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 車を飛ばし、鐘楼と時計台を抱くサンの聖堂へ向かった。時計盤はライトに照らされ、現在十一時十五分頃を指している。何度もここに足を運んだのだろう、キャサリンは慣れた様子で聖堂の裏側へ回り、鐘楼の上階へと続く扉を開けた。アンが先に行こうとするのを、キャサリンは自ら先頭に立ち、長い螺旋を描く階段を昇っていく。
「なんだか思い出すわね。真夜中のお城を探険したときとか」アンの声が上下に反響する。キャサリンの声もよく響いた。「一人で昇ったとき、とっても怖かったのよ」
 上へ辿り着くと、ようやく足がついたという感じがした。時計と連動して鐘が鳴るようになっているため、仕組みや部品があるのかと思ったのだが、別の部屋らしく、がらんと殺風景な場所が広がっているだけで、バルコニーのようになったところから吹き込んできているらしい、鳥の羽根やごみや塵、埃でいっぱいだった。歯車がいっぱい、というお伽話のようにはいかないらしい。手動で引く鐘楼の紐があるのが、なんだかコメディのような気がした。
「どこに隠したの?」
「この上なの」とキャサリンが示したのは階段だった。鐘があるところらしい。「壁の隅の方に、重石をして置いてあるわ」よし、とアンは腕まくりする真似をした。
「アン、私が行くわ」
「大丈夫よ、あなたはここで待ってて。あなたが先頭に立ってちょっと悔しかったから、挽回させてよ」片目をつぶってみせると、キャサリンはくすりと、ようやく笑った。「気をつけて」

 錆びた梯子に手をかける。手に腐食した金属の塗装がぱらぱらと貼り付いた。靴が少々不安定だ。こちらに来てからスニーカーを履いていないので、ここがユースアだったらもっと身軽な服装でてきぱきと上がれるのだが、と仕方のないことを考えていた。最上階に着くと、風が吹き付けた。巨大な鐘が釣り下がっており、辺りを見回してみると、不自然な黒い箱が置かれているのが目に入った。箱は金属でずっしりと腕がしびれるほど重く、中を開ける。
 十二芒星の銀の耳飾りを見つけたとき、アンの口からため息が洩れた。
「やっと、見つけた……」

 そのとき、布を裂くような悲鳴が聞こえた。キャサリンの声だと気付いたアンは、スカートとお腹の間にその小さな箱を押し込むと、急いで階段を降りる。階下では揉み合う音、殴る音が交互に聞こえた。床でもつれあう二つの影がある。アンは数段を残して飛び降りると、キャサリンに覆い被さった男に飛びついた。
 相手は別の人間がいることに気付いていなかったのか、驚いた様子でもがき、身体を回転させて、アンを振り払った。そのとき、アンの持っていた耳飾りの箱が遠くへ滑っていった。それを目で追い、暗がりにキャサリンの姿を探してアンは叫んだ。
「キャサリン、逃げなさい!」
 襲われた状態でぼろぼろの彼女は、恐らく立つのもやっとだろう。それでも叫んだ。
「行きなさい、早く!」そう言って、キャサリンに向かおうとする襲撃者に飛びかかった。身体に触って分かった。これは男だ。アンと組み合ったその顔を見て、記憶に合致するものがあった。あのパーティの夜、リカード邸に忍び込み、キャサリンと口論していたあの男だ。これが彼女のストーカーだったのか。

 アンと揉み合った男は、いとも簡単に彼女を投げ飛ばした。執念、怨念とも呼ぶべき強い力を発揮して、彼はそれでもキャサリンを追った。アンはそれに負けじと襲い返す。髪は乱れ、ジャケットは破けた。靴も飛び、素足で男のすねや股間を蹴った。やがてそれは怒りを呼び、男は邪魔な女の方を始末することに決めたらしい。大声を上げてこちらに襲いかかってきた。
 最初の拳は避けたが、次の攻撃は避けきれなかった。お腹に一撃をくらい、うずくまったところを押さえつけられた。すると、アンの指先に耳飾りの箱が触れた。男の太い指がアンの首を締め上げてくる。膝がお腹に乗り、息苦しくなってきた。アンはなんとか耳飾りの箱を握りしめ、それを男のこめかみに向かって薙ぎ払った。箱の角が目の近くに入ったらしく、目を押さえて膝立ちになった男の下から、アンは這い出し、逃げ場を求めてバルコニーへ走った。風が吹く、防護柵も頼りないようなところで、殴られた衝撃でふらつきながら逃げた。男が唸り声をあげて迫ってくる。
 ずく、と腹部が痛くて反応ができなかった。膝から崩れ落ちたところを、足を掴まれ、悲鳴を上げる。男はアンに馬乗りになり、しかしアンが必死に掴んでいる箱に目をやった。彼は悪そのものの顔をしてにやりと笑った。
「あいつの大切なものはすべて奪ってやる」
 男はアンの襟元を掴むと、軽々と持ち上げ、彼女の身体を外へと押し出した。上半身が折れるほど反り返り、しかも空の風が彼女の背中をなぶる。突き飛ばされれば一巻の終わりだった。
「そいつを寄越せ。そうしたら助けてやらなくもないぞ」
 渡せるわけがなかった。これは宗教上、歴史上でもかなり意味も価値もあるもので、国宝であり、クイールカントだけでなく隣国まで関係する重要な品物だ。そのとき、イビル・スピリットが忍び寄る。――これが永久に失われれば、アンはルーカスと結婚しなければならない、彼が私のものになる……? アンの心の震えが伝わり、腕が痺れた。この痛みから逃れられる方法は、男へ耳飾りを渡すこと。しかしその短い逡巡は、男にとっては一時間も二時間も感じられることだったらしい。男は「それを渡せ!」と怒鳴った。
 男から遠く離した耳飾りの箱が、かたかたと揺れた。アンの心に忍び寄った闇を払うには、その震えは箱の内側から別の力が働いたとしか言えない熱を帯びた。アンははっと我に返り、思いっきり箱を向こうへと投げつけた。男の後ろを飛んだ箱は、バルコニーの縁ぎりぎりで止まる。気が逸れた瞬間に、男の腕に肉を抉るように爪を立てた。男が悲鳴を迸らせ、手が離れ、アンはバルコニーの内側に座り込む。そして、苦しい息で腕を抑える男の下を這い出、足止めに思いきり靴のヒールを叩き付けると、耳飾りを取り戻しに走った。男は足を押さえて崩れ落ち、ぎらついた目でこちらを見た。
 アンは箱を持つと、危険防止の柵を越え、男の手が届かないところへと逃げ込んだ。風が吹き付け、足場がないような場所へだ。そこは当然、アンが足を滑らすに十分だった。悲鳴を上げたが、なんとか縁へしがみつく。しかし、片方の手には耳飾りの箱があり、今更どこかに挟み込もうにも、全身が痛くて動かなかった。
 男の嘲りの声が頭上から降る。くすくす、げらげら、彼の周りには悪霊たちが飛び交い、彼を暗黒へと突き落とすため、アンに手を伸ばさせる。男の目的はもう耳飾りの箱ではなく、たった一人の邪魔者を殺すことになっていた。彼が少し手を伸ばしてアンの指を引きはがせば、アンは数十メートル下の地面に叩き付けられるだろう。
「どうして……こんな……」
「教えてやるよ。あいつは俺を捨てたんだ。好きな男ができたと、そいつと結婚したいからと一方的に! 話し合いもなく、あいつは俺の前に金を積んだんだ、頼むから別れてくれってな!」
 男の声は泣いていた。キャサリンは、自分の恋で他人を傷付けてしまったのだ。呻き声がすすり泣きに変わる。それほど好きだったというのに、憎しみに変わる辛さを一身に感じているようだった。
 もうだめ。諦めたくはないけれど、もう痛くて怖くて、苦しくてたまらない。キャサリンは無事逃げただろうか。男の顔を見て、アンは言った。どうか、彼の言葉が彼女に届けばいい。

(……ミシア、告白します……)

 彼が大切でした。彼に愛されて嬉しかった。自分がまるで愛されることが自然のように思えて、まるで、世界に認められたように思えた。だからもしお救い下さるなら、今度こそ――今度こそ、素直に。
 最後の力が指先を離れ、アンは下へと落下する。
 そのはずだった。

 次の瞬間、伸びた力強い手がアンを死から引き止めた。覗き込んでいるのは、夜闇でも輝くターコイズブルーの男性だった。彼は、冷静に言った。
「アン、もう片方の手で支えを掴むんだ」
 アンは喘ぐ。全身に震えと痛みが走り、喉から絞り出されたのは泣き言だ。
「腕が痛いの……耳飾りが重くて、あげられない……」
「だったらそれを離すんだ。それなら腕をあげられるだろう?」
「でも、そんなことしたら……」
 上で揉み合う音がする。「もう少し頑張ってください!」というキニアスの声も響いた。
「無理だ、僕の手が保たない。さあ」
 彼の手が震えている。腕力はないのね、とこんなときに発見している自分がいた。早く、と囁く声が汗ばんでいる。アンは、選ばなければならない。

 下へ、小さな箱が落下していく。
 ――やがて、星は砕けた。けれどその音は聞こえなかった。風の音に紛れてしまったのだった。

 ぶるぶる震える腕をあげ、アンは、さきほどまで自分が掴んでいた支えを掴んだ。足を動かして場を探し、なんとか立つ。ルーカスに見守られながら、アンは久しぶりに、バルコニーへ戻った。全身が凍えるように冷たく、震えているアンを、ルーカスが強く抱きしめた。
「僕の心臓を壊すつもりか」
 彼の身体は温かかった。彼の声も、耳をくすぐる息も。
「よく、ここが分かったわね」
「サンの聖堂の方を走っていると、キャサリン嬢が飛び出してきたんだ」
 ルーカスは微笑む。冗談を交えて。「いつもすごいと思っていたけれど、今日もユミルはすごかった。パトカーよりも早く道路を走ったんだよ」
 アンはそれに笑ったが、やがて「耳飾りが……」と言葉にならない震え声で呟き、叫び出しそうになる口元を押さえた。その肩を、ルーカスがもう一度抱く。
「いいんだ。そんなものより君が大事だ。形あるものはいつか壊れる。僕たちはそれを壊さないよう努力してきたんだから、こうなってしまったのならミシア女神が望まれたんだ。それに……僕は、嬉しい」
 彼はアンの瞳を覗き込んだ。警官たちが男を取り押さえ、キニアスが彼らにここから早く退くように指示する声がする。彼らの声で騒然としている、けれど、やがてアンの心には、ルーカスの言葉だけが響くのだった。

「だって、耳飾りが永遠に失われたということは、きっと、僕たちは結ばれるべきだということだろう?」

 ――もしそれが、ミシア女神が示した真実ならば。ミシアは、アンが彼女の近いを果たすのを待っている。今度こそ……今度こそ。

 けれど次の瞬間鳴り響いた鐘に悲鳴を上げたために、彼に届くことはなくなってしまった。頭ががんがんと叩かれるくらいの鐘の音に、双方ともに耳を押さえ、肩を小さくする。何の音も聞こえないくらいの騒々しさだ。でも、だからこそ彼の瞳にはアンがいたし、彼女の瞳にはルーカスがいた。
 そっと近付いたルーカスが手を滑らせ、アンの耳を塞ぐ。アンもまた己の手で彼の耳を塞いだ。
 彼の鼓動が聞こえる。彼女の鼓動も伝わっている。耳元に触れる手のひらの熱と、痺れるようなくすぐったさを。夜の深さに、彼の瞳の光を。甘酸っぱい花の香りを嗅いだとき、その距離で唇を合わせていた。

 どこかで、地上から空へ舞い上がる星屑の輝きが響いていた。

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