第2章 祈りの果て

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 大聖堂の弔鐘が白くけぶる冬空に響いていた。それが自分の葬儀のためのものであることを考えながら、ジゼルは窓辺に腰掛けてそれを聞いている。窓に映る顔は出来の悪い仮面のように表情がなかった。どういう顔をしていいのかわからないからだ。
 ロイシアの城から離れた邸で外界との接触を一切禁じられて過ごすことになってから、もうひと月が経っていた。世話をするのは神法機関から派遣されてきた神法司たちで、リアラもいなければ近衛兵もいない。虚弱な第二王女は病に倒れ、治療の甲斐なく亡くなったこととされたため、これ以降『ジゼル』として外に出ることも叶わない。例の会でジゼルは病に臥せっていることは説明されていたはずで、その後葬儀を執り行うことになったとしても、あの姫なら仕方がない、不思議な力を持つ者のさだめだとみんな納得するだろうと容易く想像できた。
(今頃リアラは泣いているだろうか。……泣いてくれているのだろうか)
 ギシェーラは感情を出さないようにしている姿しか思い浮かばなかったので、泣いてくれるのは彼女だけだろうと思うと胸が痛んだ。彼女は昔からジゼルに仕えてくれた、親友と呼べるような存在だったのだ。
 今の生活で話し相手になるのは神法司だけだったが、会話はない。ジゼルにはもう言葉がないのだ。ロイシア王国付きになっているホメロスによって、《死の庭》の乙女として喉に呪印を刻まれたためだった。
 護人は沈黙の行を行うとは聞いていたが、呪印によって言葉を封じられることとは思ってもみなかった。声を出そうとしたがかすれた息が漏れるだけで、自分が呼ぶ誰かの名前をほとんど持っていないことに気づかされたジゼルは、ぼんやりと窓の外に目を移した。
 やがて偽りの葬儀に参列した足でホメロスがやってきて告げた。
「明後日より『祈りの旅路』を始めます」
 祈りと言葉を変えていようが、それは死出の旅路にほかならない。窓越しに彼が去っていくのを見送って、ジゼルは目を伏せた。
 ――《死の庭》の乙女(シェオルディア)。
 その名は初めて人柱となった者が少女であったことに由来する。
 魔術大国があった大陸が消滅して《死の庭》と化したとき、この異界によって呪われた世界を救うべく立ち上がったのが、この頃確かに存在した魔力をその身に強く宿した娘だった。彼女の名は伝わっていない。彼女は自身の言葉を『力ある言葉』にするために沈黙の行を行って祈りの旅路を歩んだという。
 だがその平和は百年ほどしか保たなかった。
 それからこの世界では《死の庭》の護人を選び出すようになった。任を下すのは《死の庭》に程近いエスフォス島に本拠地を置く神法機関だ。その選定基準は誰にも知られていない。神の法の下、と任命時の文言から、なんらかの《魔具》が関わっているのだろうと推測されていた。
 少女の役割は護人と呼ばれ、女性を《死の庭》の乙女、男性を《死の庭》の護人(シェオルディン)と呼び分け、統一するときには護人と呼ぶが一般的には《死の庭》の乙女の呼び名の方が通っている。
 護人となる可能性があるのはこの世界に生きるありとあらゆる人間だ。
 選ばれた者は名前を失い、自身を死んだものとして《死の庭》の柱となる。だからどの国の、どの街の、どの家の誰が、どうして選ばれるのかは知られようがないのだった。
 世界のすべての人に降りかかる可能性がある義務。多くの人々が生きる中でロイシア王国の第二王女が選ばれた。それをひどいとも思ったし、仕方がないとも思えた。悲しかったし腹が立ったし、諦めの気持ちもある。それらすべてがないまぜになってジゼルの感情の波は平らになった。こんなときに予知も夢見も力を発揮しない。
(お姉様……)
 しばらくギシェーラに会っていない。姉の悲しむ顔を見ることになるかと思うと会いたいと言えない。呼びかける声も失ってしまった。
 ジゼルの任命を聞いたオルフもまた、王太子の婚約者として葬儀に参列したはずだった。あのときはジゼル自身が呆然としていたためその後のことをはっきり思い出せないが、彼はひどく怒って悲しんでいたようだった。
(オルフは、どう思っているかしら……)
 子どもの頃、迷い込んだ子犬が貴族の子弟たちにいじめられていた。建物の二階にいたジゼルは、なんとかしなければと思いながらうろたえていた。少年たちは虚弱なジゼルよりずっと大きく、すでに剣を習っている年齢で、怖くて足が竦んでしまったのだ。
 そこへオルフがやってきて彼らに勝負を挑んだ。彼は辛くも勝利して、傷付いた子犬を抱えて走り去ってしまった。
 ジゼルは急いで、あなたの勇気に感動したということ、何もできなかった自分を恥じたこと、あなたと子犬の傷がよくなりますようにと薬と包帯を添えて、手紙を出した。
 あまりにも大胆な行動をしている自覚があったせいで、手紙に名前を記すことはできなかった。彼の名前を知らなかったが、当時ギシェーラとジゼルの世話をしていたリアラの母によって無事届けられたはずだ。
 それから初めて彼と会うことになっても手紙のことには触れなかった。ただ彼の屋敷の庭で眠る子犬を見てほっとしたのを覚えている。包帯を巻かれた子犬は、オルフが呼ぶと尻尾が千切れんばかりに喜び、常に彼を支える弟のような存在になった。
 それからオルフとの交流が始まり、たくさんの彼の優しさに触れた。
 あの花が好きだと言えばどんな花と尋ねてくれて。
 三人でお茶を飲む時間が楽しいと言えば、僕もそう思っていたと言ってくれて。
 悲しいとき、落ち込んだときには気遣い、寄り添ってくれた。いつもジゼルとギシェーラを案じていた。心優しいオルフ。彼はジゼルの代わりに怒り嘆くだろう。そんな顔をさせたくないのに。幸せに笑っていてほしいのに過去ばかり思い出す。
(お姉様。私は、もういらない子なんですか?)
 逃げることは許されない。
 この世界に生まれてきた、そしてロイシアの王女である自分が、幾人もの護人の犠牲を無視していいはずがなかった。彼らのなかには畑を耕す民がいただろう。自由を歌う流れる民もいたかもしれない。貴族だった者も、もしかしたら王族であった者もいたかもしれない。ジゼルだけが義務を放り出すわけにはいかなかった。
(逃げることは許されない)
 でも逃げてみたかったわ、と膝に顔を埋めた。

 祈りの旅路の始まりは、夜も明け切らぬ暗闇からだった。ジゼルは顔を覆う白い仮面をつけた。目と鼻と口の部分に切り込みが入っており、額や目元には装飾代わりの神法文字が描かれていた。衣服は護人としての巡礼服、上には外套をまとい、髪を隠す帽子を被った。するとジゼルの姿は道化と呼ぶには不吉な、白い紙人形めいた個性のない不気味なものになった。
 青ざめた顔を見られずに済むことだけが救いだった。何故なら、ロイシアから派遣される護衛隊の長はオルフだったからだ。
「オルフ・レスボスでございます。神法の名の下、《死の庭》の乙女をお守り仕ります」
 神法司のホメロスは鷹揚に頷いた。
 ホメロスは三十代。まだ若いながらも朗らかで行動力があり、彼が思想家で偏屈だった前任から業務を引き継いだおかげで、ロイシア王家と神法機関の関係が改善されたという功績がある。
 彼の部下となるのは補佐役のアイス司と見習いのキュロという少女だった。アイスはこれぞ神法司といった気難しさと冷静さを兼ね備えた男で、ホメロスに対して慇懃な態度を崩すことはなかった。そして彼らに命じられて動き回るキュロは、護人の世話役という仕事を果たそうと頬を紅潮させて張り切っている様子だった。
 見送りの中にギシェーラの姿はなかった。ジゼルも手紙を残すことができなかった。会わないと決めた姉の決意を思うと何も書けなかったのだ。
 城門を出たジゼルはそこで振り返った。
 森に囲まれた白い王城。翻る王国旗は気高い。
 父と母の最期を思い出す。
 両親を見送った後の姉の横顔。お互いの冷たい手を握って寄り添ったこと。ジゼルは涙をこぼしながらギシェーラの胸に顔をこすりつけ、姉は黙って妹の肩をさすっていた。
『私がお姉様を守るわ』
 ジゼルを頼むと絶え絶えに告げた父王の言葉を受けて、そのときジゼルはギシェーラに向けてそのように宣言したのだ。東からやってくる雲は暗く、《死の庭》の風は強かったけれど、そんなものに負けはしないと強く思った。
(……そうよ、いらない子なんかじゃないわ)
 ふと力が湧くのを感じた。
 世界の生贄に選ばれたけれど、ここにはあなたがいる。
(お姉様。私は《死の庭》に行きます。それがきっとお姉様を守ることになるはずだから)
 行くべき道に目を戻すと、神法司と護衛隊が待っていた。涙ぐむオルフを励まそうと仮面の下で微笑むが、ジゼルの思いは伝わらない。だから一歩を踏み出した。振り返らないことが決意の証だった。

 ロイシア王国からの行程は、東の港街で船に乗り、エルフォス島の神法機関に立ち寄って、そこから語り手と神法司とともに《死の庭》に入るというものだ。天候に恵まれ海が荒れていなければ一週間程度。それがジゼルの残りの命数だ。
「わあ……すごい。野原が淡い紫色だ……」
 神法司たちが借り出した馬車に揺られていたジゼルは、同乗者のキュロがわくわくとした様子で外を眺めるのを微笑ましく見ていた。
《死の庭》の呪いが氷と結びついて霜になって降りてくると、草原は淡く紫がかる。東国ならではの冬景色だ。呪われた地が近いと忌まれる東国において、キュロの無邪気な反応はジゼルを慰めた。心から美しいということはできないが、淡紫色の風景は確かに幻想的なものだと思ったからだ。
 そんな視線に気づいた少女が、はっと居住まいを正して座りなおすと、もじもじと膝の上で手を組み合わせた。
「ご、ごめんなさい。わたし、先日見習いになったばかりなんです。両親が亡くなってしまったので機関に誓願をたてて……。森より西に来るのは初めてなんです。東って、たまに雪が降るけどほとんど真っ黒で」
 なるほどとジゼルは頷いた。ロイシアの王都から東には広大な森が広がり、その向こうは王都以西に比べて雪が降らない。だが《死の庭》の風が運ぶ呪いは大地に染み込んでおり、時折降る雨や雪は濁っている。陳情書や報告書で読んだことがあるが有益な対策を講じることができないまま、冬季には最も多く死者が出る土地だった。
 キュロはその被害者で、家族を《死の庭》の影響で亡くして孤児になったのだ。ジゼルは痛ましい気持ちになった。キュロは自身のことを話すのに慣れていないのか顔を赤くしている。
「東に行ったら気をつけてくださいね! あちらは病気の人が多いし、そのせいで物乞いとか浮浪者が増えて、盗賊も出るんです。この旅には騎士様たちがいらっしゃるし、尊いシェオルディアに手を出そうなんて不逞の輩はいないと思うんですけれど、冥魔が出るかもしれないし…………あっ!」
 キュロは両手で口を押さえた。
「ごめんなさい! 不安にさせるようなことばかり言いましたっ」
 ジゼルは首を振った。キュロが話したのは誰もが知っている現実だ。だがキュロは早口でまくしたてる。
「でも東は紫がかった夕焼けがすごく綺麗で! 朝霧も紫がかっていて不思議な光景なんです! 名物は魚のスープで、貝も美味しくて! それから、それから……!」
 ふふっと漏らした笑い声は掠れた息になった。それを聞いたキュロはきょとんとし、ジゼルは笑いながら窓にふうっと息を吹きかけた。白く曇ったそこに指で字を綴る。
『ありがとう。あなたは優しい人ね』
 少女はゆっくり消えていく文字を見て頬を染めると、きらきらした瞳を伏せた。可愛いと思ってジゼルは笑った。
 王都を出て最初の街に到着すると、馬車を降りるように促された。外套を脱いで冬の風に巡礼の衣をまとった姿を晒す。
 祈りの旅路において《死の庭》の乙女は白馬に騎乗し、神法司たちを従え、護衛騎士を連れているということになっている。現在は旅のほとんどを馬車で行くが、街中に入る時には白馬に乗って騎士と司とともに練り歩く。
 馬に乗るとたっぷりした袖が風になびき、わあ、とキュロは感嘆の声を上げた。
「花嫁さんみたいです!」
 花嫁が騎乗し街を練り歩く風習は、今はほとんど廃れてしまったが伝統的な婚礼行事だった。だが聞いていた神法司たちは苦い顔をする。
「キュロ。お前もこの旅の見届け人の一人なのだから厳粛な態度を心がけなさい。間違っても笑ったりしないように」
 ホメロスが注意するとキュロはしゅんと小さくなってしまった。
 それでもキュロは年相応にかわいらしい。微笑ましく見ていたのはジゼルだけではなかったようで、護衛隊の騎士たちもオルフも優しい視線を送っていた。だがオルフはジゼルに気づくとその穏やかな表情をなくしてしまう。そして無視するように目を伏せ、ジゼルの乗る馬の口を取る。
 街に入ってきた白服の仰々しい一行が神法の僕と仮面をつけた乙女だと知ると、人々は一斉に両手を組み合わせて跪いた。
「シェオルディア、シェオルディア……」
「どうぞ世界をお守りください、尊い方よ」
 知らせを聞いた人々が続々と現れて祈りを捧げる中、ジゼルは馬上からオルフの背中を見つめた。そこから感じられるのは、彼が表情を消し、精悍で麗しい騎士として粛々と歩んでいることだ。心の中で呼んでも彼は決して振り向かない。
「シェオルディア……!」
 救いを求める人々の声を浴びながら、ジゼルはひたすらオルフを見つめ続けた。

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