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 夜になって五人ほどが並んで寝ることができる巨大な寝台に横になってうつらうつらしていると、天蓋をめくって黒い影がのそのそ入ってきたので「ジーク」と呼びかける。
「悪い。起こしたか」
「ずっと起きていたから大丈夫よ」
 這うようにしてジークがプロセルフィナの腰を抱いた。お腹に乗った酔っ払いの頭は熱くて重い。重石になっている身体をどかすようにして這い出すと、毛布と敷布に顔を埋める彼の髪を指で梳いた。赤い髪は色の印象のままに少し硬く、蔓のようにしなやかだ。
 ずっとこうしていたいのに。
「……愛しているわ、ジーク」
 言葉は、声にした端から解けていく。震える息を殺してもう一度告げる。
「愛している。たとえ今の私が私でなくなっても」
「……何を言い出すんだ」
 むくりと起き上がったジークは剣呑な光を宿した目でプロセルフィナを睨んだ。
「『私でなくなっても』? まるでお前じゃなくなるような言い方だ!」
 まるで泣きそうになるのを堪えているかのような顔。
 彼は怖がっているのだ。自分のことよりもプロセルフィナがいなくなることを。
「……どうして笑う」
「……嬉しいから」
 自分が何者であっても。この気持ちが、心が、別のものになってしまったとしても。今感じているものを覚えていようと思った。今までだってそうやって刻んできたものが『プロセルフィナ』を形作ってきたのだ。
「私はずっと同じものではいられない。あなたを嫌いになることも、また好きになることもあると思うの。そうやって別の私になっていく。でもね、一が二になったときの変化は小さくても、一から十になったときの違いは大きいものでしょう?『変わる』ってそういうことだと思うの」
 ジークは瞳を揺らしている。
「だから十になった私は、今と比べて別の人間になっているかもしれない。それでも、過ぎ去って変わっていく一瞬一瞬にも、私はあなたに愛していると思うわ」
 その変化が『プロセルフィナ』の消失だとしても、『私』はあなたを愛している。
 ジークの瞳の色が孤独な光を宿したが、消える。彼が目を閉じたからだ。そうして再び開いた目には強い感情が炎のように輝いている。
「どこにも行くなと、言った」
「行かないわ。でもすべきことがある。――冥魔の女王を追うわ。あれはきっと災厄を呼ぶ。消滅させなければならない」
 ジークが東に行っている間、自分にできること。それは冥魔の女王を追うこと。ジゼルと《死の庭》の護人の身代わりの問題はその後だ。
「情報を集めて、冥魔の女王の目的を明らかにする。なんだか目的があるように思えるの。それを阻止したい」
 だが勝てるかはわからない。彼女の使う力にプロセルフィナの歌は一度負けている。ジークもそばにいないならどこまでできるか。けれど。
「あなたがいない間、私も戦っていたい」
 ジークがプロセルフィナの寝間着の襟を引く。肩に顔を埋められると低い声が言った。
「……歌ってくれ、プロセルフィナ」
 プロセルフィナは笑う。歌うこと。それは私にできるたったひとつのこと。

 歌が絶えてしばらく。
 夜が明けた頃、ジークは支度を整えてリティ・エルタナを発つことになった。
「アルブレヒト。レギン。両の騎士にプロセルフィナを守ること、よろしく頼む」
「かしこまりました」
「この命に代えても」
 ジークがこうして彼らの名を呼ぶことも、それに対する騎士たちが改まった言葉遣いをするのも、初めてのことだった。騎士たちは胸に手を当て、頭を垂れて拝命の返礼をしている。ジークは満足げに頷き、プロセルフィナに向き直った。
 両腕を伸ばし背の高い彼の顔に近づけるよう爪先立って、肩に額を押し当てた。
「どうか無事で。何かあったら私を呼んで。きっとすぐに行くから」
「ああ。お前も気をつけろ」
 無事を祈りあった後、ジークは少し照れたように囁いた。
「……いつもお前の歌を思っている」
 ムントとシグ、そして護衛の騎士を少数連れてジークは旅立つ。広い背中を見て、言わなければならないこと、言いたいことが溢れているのに言葉になってくれない。焼きつくように感じるのは『行かないで』という思いばかりで、けれど自制が何も言うなとそれを押し殺すのが苦しくて、涙が滲む。
 これが最後のような気がするのは何故なのだろう。不安を掻き立てられないよう飾り気のない別れを演じて見せたのに、こうして見送っていると後悔ばかりがやってくる。
 形のならない思いが旋律になった。

  広げた翼で触れてください
  優しい光を降らせてください

 ムントとシグがはっとしたように振り返った。

  あなたが呼ぶなら駆けていける
  どこまでも渡っていけるから
  私を呼んで
  離さないで

  いつまでもそばにいるから
  いつまでも

 隊列は彼方に向かって進んでいく。その先頭にいるジークの振り返らない様が、痛いくらい目に焼きついた。

       *

 地と水を毒す《死の庭》の呪いによる被害は、オルフの想像を超えて深刻だった。病んだ街や村は陰鬱な空気が漂い、精神に異常をきたした者の叫び声が響いていた。オルフは領主たちと協力して彼らに薬や食べ物を配りながら、ふと《死の庭》について研究している学者の言葉を思い出す。
 ――《死の庭》は人の罪の証。力に溺れ驕れる者たちへくだされた罰。
 ギシェーラ宛に報告の手紙を書いたオルフは、さらに東へと足を進めた。しばらく行くうちに嗅ぎ慣れない臭気を感じた。やけに興奮する馬をなだめながら進んでいき、行きついた光景に愕然とした。
 血の海だった。大地が黒く染まり、あちこちに馬や馬車、人の残骸と思しきものが転がっている。
 背後にいた部下の何人かが堪えきれず馬上から嘔吐した。こみ上げる不快感を堪えてオルフは言った。
「せ……先遣隊はどうなった? まだ帰ってきていないのか」
 一人が恐る恐るその光景を指差した。指された先の泥まみれのぼろ布は、よく見れば公爵家の紋章を掲げた旗だ。部下たちを叱咤して近隣の村で情報収集させると、冥魔が避難しようとしていた村人たちの隊列や先遣隊を襲ったらしいことがわかった。救助が得られないまま呪いを受けて倒れ伏したところを獣に襲われ、全滅の憂き目にあったのだ。
 オルフは苦い唾を嚥下した。
「……近隣に避難のふれを出そう。なるべく西に、《死の庭》から遠ざかった方がいい」
「恐れながら閣下、この状況でも住民は従いますまい……田畑や家畜を手放せないと彼らは言うでしょう」
「ここは神法司に任せましょう。浄化をせねば呪いを放つ地になってしまいます」
 忠告した部下たちに従って馬首を巡らす。
 こんなときに実感する。浄化など意味がない。人々が真に求めるのは《死の庭》に脅かされることのない世界だ。
「周辺を見回ろう。誰かが助けを待っているかもしれない」
 希望的観測を彼らは否定しなかった。捜索隊を作り、残った者は犠牲者の確認を行う。オルフは捜索隊に加わって馬を走らせた。
 何故か東に来てから夜が来るのが早い。吐いた息がすぐに白くなり冬が近づいているのを感じた。《死の庭》の乙女が立って八度目の冬。厳しい冬も暖かい冬もあった。病が流行った年もあり多くの人が死んでいった。呪いの色は年々濃くなっている。
 今でも彼女が消える夢を見る。
 異界の波に飲まれて消えていく彼女が放った呪いが、何かの拍子に胸を傷つける。癒そうとするのを許さないとばかりに撫であげて傷を開かせるのだ。けれど彼女が遺せたのはそれだけなのだという思いが、オルフにそれを忘れることを許さないでいた。
 けれど彼女なのかもしれない女性が幸せに生きていることが、どうしてと揺さぶりたくなるほど狂おしく感じられる。
(君は僕を許さないのか。だから世界を救ってくれないのか?)
「閣下!」
 反射的に手綱を引く。蹄が地を滑った。オルフに先んじていた騎士たちは守りを固め、闇の中にうずくまる影を注視する。
「人か?」
「冥魔かもしれぬ。警戒を怠るな」
 う、と影が呻き、身を起こした。
「何者だ! 名を名乗れ!」
『…………あ……』
 騎士たちが戸惑った。影がこぼした声が明らかに高かったからだ。
(子ども? ……女性?)
 人影がこぼした涙のぱたぱたという音が響いて聞こえた。胸を叩くように気持ち悪いほど優しい音だった。痛い、と女は泣き、悲哀を吐息にしてこぼしている。
『……どうして……私を選んでくれないの……?』
 その声を知っている。
 聞き間違いではない。その声に覚えがある。その声が微笑することも、見事に歌い上げることも知っている。
 灯りをと誰かが言って影を照らした。
 長い髪が黄金の輝きとなって映し出される。涙をこぼす少女が光に怯えるように身体を震わせていたが、ふと目を上げてこちらを捉えた。途端、悲しみに満ちたその顔に微笑みが花開いていく。
『ああ……オルフ…………』
 ――ジゼル。
 呼んだ声は言葉にならなかった。

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