第八章
 慾 よく
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 アルカディア。
 海を隔てた、西の島の、ずっと遠く。そこには、痛みも苦しみも、悲しみの涙もない。怒りに震えて拳で地を叩くことなく、天に伸べた手を見ながら頬を伝う雫の熱さも知らない。溢るる光を浴びて、笑い声だけを響かせる土地。
 今、その場所を思いながら、何故かアンバーシュのことを考えている。
 時を重ねるごとに希薄になっていくのだと、男は言った。感情が薄くなり、何を感じているのかが遠くなる。だから存在を繋ぎ止めるために恋をしたいのだと。
 その相手にいちるを選んだのは、きっと男の不幸だろう。今やいちるの時間は、緩やかながらもひびの入った硝子の器となって、少しずつ命を零していく。
 すべての水を失う前に、いったい何ができるだろう。何を、残せるだろう。
 アンバーシュを思いながら、彼ら神々にとって、アルカディアとは終末の地ではないかと思った。喜びだけが、麻薬のように漂って、常に人を微笑ませ、歓喜の光を浴びせかけ続ける。

 わたしが思い続けた約束の地。
 アルカディア。きっとそこに、恋は無い。


     *


 乾いた空気が喉にかかり、咳き込んだので目が覚めた。肩が寒く、ぞくりと背筋が粟立った。大気が冷たい。鼻孔につんとした刺激になる。横たわっていた毛皮と枕だらけのそこから身体を起こし、辺りを見回した。
(オルギュット王は……)
 異能が、うまく働かない。ここもまた、守護者たる神の力が強いのだ。
 己の目で確かめるしかない。
 防寒のためか部屋の四方の壁、天井、床には、様々な大きさの布が敷き詰められている。宝石箱の中身をでたらめに貼り付けたようだ。床には、手間のかかった織りの絨毯。毛布は草の香りをつけている。狐や兎の毛。そこにいるいちるは、虜というよりは愛玩物のようだ。
 これが趣味ならば、まあまあだろう。寒さゆえに動きが鈍い肩を押さえ、風が吹いてくる出入り口に向かう。
 辺りは夜に沈んで、青い。
 目が慣れてくると、出たその場が廊下で、外に面した通路から入ったところにあることが分かる。光を目指す。直接大気に触れるところに出た。空の星が無数に輝いている。月を見つけようとして、眉をひそめた。
(なんだ、あれは)
 月は見つからず、代わりに発光する真珠玉のようなものが空に浮かんでいる。目を離さずに見ていると、他の星と同じくしていない。動かず、留まって輝いている。
 もう一度辺りに目をやる。四角形を描く通路に、それぞれ奥へ伸びる廊下が繋がった場所だった。四角の内側には庭が造られているが、植物がまるで巨人のように伸び、生えているので、不審に思った。
 このような雄々しい、強い生命力を感じさせるような植物に見覚えがない。空気は鳥肌が立つほど冷たいのに、活き活きと葉を伸ばし、幹が太く逞しいのだ。見知らぬ場所。覚えのない土地。生態系が違う、と瞬時に判断する。
(……まさかとは思うが、ここは、南の国なのか)
 そうだとするならば。いちるは無遠慮に廊下を歩き、何者かの姿を探した。果たして、どうやら表に続く、あるいはそれに準ずる道に見張りがいた。いちるの姿を認め、一人が知らせに走っていく。もう一人が鎧を鳴らしていちるの元にやってきた。槍を片手に、静かに呼びかける。
「お部屋へお戻りください。じきに王が参ります」
 衛兵は身体に沿う、厚めの生地の服装の上から、防寒着としてたっぷりとした外套を着込んでいる。襟は毛皮で施して、頭には同じ毛の被り物。その男の肌が褐色であることを見て取って、いちるは口を開いた。
「あなたは、太陽の一族の末裔か?」
 衛兵は軽く目を見開き、はい、と微笑んで答えた。それが対価になり、いちるは付き添われて元いた場所へ追い立てられる。

 太陽の一族、という通称は、太陽神に愛された一族のことを差す。創造の三柱の一柱、太陽の神が愛し、加護を与えた一族。黒髪に黒い瞳、褐色の肌を持つ者たちだ。どこの文献にも詳細は残っておらず、己の出身の東島にいる月の一族のことも知らぬいちるだが、それぞれの一族が、神々の眠りに沿って近くにいることは、噂程度に聞いたことがある。
 眠りについた神々は、それぞれの身代わりとして太陽と月を作って空に置いたが、二柱は大地の女神の眠りに添うて去った。神々が去った土地に近しい場所では、あるところでは永遠に夜が、また、永久に昼が続く、世界の境界なのだという。
 いちるが見た空は、夜ではない。苛立たしく眉をひそめる。もし本当にここが常夜の国なのだとすれば、大層面倒な事態になっている。
 部屋に戻ってすぐ訪れの音がし、重苦しい色合いの分厚い衣装に身を包んだ女たちがずらりと並んだ。彼女らも黒い髪と瞳に褐色の肌だ。頭に布を被っている姿は聖職者を思わせる。深々を礼をしていちるに告げた。
「お召し替えをお願いいたします」
 いちるは傲然と答えた。
「歓待の仕方が間違っている。まずは非礼を詫び、しかるべき者が挨拶をするのが礼儀ではないか」
「誠に申し訳ございません。陛下のご命令です」
「何も分かっていない物言いをお止め。わたくしは、まず事情を説明しろと言っている」
 先頭の女の目が光る。女官の長は、いちるを敵と見なしたのだ。
「ここはオルギュット陛下のお膝元でございます。陛下のお振る舞いは、姫君のお心に沿うものになりましょう。そのためにもまず、お召し替えを」
「お前では話にならない」
 女たちを押しのけて通ろうとする。出てすぐには衛兵が来ていた。やんわりと首を振られる。
 だが、傷つけられるわけがない。それこそオルギュットの命令に背くことなるはず。
「触れてごらん。お前の槍を掴んで我が身に傷をつけてやるから」
 そう言われれば、掴んだ腕を離すしかないのだ。
 本人がすぐに来るものとばかり思っていたら部屋に戻ってやったものを、無駄なことをしてしまった。暴挙を案じた者たちを後ろに引き連れていたいちるは、押し返されたあの通路からやってくる、イバーマ王その人の姿を捉えた。後ろの者たちは安堵し、いちるの退路を塞ぐ。元より逃げるつもりはなかったが、腹立たしい。
 オルギュットは笑い、いちると対峙する。寒々とした風が、えぐられている胸元の素肌を撫でた。
「着替えは?」
[妾は着せ替え人形ではない]
 王は声を上げて笑った。
[ヴェルタファレンへお返し願う。御神の振る舞いは、拉致誘拐に他ならぬ]
「結構。よく分かっているじゃないか」
 悪びれずに明るく言われてしまう。何だこいつはと警戒心が先立った。
「願われるのは悪くないが、偉そうで腹が立つな。そちらこそ礼儀がなってない。たかだか不老不死で、神に近付いたつもりでいるのか?」
 どん、と地が揺れた気がした。
 違う、揺さぶられたのはいちるだ。驕りに手をかけられ、やわりと締め上げられている。首が冷たい。息が出来なくなっている。足下に影に、何かが浸食を始めている。
 男の声は、艶かしい。感情が不可思議な光を帯びて、瞳に現れ、いちるを見下ろす。
「着替えておいで。他の男のための服を着せておくほど、私は寛容ではないから」
 いちるは己を奮い立たせた。
[……あなたのために着替える身体もない!]
 息が止まった。喉の中央、触れられれば吐き気をもたらすそこを手のひらで押さえられ、首骨まで指がかかっている。首を絞めているわけではない。顎を持ち上げられただけだが、うまく呼吸ができなくなった。
 呻くものかと声を飲み込み、己を捕らえる男を睨む。
 婉然とした微笑がいちるを撫で上げた。
「言葉に気をつけた方がいい。傷つけることはできなくとも、言うことを聞かせる術はいくらでもある。それとも消えない傷がほしいのか。……あげるよ? いくらでも」
[暴君め]
「威勢が衰えないな。まったく、惚れ惚れしてしまう」
 いちるを落とし、突き飛ばす。膝をついたいちるは、わずかに咳き込んで、オルギュットが剣を抜くのを見た。研ぎすまされた紫の瞳は鋭利な鋼のようだった。表情が消えた、と同時に閃光が落ちる。
 素早い音だった。恐れる暇もなかった。胸元から裾にかけて、衣装が避けた。着けていたコルセットまで断たれ、肌が零れる。慌てて身体を隠した瞬間、策にはまったと気付いた。
 オルギュットが高みより笑っていた。
「その姿で小一時間、都の路地裏に放置されるか。それとも言うことを聞いて着替えるか。選ばせてあげよう」
 屈辱、だった。
 こんな男に、我が身可愛さで敗北する。誰も好き好んで陵辱を味わいたくはない。敗れることが口惜しく、このままでいてやろうではないかと挑発したいが、この男は本気でそのように行動するだろうということがまざまざと想像できた。
「衛兵。この者を逃がすな。女官。着替えさせろ。その後で、鳥籠から鳥を出してこい。哀れな千年姫の心の慰めになるだろう」

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