幕間

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 エスフォス島の朝は早い。夜明け前の暗闇の中、神法司の見習いたちは寝台を離れ、支度を整えて部屋を出る。口を利くものは一人もいない。すり足で廊下にぞろぞろと群れを成して礼拝が行われる本殿へ向かう。
 見習いは俗に帯なしと呼ばれる。階梯を上がって初めて帯を授かり神法司となるのだが、世俗の身でありながら最初から位を与えられる、唯一の例外があった。この世界の柱が、《死の庭》の護人がそれだ。今もキュロにとって心の大きな部分を占める存在でもある。
「痛っ」
 本殿に入ろうとする人波の中でその悲鳴はよく響き、なかなか前へ進まないことに苛立っていた見習いたちがさらに嫌な顔をするのがわかった。
「……あの子がそうだよ」
「ああ……あの旅の……」
 列を乱さないように注意しながら周囲を見回すが、集まる者の数は多く、揃いの衣装は裾が長かったため、誰が足を踏んだのかは特定できなかった。
 ようやく本殿に入り、礼拝を執り行う司が現れた。全員が教典を開く。
 だがキュロはそれをすぐに閉じた。墨で真っ黒に塗りつぶされていては読むことができないからだ。幸いにもほぼ暗記していたため、周囲に耳を澄ましながら祈りの語句を唱えることができた。
 祈るときキュロはいつもたった一人を思うことにしている。
(今日もあなたの祈りが世界中に満ちますように……)
 聖歌を歌って礼拝が終わると、一同は食堂に移る。配膳されるのは島内で栽培されている野菜や麦で、肉や魚が上ることは滅多になく、週に一度出る鶏卵がご馳走だった。
 見習いの中でも監督役を命じられた者が目を光らせているから食事も静かに行われる。私語をしようものなら食事を取り上げられ、なんらかの罰を与えられることになる。だからここでは派手な悪戯はない。せいぜい、左右正面のどこからかさっと手が伸びたかと思うと、汁物の椀をひっくり返されるくらいだ。
 びしゃびしゃになった青菜を口に運ぶ。見た目はどうあれ口に入れてしまえば同じこと。キュロが黙々と食事を続けていると、食器使いの音に紛れて舌打ちが聞こえた。
(もう慣れた。こんなの辛くもなんともない)
「キュロ司妹(しまい)。ホメロス司兄とプルート司長(しちょう)がお呼びです。こちらへ」
 朝食後それぞれが奉仕先へ向かう途中、呼び止めたのはアイスだった。エスフォス島の神殿で同時期から修行することになった、直属の司兄(しけい)がそう告げた途端針と化した視線の攻撃に遭い、さすがに首を竦めてしまった。
 言われた通りプルート司長の執務室に向かう。プルートは六十歳くらいだろうか、東海の島に長く住んでいるというのに病の欠片も見られない頑健な男性だ。小柄でずんぐりしており、鍛錬を日課にしているという。にこにこと気のいいおじいさんという印象だが、彼こそこの世界で信仰される神法という教えの頂点に立つ人物なのだった。
 執務室にはホメロスの姿もあった。キュロはなんとなく彼が苦手だ。アイスはとっつきにくい人ではあったが真面目なだけなのだと今はわかる。だが同じく一緒に旅をした一人であっても、ホメロスとは親しくなりたくないと思うのだ。
(多分ホメロス様があの人の最期を見届けたせいなんだろうな。大事な人を見殺しにしたって心のどこかで恨んでいるのかもしれない)
 プルートはキュロと視線が合うとにっこりと笑いかけてくれた。
「島の生活には慣れましたか、キュロ司妹。君が来てもう一年ですか。君がよくやっていると、他の司たちから聞いていますよ。奉仕も一生懸命に行っているし、礼拝も欠かさないと。教典を暗記しているようだとある司が言っていたのですが……」
「滅相もないです。私のような未熟者が、そんな」
 否定はしてみたが、プルートはすべてわかっているようだった。
「熱心なのはいいことです。そんな君に確認したいことがあります。こちらにいるホメロス司がお国に帰ることになりました。アイス司は残ると言っていますが、君はどうしますか? エスフォス島としては、君のような優秀な人には残ってもらいたいのですが……」
 キュロはびっくりしてホメロスを見た。
 一年前の冬。キュロたちは《死の庭》の乙女の旅に同行した。大陸東部のロイシア王国から派遣され、旅に付き従う神法司として《死の庭》の乙女を見送ったのだ。
 その後、見届け役であったロイシア王国のオルフ・レスボス公爵は騎士たちとともに国へ戻り、途中から旅に同行することになった赤髪の剣士アイデスたちもどこかへと去っていった。キュロたちはエスフォス島に残り、修行の日々を送ることになった。だがホメロスやアイスが残ったのに比べて、キュロの動機には不純なものが混じっていた。消えてしまった《死の庭》の乙女の近くから去りがたくなってしまったのだ。
 彼女は優しい人だった。《死の庭》に捧げられることへの覚悟を持とうとしながら、泣いている姿を見られないよう慎重にキュロを遠ざけることもあった、ただの人だった。それでも最期にたった数日寝起きをともにした自分の未来を祈ってくれたあの人を、ずっと忘れられないでいたのだ。
 あの人が願った大人になれるかはまだわからない。でもあの人のように誰かの未来を祈れるものになりたいと思っていた。
「ホメロス様は、ロイシアに戻られた後はどうなさるんですか……?」
「以前のように王宮付きになります。即位されたギシェーラ女王にも戻って来いと言われていますしね」
 元々ロイシア王国の城にいたホメロスは、ずいぶん女王の信頼厚いらしい。すごいと思う一方、自慢するような笑い方があまり好きではないなと思った。
「私はこの島でもうしばらくお勤めをさせていただきたいと思います。よろしいでしょうか、プルート司長様、ホメロス司兄」
「もちろんですよ」
「ええ。寂しくなりますが、頑張りなさい」
 手が空いているなら荷造りを手伝ってほしいと言われ、承知した。見習いたちに馴染めているとは言い難いので、司長となんの話をしたのか邪推されるのが嫌だったからだ。
 キュロはホメロスに指示され、資料を受け取りに書庫へ向かった。所蔵されている書物には貴重なものが多く、ホメロスはその複製を作らせていたらしい。
 書庫勤めの司は、受け取ったものを一覧と照らし合わせるキュロを、ぎょろついた大きな目で見つめている。さすがに気になったので顔を上げた。
「あの、何か?」
「君って噂の期待の新人だよね。祈りの旅路に同行を許された生え抜きの見習い」
 キュロは曖昧に笑った。
「特別だったのは一年前だけです。今はただの見習いです」
「ふうん。どういう旅だったの? 祈りの旅路って」
 キュロは改めてその書庫守の司を見た。陽の光を浴びない書庫勤めのせいか、肌は真っ白で目玉の白い部分が透き通るような青さを帯びている。にっと笑うと八重歯が見えた。
「よく言い換えたよね、『祈り』って。どう考えても死出の旅路だよね」
 無邪気なほどの言い方に、キュロはゆるゆると苦笑した。
「……初めて聞かれました。祈りの旅路のこと」
 エスフォス島でのキュロの修行は、祈りの旅路に同行した特別な見習いとして距離を置かれるところから始まった。キュロが平凡にすぎないと知られると、小さな嫌がらせを受けるようになった。仲良くしようという者は誰もいない。キュロも誰かと親しくなろうとはせず、祈りの旅路のことはずっと胸に秘めていた。
 だからこの司には興味を持った。沈黙が尊ばれるこの場所で、自身の関心を素直に口に出せるのは稀有なことだった。
「護人は世界の秘技のひとつだ。一体誰が、どんな意志が、どういう目的で人柱を選ぶなんてこと、僕みたいな平神法司には知らされないし、司長がご存知かも怪しいもの」
「そんな」
 かろうじて否定しながらキュロは思った。
 どうしてあの方だったのだろう。世界を救うために死ねと告げられる者というのは、一体誰なのだ?
「僕が先輩から聞いた話では、この島には神法の力を秘めた《魔具》があって、それが神の意志を伝えているそうだよ。時期が来るとその《魔具》が《死の庭》の護人を選出し、神法司が遣わされるらしい。任命書はその時に出現するんだとか。興味あるよね」
 口元をにやつかせた書庫の司は突然本を差し出した。端がぼろぼろになっている古い冊子だ。びっくりして思わず受け取ってしまった。
「神殿の内部と島の地図、その《魔具》を探した人たちの所感だよ。受け継ぐ人がいなくて困ってたんだ。あとは君に任せた。よろしくね」
「よ、『よろしく』って」
「知りたいんでしょう、誰が《死の庭》の護人を選んでいるか」
 キュロはごくりと息を飲んだ。
 見透かすように笑って書庫守の司は書架の奥へ消えていった。キュロはしばらくぼうっとしていたが、はっと我に返って頼まれていた書物の写しを持ち上げた。ホメロスに頼まれた仕事はまだ残っていた。

 晴天が多いエスフォス島にはめずらしく、その日は雨が降っていた。外での奉仕が限られていたため、早々に個々に与えられる部屋に戻ることができたので、キュロは小さな蝋燭の灯りを頼りに、書庫守の司から受け取った本を読み進めていた。
(すごい……この本、島の地図がすごく丁寧に描かれてる。探索の記録も細かい。いろんな人が書き足してきたんだ……)
 探索者たちは真実が覆い隠されているのではないかと疑い、神殿内のささいな出来事や噂などを書き留め、あるいは追跡していた。つくづく手が込んでいた。こういうものくらいしか娯楽がないにしても、何かに突き動かされるように《魔具》の在り処を突き止めようとしている。
 最後の探索者は島をくまなく探索した結果、怪しいのはやはり島唯一の建築物である神殿であり、日常的に神法司たちが使用する本殿にそれらしい仕掛けがあるようだと結論付けていたが、果たしてそれを確かめることができたのかどうかは記されていなかった。
(この呪文、試したのかな)
 神法司の祈りや呪文は詩のようなものが多い。古いものは意味がわからない単語の羅列ばかりで覚えるのも一苦労だ。そこに記されているのもそうした類のものらしかった。
 その詩をなぞろうとしたところで扉が叩かれた。
 廊下には人事を担当する女性の神法司が立っていた。

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