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「姫!」
 顔を見た途端、裾を絡げる勢いで迫ってきたミザントリが、いちるの両手を取り掲げ持った。数分と経たずにやってきたから、女官を使った呼び出しに、どうやら飛んできたらしい。
「よかった。ご無事で、本当によかった……」
「あなたが気にすることではないと言いました」
 ミザントリの目が吊り上がる。
「気にしないでいられますか! 姫のお気遣いは感謝しますけれども、まともな人間なら気にしないでいられません! わたくしたちがどれだけ心配したか、姫は知るべきですわ!」
 別に知りたいとは思わない。また勝手をと呆れられたことだろうし、誰が責任を取るかで探り合いになることが分かりきっている。しかしそうとは言いきれない必死さがミザントリにはあり、いちるは怪訝に思った。ミザントリにとって、いちるはその程度の知人の域にいないのだろうか。
「わたくしの行動はすべてわたくし自身に責任があります。それとも、あなたはわたくしに、責任を感じるほど情を持っているというのですか?」
 ミザントリは不可解そうな顔をしたが、少し考えるそぶりを見せると、はっきりと頷いた。
「恩義がございますもの。マシュートの命を救っていただいたことと……わたくし自身にも」
 次の瞬間、ミザントリは己の両手を胸の前で組み合わせて、ぱあっと表情を輝かせた。
「お城に上がらなくなってしばらく。まさか、あんな夢のような一夜を過ごすことができるなんてっ! 姫には感謝してもしきれませんわーっ!」
 高笑いでもするかのように声を上げる。頬を紅潮させ、瞳をきらきらとさせるのは夢見る乙女そのものだ。そこで己の言動に気付き、頬に手を添えると、ほ、と息を吐いた。しかしそれも熱っぽく、恥じらう娘そのものである。
「本当に、姫には感謝しています……姫がいなければ、あれほど言葉を交わすこともできませんでした」
 城に思い人がいるようなことをにおわせていたから、態度を見る限りその辺りのことだろう。眉をひそめて尋ねる。落ち着いた立ち居振る舞いのミザントリらしくなかったのだ。
「あなたには、それほどまでに情を抱いている男性がいるのですね」
「憧れの方なのです。わたくしには手が届かない方ですから」
 彼女から覇気が失われて、現実を見る女の顔になる。苦笑混じりに言ったミザントリをじっと見ていると、彼女はいちるをじっと見返して、小首を傾げた。
「姫は……特に陛下をなんとも思ってらっしゃらないのですか?」
「そうです」といちる。
 だが答えを返してから、ん、と考えた。
(美形なのは認めるが押しが足りぬ。人を思いやれるかもしれぬが本心を隠し押し殺してばかり。うるさいし勝手だしはた迷惑なことしかせぬし、臆病で軟弱だ)

 ――俺に添うためです。

 なのに言い切った。何の根拠もないくせに、まるで運命を連れる女神のように。
 それがひどく、不快だ。胸の奥に投げ込まれた言葉が、がりがりと音を立てて周りのものを削っている音がする。
「……あの……な、なんだかものすごい顔になっていますけれど……」
「気のせいです」
「気のせい……」
「そうです。何を見間違えているのですか」
「…………」
 咳払いをひとつして、ミザントリはもう一度謝辞を述べた。
 マシュート・ハブンは現在王城内の医局で休養しており、目が覚め次第自宅に戻ることができるという。医師やクロードの見立てでは、すでに魔眸の術は解かれ、衰弱はしているものの命に別状はないという。
 強力な魔妖には、魂魄そのものを縛る強い術を使える物がいる。魂を絡め、闇に縛る。力を吸い出し食い物にする者。それと知れぬ間に使役し、悪行をさせる者。己の借宿とする者。影のようにいつの間にか側に侍り、非道をそそのかす者。
 だがあの少年はそれほど強く絡めとられたわけではなかったようだ。幾分か安堵した。彼が騒動の種となる可能性は低まったのだから、まあ喜んでもよかろう。
「ティトラテスのプロプレシア女神の結婚のお祝いに行かれるそうですね」
「女神のことを知っているのですか?」
「ティトラテスのリリル川を守護なさっておいでで、恥ずかしがりやだというお話を聞いたことがあります。あまりにも恥じらわれて、求婚してきた若者から何日、何年と逃げ回ったとか」
 ティトラテス守護神話にそういう話が書かれているそうだ。図書室にもあると教えられたので、時間を作って身にいくことを決める。
「行かれるのは、やはりアンバーシュ様とクロード様ですね?」
「いいえ。クロードは残るそうです。わたくしたち二人だけの旅になると聞いています」
 ナゼロフォビナとの話し合いで、世話係は彼が向こうで用意しておいてくれることが決まっている。そう言いかけて、ミザントリの様子がまた変わったことにいちるは口を閉ざした。
 目の輝きが変わって、頬が赤くなり、呼吸が深くなっている。夢を見ているのだ。何が彼女をそうしたのか、己の言葉を思い出したいちるは、おおよそ腑に落ちた。
 唇を舐め、魔法の言葉を口にする。
「クロード」
 ぴゃっともぎゃっともつかない、どちらにしろ令嬢らしくない反応をしたミザントリは、笑う前の顔をして何を言おうかめまぐるしく考えている。
「姫……ええとその! その、お世話するのがお優しくお気遣いできるクロード様でないのはご不便でしょうが……ティトラテス皇国は緑深き濃緑の国です。ヴェルタファレンとはまた違った生き物たちが暮らしていますから、姫の目を楽しませるものが多々あると思いますわ。どうぞお気をつけていってらっしゃいませ」
 一息に言ったミザントリはにっこりと笑い、いちるはそれをじっくりと眺め、笑顔の綻びをひくつく口の端に見出すと、満足して微笑んだ。帰ってからの楽しみが増えたのだった。
 気軽に準備とアンバーシュは言ったものの、周りの狂騒ぶりはひどかったらしい。レイチェルの顔色は変わらなかったが、ジュゼットとネイサの隈が日に日に濃くなっていくのを見ていたいちるは、一度力を使って城の様子を探ってみた。
 騒がしいことは肌で感じていたが、いちるとアンバーシュの支度のみならず、プロプレシアの守護地があるティトラテスへの打診や、アンバーシュ不在時の内政についてなど、決めることは多々あったようだ。決して走り回ったりふらついているところを、城内の誰もいちるには見せなかったが、いちるは、彼らの奔走ぶりを知っているアンバーシュが「うちの臣下は優秀ですから」と一言で片付けてしまうであろうことを想像して憐れみのため息を禁じ得なかった。



 部下に報告書を託しているはずのセイラに呼び出しがかかった。手続きをして国王執務室に足を踏み入れる。室内にはアンバーシュの他にクロードとエルンストがおり、まあ当然ですわねとセイラは無表情の下で呟いた。エルンストもいるのは、アンバーシュの従者が見て見ぬ振りをしたであろうという邪推を避けるためだ。
「セイラ・バークハード、お召しを賜り馳せ参じましてございます」
「楽にしてください」
 と言いながらもアンバーシュは片手に書類を持っている。クロードが受け取り、エルンストが監督するその仕事ぶりを眺めながら、セイラは待った。
「報告書に不備が?」
「いえいえ、ちゃんとしていますよ。あなたが来てから騎士団の書類が揃うようになってとてもありがたいです」
「前任者から引き継いだものをほぼそのまま運用しているだけです。いつのお話ですの、それは」
「そうですねえ、せいぜい二百年くらい前かな」
 筆記具を置き、一息つく。兄が書類を揃え確認する背中を見ていると、「今日の用件は」とアンバーシュが口を開くので目を戻す。
「三日後から留守にするから警備を怠らないよう、と頼みたいのと――色々、すまなかったと言っておこうと」
 アンバーシュが席を立つ。机を回って目の前に立たれ、注がれる眼差しの透き通った青に、セイラはわずかに目を細める。空の青の瞳は、思いを馳せた光溢れるその色だ。
「……お互いに遊びだということは了承していると、わたくしは思っていたのですけれども?」
 腕を組んだ。斜めからアンバーシュを見下げる。
 彼は言った。
「ヴィヴィアンに会いました」
 クロードの顔が強ばり、エルンストが手を止めて振り向いた。
 どこに、と誰ともなしに問いかけられるが、アンバーシュは首を振った。
「言葉は交わしていない。俺を見て、頭を下げました。確かに彼女でした」
「それでそのまま別れてきたんですの!?」
「ええ。俺は、もう彼女に心をあげられないから」
 三人分の沈黙は、息を呑み込む音だった。そうして思い浮かべたのは、東から来た彼の花嫁のことだ。今朝方、彼と帰城した東の千年姫。
(この方は……)
「不実だったのは確かです。あなたはそれにも怒っていた」
 ヴィヴィアンとの別れの後、アンバーシュが幾人かの女性を関係を持ったことは知っている。その中の最後で長続きしたのがセイラだ。お互いの共通事項であるヴィヴィアン・フィッツの存在があったが所以の関係で、そのことはどちらも一言も言わなかった。
 たまたまヴィヴィアンに拾われ世話をしてもらっていたセイラは、それがきっかけで実の父との対面を果たし、バークハード家に入った。生きるために必要な術はその時すでに持っていたし、貴族の家にやってきて得たものも大きかったが、唯一得てこられなかった、優しさや穏やかさというものを彼女から貰った。
「わたくしが、何に怒っていたと仰るのです?」
 エルンストが視線を投げるが、構いやしない。
「あなたの恩人であるヴィヴィアンを見捨てたこと。あなたに不誠実であったこと」
 彼は頭を下げた。まっすぐに、正しく。
「すみませんでした」
「陛下! 頭をお上げください! こんなところ、他の者に見られたらいかがいたします。民草の人気は下がり、記念品の売れ行きに支障が出るとか、様々な影響が!」
 クロードは仕方がないという苦笑を浮かべているが、泡を食ったのはエルンストだ。しかし、アンバーシュもセイラもそれを無視した。
「セイラ、俺はあなたが俺に近付いてきたのは思惑があったからだということも分かっていたし、あなたの口にする言葉を毒と知って飲み込んでいました。でも逆に俺もあなたを利用していました。あなたがいれば、俺は自分の犯した罪を忘れずにいられる、俺は償ってしかるべきだと、あなたに甘えていたんだ」
 だから、と彼は目を見る。
 すまなかったともう一度。深くて低い、謝罪の言葉が繰り返された。
 それを聞くべきはヴィヴィアンなのだと言うべきだったろう。セイラはしばしアンバーシュを見つめ返し、告げるべき言葉を探した。なのに、思いつくのはすべて優しい言葉ばかりだった。
(そう、わたくしはもう、怒ってはいないようね)
 恐らく、彼は傷ついただろう。だからセイラを受け入れたのだ。アンバーシュは最初から傷を持つつもりでいた。あえて傷をえぐり続けたのはセイラの方だ。だから気が咎めていた。
 組んでいた腕を解いた。
「……お別れですわね、アンバーシュ」
 互いに浮かべた微笑は、戦友を見る眼差しだ。差し出された手を握る。
「今まで、ありがとう」
「こちらこそ。最後にひとつ」
 握りしめた手に力を込めた。
「一生、忘れないでくださいまし。ヴィヴィアン様のことも、わたくしのことも、他の誰のことも」
「はい」
 必ず、とアンバーシュは請け負った。
「それから、ヴィヴィアン様のお住まいを教えてくださいな。一度、会いにいってみようと思いますので」
 これくらいは厚かましくない、当然の権利だ。アンバーシュの目を受けて、クロードはエルンストを連れて行った。そうして、前暁の宮のひとの住まいは、セイラにだけ伝えられた。

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