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 近付くほど、飲まれる感覚がある。いつか西神の陣に入った時と同じだった。あれは神の溜まるところで、恐ろしく深い、靄のように見通せぬほど力に満ちていた。エリアシクルの広間は異界と繋げてあるらしく、どこまで行っても尽きぬ。遠くまで、神とその眷属のざわめきが響いている。
 柄にもなく心臓が打った。ここにいるのは、それそのものだけでいちるを捻り潰せるものたちばかりだ。失敗すれば怒りを買い、災いが降る。思いがけない相手にまで、何万の単位に及ぶ。いちるが相手にしようとしているものはそういう存在だ。
[千年姫]
 誰かが気付いて、声が広がっていく。千年姫。千年姫だ。アンバーシュの嫁。東の。シャングリラの姫。
 いちるはさっと両膝をついた。衣装の長裾が、大仰なほど広がる。魚の尾ひれのようだった。
[お呼び立ていたしましたことをお詫び申し上げます。わたくしは、いちると申します。太陽と月の子である西の御方々に、お願いしたき儀があり、参上つかまつった次第でございます]
 静寂の中に声が響く。不安定に響いていると分かって、いちるは内心舌打ちした。臆している、この妾が。
[ただいま、ティトラテスの領土を侵している、我が夫アンバーシュのことを皆様ご存知のことと存じます。それについて、皆様のお知恵とお力をお借りしたく、]
[大神には逆らえぬ]
 誰かが朗々と遮った。肯定する気配がさざなみのごとく広がっていく。
[アンバーシュは父神の命令に従ったまでです]
[大神の命令ならば、我らに手出しはできぬ]
[大神のお考えは分からぬ]
[いいえ、ティトラテスは神を蔑ろにしています。罰を下されるのも最もですわ]
[では、ティトラテスが汚されるのを黙って見ていろと?]
 別の声がざわめきを打ち破る。先頭に現れたのは、蛇の目をした男神ナゼロフォビナだった。後ろに続くのは、同じ目をした男や女たちで、恐らく血縁だろうと知れる。
[ビナー大河は西島の主要な水の聖域。ティトラテスで血の穢れが蔓延すれば、各地に様々な災厄を及ぼすことになります。アストラスのなさりようは、あまりに影響を無視しすぎておられる]
[しかし父神は敢行された。わたくしたちにはそれをお止めすることはできぬのですよ。大神の御心のままに、かつ、わたくしたちはわたくしたち自身の役目を果たすまでです]
[大神を重んじて守護を疎かにするのか? 知っているだろう、父神が気まぐれに我らを弄ぶことがあると! 今回もそのような気まぐれに決まっている!]
[父神に不敬を申すな!]
[あんなもの、父と呼べるものか!]
 舞台はいちるの手を離れて、神々の評議の場と化す。アストラスへの不満と、父への敬意を言い争う声は次第に激化し、一方で飽き始めた神々が勝手な会話を交わしている。
 それらの声から、大神とアンバーシュの取引は、他の神々に不満を抱かせたということが分かる。おおよその者が父神を理不尽だと考えたことがあるが、全能の大神に逆らうことができないという葛藤が争いの原因だろう。いちるを攫うように連れてきたアンバーシュを許し、和睦の賠償に組み込んだことから、大神といえど問題のある神だと想像していたが、余程のものらしい。
 そろそろ場を収めなければならない。いちるは[お聞きください]と声を張り上げる。
[大神に逆らわず、かつ出し抜くために、皆様のお力をお借りしたいのです!]
 だが、うまく届かない。勝手に論争する神々ははなから聞いていない。その声が大音声の壁となって、いちるの声が阻まれてしまうのだ。
 やれやれ、と息を零した何者かがいちるの側についた。
[ここを我が城と知って、なんという騒ぎか]
 広間の壁全体を揺らして響いた声に、一瞬のどよめきが起こる。その後は、静かに声の主を敬って、声を落とし、静かに様子を窺う。
[アンバーシュの花嫁イチルは、我、エリアシクルの守護下にある。この花嫁を軽んじれば我が怒りを買うことを知るがいい]
 エリアシクルが立場を明言したのは初めてのことだ。構わないのだろうかと傍らに目をやると、不明確に揺らぐ水の影がいちるに向かって微笑みかけた。
 エリアシクル、と神々が不穏に名を呼びかわしている。
[……ルタの一件で…………したという……]
[あの……は、アマノミヤに]
[千年姫に味方とするとは]
[あの古い神が庇護者とは彼女はそれほどのものか]
 神々の動揺が伝わってくる。騒ぎを鎮めるための方便、にしては、エリアシクルの台詞は立場を明確にしすぎている。
 だが、どうやら今はそれに甘えるしかないようだ。
 改めていちるは神々に向かい合った。
[大神に逆らうことなく、かつ、その横暴を防ぐために。皆様のお力をお貸しいただきたく存じます]
[具体的にはどういうものなのですか?]
 尋ねたのはナゼロフォビナだった。その目に謝意と挽回の意志が輝いている。いちるは、それを都合よく利用させてもらうことにした。
 助力を請う時に念頭に置かねばならぬのは、神々の立場であるといちるは考えた。アストラスに叛意ありと見なされないことが不可欠だ。そうでなければ、今度はその神が処罰の対象にされる。大神は、容易に自らの子神を消すだろう。
 だが、いちるの行動は今はまだ静観されるだろうという予感があった。この騒ぎの起因はいちるの呪い。いちるの解呪に動いたアンバーシュを、いちる本人が止めるという構図に、アストラスが興がって見ていないわけがない。どのようにして止めるというのかと鑑賞しているはず。
 そうしていちるは、アンバーシュと対すればあの男を止められる一定の自信があった。
(妾の心の持ち方によるがな……)
 耳を澄ませている神々に、数が必要だ、といちるは訴えた。そうして策の内を告げた。

 その呼びかけに、賛同の意を示した神が残り、頷けぬと首を振った神々が去った。半数も残ったのはエリアシクルの庇護のためか。面白がって協力を了承した者も多そうだ。
[いつ行く?]
[皆様のお支度が整い次第]
[いつでもと皆が言っている。あなたの号令次第だ、千年姫]
 協力者の代表は、ナゼロフォビナということになっているらしい。彼は控えている神々を振り返る。そう言ってもらえるのはありがたい。早ければ早い方がいい。アストラスの制止や、イバーマのオルギュット王の横槍が入る前に。
[では、参りましょう]
 いちるの前に、鬣が水でできている馬が現れる。
[我が眷属を貸そう。それが道を知っている。何かあったら我を呼ぶがよい]
 エリアシクルに礼を言って、水馬の背に横乗りする。飛び立った水馬が、神々の道を通り抜けていく。異界に落ち込まぬよう、その首を掴んで、耐えてしばらく。抜ける感覚があり、ヴェルタファレンの湖だったはずが、見慣れぬ空の上に出ていた。
 白い雲が足に触れていく。緑の大地が続いているが、地平の彼方には黒雲が視認できた。アンバーシュの雷雲かもしれぬ。
 後ろには神々が続く。空を飛ぶことができぬ者は風に乗っている。風の神がいたので、その生み出す足場に乗って移動しているのだ。地上から見れば、神々の行軍といったところだろうか。
[アンバーシュはティトラテス皇都の近辺だ]
 隣に寄ってきたのはナゼロフォビナだった。
[千年姫の資質なら、あいつら全員と守護契約を交わしてもおつりが来るな]
[資質はあっても、差し出すものがない]
[まあ、それがはったりになるっていうのはすげえよな。あんだけ引き連れてこられたら、アンバーシュは右往左往、あんたを心配するのに決まってる。そこにつけ込むとはさすがアンバーシュの嫁]
 ちろりと視線を投げたが、溜め息にした。悪い、とナゼロフォビナは笑う。
[うまいって褒めてるんだぜ、これでも。アンバーシュの不安につけ込むのと、大神に建前をつけるのと、あんた自身は何も削らないのと。うまいことやってる。確かに、『後ろをついてきただけ』って言やあ、そこにいてもおかしくないもんな]
 協力を求めたいちるが神々に願ったのは、彼らにとっては拍子抜けも甚だしかったかもしれぬ。
 何せ、告げたのは「何もしないこと」だったのだから。

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