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 自分が鳴らす縛めの音が五感に障る。汚臭も土臭さも鼻が慣れてしまったが、耳だけは始終痛む。静寂の中に己の呼吸と心音を拾うとするからだ。いちるに染み付いた本能が、目を閉ざし異能が使えなくとも、周囲を探るために耳だけを無理矢理働かそうとしている。誰の気配もしない、と感じるのだが、果たして本当にそうなのか疑いが捨てきれず、それがまたいちるを堂々巡りに放り込む。
 喉の渇きは投獄の序の口だった。痛いところに触れられぬというのも苛々し、短い髪の毛が背中や首元に張り付いて痛いのだ。暗いのでどれほど切られたのかが分からないが、とにかく表に出れぬほどひどいのは分かる。毛の先が首に当たったり頬に触れたり長く目の端に落ちかかっている。立っているのも疲れてきた。
「疲れた?」
 ゆっくりと目を上げると、いつの間にかあの女がいた。森と湖の高貴な者と呼ばれていた女だ。灯りはなかったが、そうだろうと分かる。女の異眸がいちるを辿る。この者にはいちるがどんな姿をしているのかはっきりと捉えられているのだ。
「いい格好」
 鼻にかかった笑い声。
「強気の女が痛めつけられて胸が高鳴るのって男女共通なのね。今度は爪でもはがす? そのドレス、血で汚してあげましょうか」
「……っ!」
 視界が赤、黒と点滅した。ぐ、と声と息を身体の中へ押し返す。力を込めると、小さな刃が突き刺さった腿から血が溢れ出したのが分かった。女はその柄を持つと、ぐいとそれを奥へ押し込む。
「治癒すると刃が押し返されちゃうから奥に押し込んでおかないと。声は聞かせてくれないの? わたし、あなたの声が好きよ。とても綺麗。化け物だから、男を惑わせられるようにできているのよね。その声も、その顔も、身体も」
 息を吸い込む。
「っ……」
 二本目の刃は肩と腕の付け根に立った。
「は……」
「もっと声を出して」
 痛みに震える。
「それとも、そうやって男を悦ばせるの?」
 歯を一度食いしばる。どうしても震えが止まらない。
「わ……たくしに、何の用です。魔の闇は、それまでわたくしには見向きもしなかったというのに」
「時機が来たから、だそうよ。ふふ、震え声を聞かせてくれたからちょっとだけ教えてあげる。そのまま言うからよく聞くのよ。あのね……『あの場所にいたままではあれは何物にも揺らがぬゆえ、動く時を待っていたのだ。開かれた世界に惑い、混乱し、居場所を得ぬうちは、我のつけ込む余地がある』……さあ、よく考えて。いったい誰がこんなことを言うんでしょうね?」
 誰が?
 魔道に堕ちた者で、いちるに執着する存在に心当たりはない。撫瑚では常に同じところに留まって、人に命じて人を動かしていただけだ。顔を会わす人間も限られていた。恨みを買う覚えも、執着される理由も見つけられない。
 ただ間違いないのは、これらすべてがいちるが撫瑚を離れたことによって始まった事態。
(敵は東島に由縁する者……だめだ、痛みで考えが途切れる……)
「考えてばかりいないで声を聞かせてちょうだい。素直になって。わたしのことが憎いでしょう。わけがわからなくて、どうしてこんなことをするのって叫びたいでしょう? 助けがまだ来ないのって不安じゃない? きっと助けてくれるってどこかで信じているのが、わたし、憎いわ。あなたは愛されていないんでしょう? だってまだ」
 魔物の目が肌を透かし肉を見た時、いちるの怒りは弾けた。
[下劣な想像で汚すな!]
 どんな下品なことを思い描いたのか、魔物の女は冷えきった声で告げた。
「……やっぱり、あなたのことが嫌いだわ。そうね、二度と見られない身体ができるか、試してみましょうか。あなたの治癒能力は、どれほど働いてくれるのかしら」
 顔が火を被った。
「う、あ――ぁっ!」
 燃やされたのではなく、斬りつけられたのだった。突き刺さっていた刃が一つ身動きに従って落ちる。
 額から右頬にかけて斜めに、血が滴り首元に流れた。石の床を打つ水音。血が視界を汚す。ざんばらな毛髪がばさりばさりと揺れて、尾のように揺れて鳴きわめく鎖がぎりぎりと手首に食い込む。
「は……っ……はっ……」
 女は手についた血を舐めすすっている。
「なかなかいい血ね。時間をかけてゆっくりこそぎとってあげる。あの方にお譲りするのはそれから」
 再びの無響。気配が消えた。
 独り捨て置かれたが痛みだけが確かで、いちるをこの闇に留め続ける。
「は……っ……」
 暗色の世界、与え続けられる痛み、絶えることのない自問自答に、過去の記憶ばかりが閃く辛苦。
 だからこそ唱えたのではなかったか。世の果ての楽園の名前を。
 視界のきかないところでそんなものが見えるのは、かなり精神をやられている証拠だった。撫瑚の城で、あの狭く静かな檻の中で、いちるはその国を負ってきた。二百年の歳月に生きた者たちを動かしてきた。
 ゆえに幻想に縋る弱さをいちるは持ち得てはならない。
 その名は口ずさむことはなくなっていたのに、景色が見える。
 アルカディア。閉ざされた世界から出て西の国へ来たがなお遠いその場所は、果たして真に語るに値するところなのか。
 けれど慣れたはずの牢獄の冷寒が染みるのは、同じ景色ばかりが見えるから。
 その場所が本当に楽園なのか、いちるには分からない。

 ……惜しみない結晶宮の光。神意の象徴。選ばれた者の証。守護され愛される街。驕慢な娘たちに、怯え、あるいは泰然とする女官たち。権威を保とうと優位を望む男ども。美しさと力がすべてを動かす。

(窓の透明な硝子。常に清潔に保たれた寝台。望めば出てくる温かい茶と菓子。そして、必要ないのにやってくる……)


 ――アンバーシュ。


 想像の中にまで現れるな。嬉しそうな顔を見せるな。戯れの、気まぐれの、からかいだけの言葉を用いて妾で遊ぶな。真実だけを口にしろ。嘘を言うな――だから愛していると言うな。
 たったひと月。されど三十日。
 あの場所はうるさく騒がしかった。あの男といると、目が回りそうで息がしにくかった。だというのに、なにゆえその場所へ思いを馳せているのだろう?

 だいじょうぶよ、という女神の声。プロプレシアの少女めいた甘い宥めの声がよみがえる。何も知らないのにすべてを知った気になっていた、傲慢で優しい華奢な川を守る彼女。
 ――えらんだものをえいえんにするひつようはない。
 外の世界に思いを馳せたプロプレシア。彼女がその心地よい場所から望み、現れたものは、リリルという名の友だった。
 ――ぜったいにあいせないことなんて、なかったわ。
 目を上に、空を見つめていた。光は見えない。あの夜の雲の光沢が見えるわけではない。けれどそうやって、いちるはその訪れを待ったのだった。

(妾には)

 手を伸ばさずにはいられなかったのだ。求めずには。何故なら彼女は『誰か』を求めていたのだから。
 けれど。

(妾には、誰も……妾の願いは届かない。妾の元には誰も現れなかった。どの神も降りては来なかったのだから)



 顔をうつむけると、塞がった傷の周りに血がこびりつき、乾いたそれらがぱらぱらと落ちるのが分かった。肩の刃だけが突き刺さったままで、身じろぎすると息が詰まる。
 かすかな音に耳を澄ます浅ましい己を笑いながら、目を開ける。何も聞こえない。己が望む幻聴かと再び安息を求めた時、今度こそはっきりした轟音が響いてきたのに顔をあげた。
 闇が鳴いているのではない。音はかなり遠い。
(ここは地下か。……石を積んで鉄の扉と拘束具を用意して地下牢を作るとなると、かなり古いか、権力を持つ者の住居かもしれぬ。騒ぎになっているだろうに人の声が聞こえぬほど深く広い。……後者か)
 爪先で感じられる振動。落ちている鎖がぶつかり合って音を立てる。地面が揺れていると気付いた時、まさか、と否定的な思いがまず沸いた。
 次に思ったのは誰がということだ。どうしてと問いかけが続き、最後には負け惜しみのように(地面に埋まったりしたらどうしてくれる)と考えていた。外の騒乱は激しいらしく、頭上から砂埃が落ちてくる。血に汚れてこのうえ土にもまみれるのかと、いちるは口の端に笑みを刻んだ。自分にふさわしい姿やもしれぬ。
 薄汚れ、這いつくばり、人の目から隠れるべきもの。大地に蔓延る人でもなく、輝かしい空の神々ではなく、どこにも所在できぬもの。

 ああ、それなのに、どうして儚い夢を見せつけられるのだろう。その場所にいても良いなどと、誰が。

 石が割れ、力の刃が振り下ろされた。轟音に埋もれかけたいちるは、静寂が戻ってきた中でそっと顔を上げる。


 光に、目を射られた。

 垂直に突き立った光は、空を穿ち、屋根を突き通し、土を貫いていちるの空から確かな光明を惜しみなく与える。音の名残が耳から消えると、その声が聞こえた。

「イチル」

 崩れた屋根もろとも、手枷と鎖は壊れていた。自由になったいちるは、けれどその場に座り込んで、降り立った琥珀色の髪を見上げている。

 たまらなく泣きたい理由を解き明かせない。

 音もなく降り立ち、いちるを抱き上げたアンバーシュは、肩に刺さったままの棘のような細い剣を見て静かに言った。
「少し我慢してください」
 ためらいなく引き抜かれると血が迸り痛みが背筋に走ったが、疼くことはなくなった。治癒が始まるもどかしい鈍痛はあるが、それくらいは些細なものだ。
 いちるを腕の中に収めたアンバーシュは、いずこかの神の力を借りて身ひとつで空に舞い戻る。高みへ連れられたいちるが地上を見下ろすと、風穴が空いた洋館と逃げ惑う者たちが見える。さらに周囲に目を巡らせると、風景はティトラテスの、リリル川からさほど離れていないところのように思える。
(この国の強者が不老不死を望んだか)
 いちるの特殊な体質のことを闇に囁かれ、たまらなく欲しくなったのだろう。ティトラテスは大国だが、隣接する半神王の国ヴェルタファレンが邪魔でならないというのも理由か。
 力のみを求める者は、いずれ幻想に手を伸ばして潰える。それがさだめのようなもの。
 ふと、強風に乱れ波打つ我が髪は思ったよりも無惨で、そんなものだろうと目を伏せる。浮いた足下を見遣ってから目を閉じたときだった。
「イチル。見て」
 アンバーシュの横顔を見るが、彼は視線を地上に降ろしたままだ。同じようにして見下ろすと、血の気を失って立ち尽くす者たちの顔がはっきりと捉えられた。いちるは、それらが何という名なのかも、どこの誰かもすべて読み取った。ティトラテス地方領主の野心に従った愚者は、アンバーシュの睥睨に平伏する。

「目を逸らさないで」

 囁きかけたアンバーシュは、いちるを抱えた手とは逆の手を持ち上げる。

「俺のすることを見ていて」

 彼の手のひらから雷が生じ、雲が渦を巻いていく。風が彼の意に従い、空が彼のために力を譲る。火と水と風を織り上げ紡いだ、光熱を帯びた雲が巨獣のように構えて唸る。
 そうして、最後の宣告は短く、釈然としていた。



[我が怒りを受けよ]



 高質量の熱と焔が空から下され、地上の館は崩壊する。静謐な刹那の後に、轟音と悲鳴が飛び交った。庭が焼かれ、黒煙が上がる。屋根と壁を構成していた石が粉々になったのは彼の恩情だろうか。火に囲まれる前にすべての者が逃亡していく。
「ああ……」
 吐息が零れた。
 人でもない神でもない、東神から差し出され、何の地位も築かず何者でもない女への所行に、ひとりの神が怒りを下した。たったひとりのために、何十人もの人間を顧みず。
 ――それこそが望みではなかったか。
 我が元に降り、この身だけを見つめ、何をも顧みずに自分のためだけに力を振るってくれる、絶対的な存在を求めてはいなかったか。
(妾にはお前が)
 現れたのは、彼だった。救いに現れ、立場も批難も恐れず、傲慢な強者として空に君臨するのはこの男。
(お前が、妾の)
 涙がこぼれそうだった。熱を含んだ大気が、黒煙を孕んだ風がいちるの目を突き刺す。この目に映るあらゆるものが己の罰で咎であるかのようだ。まだ雲は途切れない。未だ地上は混乱の中にある。
 けれどこの腕の中の平穏と、胸に起こる絶大的な幸福感は。

 いちるを抱くのは、アンバーシュだった。

 降りてきたのは、彼だったのだ。



(わたしの――)

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