯用の裁縫道具から銀色の光るそれを受け取るが、ネイサの顔から不安は消えない。
「これがあれば水馬を鎮めることができます」
「糸切りばさみで!?」
 ふん、と笑った。
「安心しなさい。あなたたちの女主人は、ただものではないのだから」
 ネイサを遠ざけ、さっさと行くように手振りして、いちるは湖へ向かった。
 ついに風が強さの極みに達し、湖の水を巻き上げて降り注がせてくる。せっかくの身繕いも意味をなさない。水に濡れて黒く重くなっていくドレスを忌々しく思いながら、湖の縁に立った。
 視線を感じる。一方は岸辺を遠巻きにしている遠足の一行。もう一方はヒムニュスか。
 足下を、魚のように跳ねとんだ水が濡らす。歩くための底の厚い靴を履いているおかげで不快な思いをせずにすんでいるが、代わりに雨のごとく落ちる水のせいでいちるの不機嫌は高まっている。
「人騒がせなやつらだ、まったく!」
 忌々しく言いながら手の中に収まる鋏を閃かせた。その両刃が切ったのは糸ではなく、けれど糸と同じ細さを持った、かつ黒く長いそれ。
 いちるは己の髪を一房切り落とすと、それを手に高らかに呼ばわった。
「マシェリの青い水に住まう神駒よ!」
 水は唸る。風は鳴く。緑はもてあそばれて絶叫する。音の渦中でいちるの声は小さくか弱い女の声でしかなかったが、左手を上げると、重ね着ている飾り編みが、開くようにこぼれ落ちる。
「我が名はいちる。東のいちる。御神の眠りを乱した、人間の娘の助命を請いたい。その娘は知り合って間がなく、義理もないに等しい。しかしアンバーシュの妃候補として招かれたわたくしの立場上、御神に無礼を働いたとはいえ、その娘を守る義務がある。庇護者であるべきわたくしの失態と思し召されるならば、この髪を持って怒りを鎮められたまえ」
 答えは、来ない。
 だが意識がこちらに向けられ、感覚が敏感に、拳を振り上げられたような威圧をもたらす。歯を食いしばって沙汰を待つ。
 水の流れが音を変えた。底へ逆巻いていたそれは中央へ高く持ち上がり、長首の様相へと形を変えると、その水の手を用いていちるに降り掛かった。
 水に飲まれる前に誰かが名前を呼んだ。女たちの悲鳴と、男たちの叫び声だったと思う。

 閉じた目と流水で感覚は闇に閉ざされた。
 冷たくもなく、寒くもない。身体は重くないのが不思議だった。まるで別の場所に連れ去られたようだ。何も見えず感じない。

[これは、変わったのが来た]

 耳の奥にまで入り込み流れ込んできたのは、水がもたらす低温ではなく、老爺のような笑い声。
[アンバーシュに嫁が来たか。まだまだ雛だと思っておったのに、なかなかいい趣味をしておる。が、まだ触れもせんとは初心よのお。我の方が先だとは、さぞかし悔しい思いをするであろうのお]
(マシェリの神馬……)
 相手は、呵々と笑う。思いがけず機嫌は悪くはなさそうだ。
[義理のない小娘の助命を請う、うんうん、恩は売っておった方がよい。あまりいい顔をしすぎるのも難だがな。あやつらは利用するだけ利用して、義理も果たさぬ輩が多い。気をつけよ。東神の国から来たそなたは、さぞかし心細かろう。使えるものはなんでも使え。何かあったら我に相談するがよい]
[許してくださるのですか]
[一度きりだぞ。西神に身を委ねた東国の乙女の献身に免じて。我らはそういう話が好物でなあ。またヒムニュスにでも聞くがいい。あれは話を語る神だ。どうせ我の目覚めを知って飛んできているのであろう]
 いちるはようやく微笑みを浮かべた。
[ありがとうございます]
[また顔を見せにきてくれ。そなたならばいつでも歓迎するぞ]
[はい。必ず]
[では、この髪はもらっていく。うん、いい髪だ。これならば力の源になりうる。アンバーシュに嫌気がさしたら我の元へおいで。アンバーシュなぞのものになるなど惜しすぎるでな。我が名はエリアシクルだ]
 名が交わされ、契約が成る。
 気配が去り行く直前、いちるはもうひとつの目を使った。すると、すぐ側に濃紺の毛並みに銀の目とたてがみの、見上げるほど巨大な駿馬が立っていた。青く光る身体がなんともいえず微細に輝いて、まるで夜空の星の河のようだ。
 彼は。透き通った宝石じみた目で笑った。

 と思うと、いちるは青い湖のほとりに、そうした時のまま立ち尽くしているところだった。
 どうやら、水を持ち去ってしまったらしい。あれほど浴びていた飛沫はすっかり失せて、髪も服も乾ききっている。けれどそれはいちるだけの恩恵らしく、周りはすっかり水浸しとなって、雲が払いのけられ顔をのぞかせた太陽に水晶のように光を通した。
 わあっと遠方で声が上がる。岸辺に引き上げられたのは、ぐったりとした娘だった。意識はないようだが命はあるらしい。エリアシクルは確かに約束を違えなかった。
 命あるものは誰しも、己の身に価値を秘めている。神たち始まりのものは、身体の一部をもって新たな神を生み出したことからか、人間の身体にも同じ真価を見ている。遥かに、命をなげうって神に誓いを立てる者がいたのも、血を使って呪術を使ったのも、そこに由来するのだ。
 二百五十の年月を重ねた、人ではありえぬいちるの身体には、相応の時間と力と値打ちがある。薄気味悪いと噂されるほどの髪にも、保持に見合った格があるのだった。
[ありがとう、エリアシクル]
 もうひとつの声で礼を言うと、波を残す水面がさざめいた。
 いちるが騒ぎが治まった頃を見計っていると、唯一居所を知っていたネイサが真っ先に飛んできた。「姫様! 湖が!」と見て分かりきったことを興奮した様子で訴えようとするので、いちるはとりあえず糸切りばさみを突きつける。
「返します。わたくしは疲れました。城に戻ります」
「は、はい!」
 心なしか目が輝いて見えるのは、一連の出来事に張りつめていた緊張が解けたせいだ。馬車の手配を始めようと、ネイサがイレスティン侯爵家の従者に声をかけにいった。
 周囲から漏れ聞こえてくる話から、さきほどの娘たちがとりあえず医師の元に運び込まれ、命に別状がないことを知る。城からは宮廷管理官が派遣されてきたらしい。先日の魔妖騒ぎで見た顔がちらほらうかがえる。
 多数の視線を感じていちるは目をやった。ゆっくりと順に顔を巡らせていくと、誰しも同じ動きを取る。今日一日、誰も彼も慇懃にいちるをほとんど無いものとして扱ったというのに、いたく熱心な視線どもだった。
 いささか、やりすぎた感も否めない。どうしてこうもめまぐるしく状況が変化するのか。撫瑚では部屋にあって状況を俯瞰し操作していたために、自由に足を動かし、人が入れ替わり立ち替わり足を運んでくる状況は、やはり疲労を積み重ねていく。
 ちょうどミザントリの顔が見えたので、いちるはそちらに近付いていった。
「城に帰ります。今日はご招待をありがとう。また後日ゆっくりお話ししましょう」
「ええ……」
 ためらいがちな表情で見つめられる。いちるが歩き出すと「お見送りします」と後ろをついてきた。ネイサが馬車を用意し、待機している。辿り着く前に「姫」とミザントリが呼びかけた。
「髪を……切ってしまわれたのですね」
「一部です。切る機会をうかがっていたから構いません。わたくしとしては、話が途中になってしまったのが惜しい」
 耳飾りとヴィヴィアンなる人物と過去に何があったのか調べるために近付いたというのに、本当に思わぬ珍事だった。早く帰って風呂に浸かって眠りたいが、城に戻るとまたなんだかんだと突き上げられるのだろう。そこにアンバーシュと顔を合わせて食事するかと思うと、次第に帰りたくなくなってきた。
 だが他に帰る場所もなければ仕方のないことだった。ミザントリに言った。
「明日は体調が悪くて寝ていますが、人に会えないわけではないので、見舞いは受け付けます」
 令嬢はきょとんと目を瞬かせる。やがていちるが真顔でいることをまじまじと見て、苦笑いして頷いた。

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