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[朽ちるのか、果てるのか。それとも、永劫に続けられるのか――それを見極めようというのか]


 哀れな、といちるは思った。
 この男は愛の形を見失っている。そうして、恐らくは自身で気付いているのに、言わないでいる。
(――それは、妾を愛しているわけではないのに……)
 望まれている言葉が何なのかは分かる。
 だが、いちるはそれを口にできなかった。本心とは言えなかったためだ。ここで折れては、今まで積み上げてきたものがふいになるようにも思えた。何故なら、この男の言葉はただの詭弁だった。
 いちるを愛しているわけではない。
 いちるの、千年姫と呼ばれる素質に、アンバーシュは固執しているのだ。

 けれど――誰がこのような言葉を東の妖女にかけたか。

 この人ではない者に、自分の側にいるためにお前はこの世にあるのだと言って、その結びつきはとこしえだと言う。すべてに取り残され、排除される、この身に誰が希求の言葉を投げたか。

 誰も、と心のうちでいらえがあった。

 手のひらが頭にかぶさった。首を竦める。
「めちゃくちゃ混乱してるのが顔に出てますよ? そういうところが、抱きしめたくなるほど可愛い」
[おっ……まえ……! ぽすぽす頭を叩くな! 木魚ではないわ!]
 はははとアンバーシュは屈託がない。
 殊勝な態度にほだそうとする下策だった。策にはまったと思い声を荒げようとした直後、アンバーシュの太い笑みにぶつかり、言葉をなくす。手が子どもにするように、いちるの頭を掻き回す。
「すみませんでした。あなたを振り回したり、逃げたりして」
 いちるは黙った。謝罪くらい聞いてやろうと鷹揚なところを見せるつもりで。
「あなたは何も変わらなくていいんです。そのままで俺には嬉しいから。ただ時々、触れさせてほしいんです。あなたがそこにいる、何者にも負けないで立っていてくれると確かめたい」
[…………童のようなことを言う]
 言いながら、これは子どもなのだと悟った。
 自分勝手で、己の感情を優先せずにはいられない、まだ幼い存在。ゆえに、半神。神に足らず、人でもない、幼き神。いちるが、まるで創造の三柱のごとき揺るぎない存在だと思い込んでいる。この身はあまりに頼りなく、出自も先行きも不確かだというのに。
[妾に受け止めろというのか。お前が、妾を守るのではなく]
 アンバーシュは目を見張り、困ったように首を傾けて額を押さえた。
「そういうことに、なるかもしれません。あなたを守らないというわけではないんですが……あなたの存在に、ずっと頼ってしまうと思う」
 なるほど、本当に素直になったようだ。犬が腹を見せるがごとく、弱みを見せられることで従順だと納得するとは、なかなか己も捻じ曲がっているといちるは思った。そうすると、どうにも自分がきたなく思え、こちらの方こそ参ってしまった。
 まさか悟りきられるとは思わなかった。いたたまれない。停滞しているのが自分だけだと思い知らされる。そうして、アンバーシュが言ったそのままでいいという言の葉が、安らぎを泉のように湧かせる。
(妾は、この、児戯に等しいやりとりで、何らかの解を得たのか……?)
 よく分からない、というのが本音だった。ただ言葉を繰っただけの気がする。
「さて、夜も更けてきましたね。どうします、このまま寝ますか? 俺は段々元気になってきたんですけど、あなたのせいかな」
[何だと?]
「あなたの力は、満ちる気を読んで、繋いで、流れに乗るものでしょう? あなたを通すと力が集まって流れが整う。あなたにいろんなものが集まってくるのはそのせいです。俺はさっきからべたべた触っているせいで、それなりに力を使ったのにもう回復してます。まずいなあ、他のに気付かれたらわらわら寄ってこられる」
[妾は砂糖か]
「見た目は甘そうなのに、舐めると実は辛かったりするんですよねえ。唇は甘かったですけど!」
 はたと目を合わせた。
 偽りと嘘の続きで、自分たちは今ここにこうしている。これが婚約しているというからお笑いぐさだ。
 どちらにも、心はない。
[――見てみようではないか、双方の心が、潰えるか、散るのか、それとも別のものになるのか]
 それが、アンバーシュの言葉に対するいちるの答えだ。
 許したわけではない。己を振り回す男を受け入れたつもりもない。だから堂々と戦ってやろう。息を吸い込む。にやけ顔に、鉄槌。
[恥ずかしいことを言うな、馬鹿が!]
 それでこそ! とアンバーシュは大笑した。
 いちるの口元も、ほころんだ。


     *


 森がやっと、秩序を取り戻しつつある。風はまだ雷雲の影響で強く吹くものの、雲は消えた。けれど星がまだ、怯えたようにかすかに揺らめき瞬いている。まだあの雷霆が分厚い窓を震わせているように思え、ヴィヴィアンは外に近付くことができなかった。
 一世一代の、振る舞いだった。かつて別れを告げた、この世で唯一だった、最上で最愛だったひとに、晴れやかな笑みを浮かべて頭を下げてみせたのは。
(今でも、とても綺麗だった。輝いていた……)
 アンバーシュとともに過ごしたのは、ヴィヴィアンがまだ十代半ばだった頃から、十年。愛されていた。愛の言葉を、ふれあいを、日々を、ヴィヴィアンは享受した。幸せだった。だからこその崩壊だった。
 琥珀と青のアンバーシュ。雷を操る、人の世に降りた青年神。彫像のような美貌も、たくましい身体も、雄々しい振る舞いや感情も、ヴィヴィアンにはまるで奇跡みたいに思えた。彼の腕に抱かれていると、何も不自由はなくて、世界は完璧だった。
 けれど、ただひとつ平等にならなかった、時間。ヴィヴィアンに流れる時間は、アンバーシュとは比較にならない。幼い少女だった体つきが、娘らしい丸みを帯びて、王のそばにあるべき女性のふくよかさを得たことは嬉しかった。けれどそれを過ぎれば、ただの毒でしかなかった。目尻の皺、首に重なるたるみ、垂れ下がってくる二の腕や尻。声は低くかすれるようになって、お気に入りの洋服の色が肌の色に合わなくなった。
 老いていく、私。
 なんて、醜い。傍らの光がまばゆいだけに、影は明瞭だった。
(別れたことは後悔していない……あのまま側にいれば、きっと壊れていた。あの人を愛していて、愛されていればいるほど、私はみじめになった。今はひとりだけど、傷つくことはないわ。静かで、穏やかで。過去を懐かしむゆとりがある……)
 十年。あれほど憎んだ時間が同等に流れて、ヴィヴィアンを癒した。アンバーシュの来訪に驚いたものの、笑顔を浮かべることができた。恐かったけれど、逃げなかった。逃げてはいけないと思ったから。
 洋灯の火が揺れる。なにげなしに目をやった。先ほどまで、それに照らされて一人の女性が横たわっていた。
(…………とても、綺麗なひとだった)
 長い黒髪と黄色みを帯びた白い肌と、漆黒の瞳の、雪や夜を思わせる美しい女性だった。あまり見たことがない、印象の強い顔立ちだ。彼女が、噂になっていた東国の女性なのだろう。
 拳を握る。
(人間じゃ、なかった。だからきっと、選ばれたんだわ……)
 綺麗な、人だった。ヴィヴィアンはもう一度一人ごちた。
 天馬の馬車に、雷霆王の側で、髪をなびかせ寄り添う彼女は、神話画のようにまばゆい一枚の絵だった。夜の婚礼、そんな言葉が浮かぶ。迎えにきた雷神、手を取る花嫁。私もかつてそう見えたのだろうかと思いを馳せ、闇色に塗られた窓を見たけれど、すぐに目をそらした。
「……もう二度とお会いすることはないわ。だからこんなに胸が痛いのね」
 傷つけてしまったあの人は、はっきりと今も傷ついた顔をしたから、二人は、お互いの傷が深く痛むことに気付いたのだ。
 ため息をついた。もうこんなに夜も更けている。つい何も考えられなくなってぼうっとして、ようやく思考が働くようになってこんな時間だ。脂も蝋燭も簡単に手に入るわけではないから節約しなければならないのに、つい無駄遣いをしてしまった。
 蝋燭を消し、洋灯の火を消した。暗闇がやってきて、しばらく何も見えなくなる。寝台に横になろうとして、ちかり、とあの時の雷の光がまだ目の奥に残っているのにきつく目を閉じた。

 ひっひっひ……と笑い声が聞こえてきたのはそんな時だった。

 息を詰め、慎重に耳を澄ます。この森には魔眸がいる。比較的力の弱い魔物ばかりだから、野心なく暮らしていれば悪さはしない。だが、強い物がやってきたならば、注意して遠ざけねばならない。自分に、あれらを祓う力はないのだから。
「可哀想に。一人で泣いているのかね?」
(気にしちゃだめ。お決まりの文句なんだから)
「なんとも哀れな。やはりアンバーシュは悪神だ。人を守護すべき神であり王であるものが、己の忌まわしい過去という理由だけで、こんなところに女性を一人追いやるとは」
 ずきりと胸が痛んだ。丁寧に傷をえぐる魔物の声が、途端、滑らかに耳に注ぎ込まれてくる。
「妻を得るために、昔の女をもう愛していない証拠として、あなたを追放した。あなたはもう二度とアンバーシュには会えない。あの男は会おうとはしないでしょう。何故なら、今傍らにある姫が、あなたが与えられなかったものをアンバーシュに与えるのだから」
 愛、喜び。満ち足りた日々。
 安息と幸福。相手の目を見交わすことで生まれる光。
 触れることで満ちる温もり。行き交う熱。
 そうしてそれ以外のものがあるという。それがヴィヴィアンには分からない。でもきっと、素晴らしいものなのだ。あれほど愛し愛された月日の中になかったものなのだから、きっと、二人は、壊れることはない。
「やがてすべての者が輝かしい王と姫の物語をあなたは聞くでしょう。けれど、あなたはたったひとり、孤独に死んでいく。思い出はやがて消えていく。あなたは過去。消し去られたもの。アンバーシュはあなたを忘れる。すべての者があなたを忘れていく」
(……息が……)
 苦しい。闇はなんて冷たいのだろう。身体から熱が消えていく。目から光が絶えていく。何も見えない。ただ、思い出の光が輝かしい。
 常闇の中で、何かが笑う。
「ひっひ……哀れな者よ。あなたの哀れさは、我らの中にあってこそ輝くだろうに。その悲しみ、その憎悪、なんと美しいことか!」
(綺麗なの、私が? こんなものが?)
「そうとも。美しい。甘美な砂糖菓子のように甘く、玲瓏たる歌のように麗しい」
 ここはこんなに冷たくて、寒くて、一人で。あなたが与えてくれた温もりは、どこにも見出すことはできないから、いつの間にか伝った涙は冷えきっていた。かすかに胸の奥でちらつく光は、かつて思いを捧げた男の名を呼ぶ。
 忍び込んだ闇がヴィヴィアンを覗き込んだ。
「おいで」
 招く声がする。
「おいで。闇の中へ。お前が失ったものを取り戻すために」
 虚空に手を伸べていた。それが、この世の常闇への墜落であると知っていたのに。
 思うのは、雷霆王に寄り添う自分の姿だけだった。
(――たすけて)
 ――やがて、奈落の底から勝利の声がこだまする。新たな仲間に向けた歓喜、敵に対する最大の駒を手に入れた雄叫びだった。


     *


 火照った頬を押さえ、眠たい眼を擦った。空気を鈍くするのは強い酒気だ。机の上には空の杯が二つ。貯蔵してあるほとんどの酒を開けたのだから、息を吸うだけで酔ってしまう。しかし決して不快ではない。
 椅子で眠る女を見た。顔が見られないように、手を下敷きにして伏せて眠っている。一声かければすぐに起きるだろうが、アンバーシュはそうしようとは思えずにただただ、小さく呼吸する身体を見ている。
(……こうなるはずじゃなかったんですけどねえ)
 もっときちんと話をするつもりだった。何を考え、何を求めるかを伝えて、関係の修復を試みるつもりだったのに、どうしてこうなったのだろう。素面でも分からなかったのに、酒を借りた頭でも思いつかない。
(あなたに賭けようとしているんです。存在が希薄になる前に繋ぎ止めてほしいんです。あなたに愛してもらえれば、きっと俺は心を薄れさせずにこれからも存在していられるから)
 何故なら、あなたは千年姫。人ならざる何者かだ。
「……あなたが、好きですよ」
 それが、かつて抱いた熱とは違うらしくとも。
 うう、と呻き声がして笑った。もうしばらく見ていよう。上着を取ってきて着せかける。まったく思い通りにならない花嫁が、寒さに身を震わせることがないように。

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