<<  ―    ―  >>

 この世に真なる浄化の世界は存在しないことは、大地の女神が眠りについた時にあらゆる神に認識されたことだった。神にもまた死、あるいはそれに等しいものが存在する。傷と痛みと穢れから逃れることができず、生きる子らの手の届かぬ場所で、未だ大地の神は眠り続け、細く繋がった道から魂だけを送り出す。
 生と誕生を司る神も死を司る神も存在しないことを、珠洲流は不思議だと感じていた。太陽の神、月の神、大地の神がそれらを司っているのなら、三柱はまだ死んでいないということになる。多くの神は、死という消滅を与えられる。
 力の流れに逆らうものは穢れと呼ばれる。
 それを象徴するものこそ、異眸の目を持った影たち。魔眸と称される闇と堕落だった。
(この世は、常に影に覆われるものか)
 東島のとある山の上から下界を望む。筆を動かしたように淡い春の大地が、陰気の澱みで湿っている。珠洲流の眉間に皺が深く刻まれる。
 川の上に滑る霧は、穢れで形を作った虫の群。山頂の湖に投げ込まれた死者の躯が、腐食して澱み、大地に浸食している。水と、緑に吸い上げられた不浄は、人々の口に上り、民は弱り、病が流行り始めている。
 人の祈りが東神に上り、守護のために、兄弟は奔走していた。戦う力を持つ者は魔眸を狩り、人を守る役割の者は彼らの癒しに務めた。
(何故、創造の三柱は、闇を消滅なされなかったのか)
 この世に神はいない、と言った幼い女神のことが思い出された。
 東の土地は、慎ましく静かだ。開けている土地がさほど多くないのは、東神の聖域として人が崇め、不可侵にしているからだった。緑を守り、最低限の糧を得て生きていく。豊かなものは豊かに、貧しいものは貧しいままであることに、父神アマノミヤは苦悩しているようだったが、西よりずっと穏やかな土地だと珠洲流は思う。
 赴いた西の島は、ひどく華美で、騒がしく、荒れていた。神と人の力がぶつかり合い、人とそうでないものの境界がひどく曖昧だった。あの土地では、神は人にとって近しい隣人でしかない。
 この世に神はいない――あの女神は、己たちのことを称したのではと思ったが、あの血の色をした瞳は、色がまったく異なるというのに海のようだった。恐ろしいほど、広大で、先の見えぬ深さ。
(ならば我らは何だというのだ。人でもなく、神でもないのならば)
 西へ差し出された生贄の娘とは違う。珠洲流はそう思い、そっと息をついた。
(大神も大神だ。理由も説明せずにあの娘を『守れ』と仰る。すまないと付け足されてはいたが、姉上も兄上も事情をどうやらご存知だったようだし)
「珠洲流様」
「分かっている。西の森の結界が緩んだのが見えた」
 恵舟の呼びかけに腰を上げた。魔眸は、まるで遊ぶかのように結界をつついていく。立ち入るなと言われている場所に足跡をつけて楽しんでいるかのようだ。結界の強く結びすぎると、他の場所に影響を及ぼしてしまうため、侵入してくるものを追い払えないままでいる。
 侵入した魔眸を滅し、すぐさま結界を張るのは、やはり力の強い神がいい。地脈を伝ってそこに出ると、森の中は騒乱と悲鳴に満ちていた。木々は傷をつけようと暴れ回る小物たちにざわめき、痛みに葉を揺らす。風神の力を呼んで助けを求めてくる。だというのに首謀者が見えない。結界に穴だけ開けると、すぐに姿をくらませてしまうのだった。
 この時も、珠洲流は己の持つ水の力を呼んで、一気に片を付けるつもりだった。清水から浄化の力を呼び、周辺に撒くのだ。
 しかし、動きを止めた。悲鳴が聞こえたのだ。
「恵舟」
 従者が飛ぶ。珠洲流は、離れたところに人の子どもが魔眸に襲いかかられ、倒れ込んだのを見た。緋袴の乙女。鎮守の森に立ち入ることを許された一族の娘だろう。珠洲流と恵舟の姿を認めて、助けを求める。
 光が迸った。
 珠洲流は愕然とした。己の放った力ではなかったからだ。
 一瞬にして清められた森は、結界まで紡ぎ直される。四方から金の力の糸が伸び上がり、籠を編み上げると空気に解けて見えなくなった。風が喜んだ気配があって目をやると、そこには銀の獣がゆらりと尾を揺らしてくるところだった。
「あなたは……フロゥディジェンマ殿?」
 魔眸を祓い、結界を作ったのはこの神の仕業だ。珠洲流は考えを巡らせ、どうして西神が、それも光を司る強力な神がここにいるのかを考えた。まさか、攻め込んできたというのか。この幼神に比べれば、東の大神の末子であっても珠洲流は半分ほどの力しかない。
 幼い神は、生まれ落ちても、まだ魂が太陽と月と大地の神々に近いところにあるために、無垢で純粋な力を使うことができるのだという。この世の人、神々ですら忘れたものを覚えていて、ふとしたことで見返ることができる。フロゥディジェンマは、この世と異界の狭間にいて、境界線の際に立っているもののようだった。
 銀光が、身体を震うとこぼれ落ち、世界を輝かす。いずれ光の神狼の座につく、今はまだ小さな女神。
 くっと頭を上げると、銀の神獣は言った。
[助ケテ。力、貸シテホシイ]
 珠洲流は、意味が分からず目を見開いた。


     *


 瞼を開けば、真っ直ぐに天蓋が映った。一人きりの時、いちるは仰向けの姿勢のまま、微動だにせずに眠っているらしい。寝返りを打ったり、枕に顔を押し付けたりしている時は寝苦しいときだ。この夜は動いていなかったが、目覚めた瞬間にだるいと思った。あまりに疲れているのだ。頭の芯が冷たく、手足が重い。足の筋が軋むように痛む。
 常に夜なので、空気から時間を嗅ぎ取ることができない。少し力を使うと、暗闇の中に沈んでいる時計の針が、真夜中を少し過ぎているのが分かった。身体を起こす。
 起き上がる物音に混ざって、誰かがやってくる。扉の向こうに声をかけた。
「こんな時刻に何の用ですか」
 扉の向こうの者は、息を呑んで言葉を探した。
「おっ……お休みのところ、申し訳、ありません……姫殿下に、お願いが……」
 入りなさいと告げると、扉を細く開いて世話係の女が滑り込んでくる。
 だがいちるは息を詰めた。喉を押さえ、息を求める。空気が失われたわけではない。一瞬にして突き刺さった痛みは、しつこく残り、強烈な頭痛になった。
「何が起こっている?」
 魔力が、暴走している。結界のためにすべて放出できず、満ちすぎて澱んでいる。
 いちるの言葉は女の頼みを先んじた。そのことに怯えた目をし、目を伏せて女は早口に言った。
「鎮めの力をお持ちと窺って、それで。オルギュット様を助けていただきたくて!」
 いちるは支度をさせて、部屋を出ることにした。何が起こっているのしろ、本人の手が回らない状況なのは確かだったからだ。
 出た途端に後悔しそうになる。胸が悪くなった。濃い匂いや湿った場所に閉じ込められたような息苦しさだ。熟れた果実と度の強い酒と腐った肉を煮込めばこういう気色の悪い空気になるのかもしれない。どこに連れて行こうとしているのかはすぐに分かった。奥宮の北東の部屋の上に、光がのたうっている。伸びた閃光は、空の上で何かにぶつかって消滅した。
(結界の防壁が、あんなところにあるのか)
 そして、違和感を覚える。少し考えて分かった。光の珠が空にない。
 廊下の奥に光が漏れていた。低い声が聞こえてくる。何人かの者が、同じ文句を重ねているのだ。楽器の音のようなものも耳に届く。祈祷だろう。
 何かを鎮めようとしている。
 だがその部屋は、問題の場所とは違う。女は、異変の源である方向へ向かい、不寝番らしき衛兵と仲間たちに駆け寄っていった。いちるの姿を見た彼女らは、幾分かほっとした顔をする。いちるの嫌な予感は否が応にも増していく。
 この者たちがいること、オルギュットを助けてほしいという言葉から、この閉じられた部屋にいるのは間違いなくその王本人だろう。辺りに目をやれば、魔石、銀の祭具などが配置され、辺りは清水と神酒で清められている。まずいものを閉じ込めていると知らしめており、そんなところに夜遅くに呼ばれた不幸を思った。
「レグランスは?」
 全員が顔を見合わせた。
「朔日には、決してお出になりません。影響されるからと」
 穢れを引いてしまうのだ。魔眸ゆえに闇を吸収してしまうのだろう。
「朔日とは」
「陛下がこのように暴走される日のことです。一定の周期でこうなるのです。陛下はこの国を清浄に保つために、常にお力を使われているので……」
「いつものように対処したらいいのではありませんか。わたくしが出る必要がありますか」
 強い言い方に、女たちは怯えた顔をした。
「その……毎回、何人かが影響を受けて倒れてしまうので……早く治まれば、苦しむ者が少なくて済むのではと……」
「お願いいたします。姫は奥宮の怪異を鎮めたと窺いました。レグランス様もおりません。陛下の苦しみをどうか和らげてさしあげていただけませんか?」
「お願いします!」
 一斉に頭を下げられる。いちるは眉間を押さえた。
 こちらに来て、なくなっていたので忘れていた。異能を持つがゆえに、人が集まってくること。出来ることがあるのに、頼んだ方が解決が早いからと寄ってくる者たちがいる。ヴェルタファレンではさほど気にならなかったのに、今になって苛立っていた。手を合わせて、泣きそうな顔をして、人に頼む前にその必死さを行動に向けたらどうなのかと。
 言っても聞かぬだろう。いちるがここにいる限り、彼らはその救いの糸を掴み続ける。『苦しむ者が少なくて済む』のを体現したがっているのだ。傷を負って切れるのはその糸かもしれないというのに。
 いちるは顔を背け、扉を開けた。いつの世、どこの国でも、生きる者の在り方はさほど変わりはないと思い、そうして、帰りたいとひどく胸を締め付けられるのだった。

<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―