Prologue
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 彼女がそこに足を踏み入れたとき、死にいくものの気配が感じられた。しかし彼女自身、その感覚が先入観にとらわれたものであると認めていた。黒檀の家具も、籐の椅子も、夜の団らんを照らすランプでさえ何年も触れられずに影と埃が降り積もっており、彼女自身も数年ぶりにこの家を訪れたのだから。本当の持ち主は、今は主の身許にいる。言い方を変えれば、白いベッドから旅立っていったことには喜ばなくてはならないだろう。あの人をベッドに捕らえているのは、彼女とて心が苦しいことだった。痩せて、病から来る老いに、命の光は失われていく光景は、痛みではない苦しみを彼女に与えていた。
 この家はあの人が愛した場所だった。熱帯の、乾期と雨期が交互に来る、精霊たちの生きるこの土地を愛おしんでいた。別世界のように捉えていたのかもしれない。いつも共にいたあの人がいないままここを訪れていた彼女もまた、かつての旅行で、別の国に来たというだけでなく、世界には不思議があることを思い知らされるような体験をしていた。ある滞在時に訪れた黒い猫の瞳は赤く、海の上の一部分にだけ豪雨が降っているのを見た。その後の雲の晴れ間から梯子のような光が差し、雲の形が砂浜に浮き上がり、虹は二重になったり円を形作ったりした。科学的に証明できるか否かはこの国では些事でしかない。すべては世界があるべくして見せる姿であり、合衆国人が信じる救世主とその父神がすべてを作ったのではなく、この世にはスピリットと呼ばれる精霊がいて、大気に満ちて様々なものを人間に見せている。不思議や神秘は確実に存在しており、彼女たちの奇跡として日常的に表れる。
 熱く湿った空気を吸うと、その信仰は肌になじむように自然になった。そんな風にして、ここにくれば、この土地にいる精霊が願いを叶えてくれるのだと信じていたときもあった。
 でも、そのときのように、おとぎ話を信じられる年頃でもない。隣に、娘の彼女と同じように顔を輝かせていたあの人もいない。彼女にとって、この国への来訪は思い出の確認に近かった。かつてはいた、今はいない、というような。時は流れるし、人は死ぬ。彼女は一人になった。
 住人を失って死んでいく部屋から出て、彼女は砂浜に降り立った。熱せられた大気と光の照り返しでまぶしい浜は、ごみが埋まり、流れ着き、心ない人々に汚されている。それでも変わらない潮の寄せる音は、彼女を遠いところへ誘っていく気がした。生死の向こう、神秘の生まれるところ、運命の始まるところへ。


「死ににきたんだね」

 不意に声が聞こえ、彼女はそちらを向いた。白い髪を結わえ、首に鮮やかなビーズの首飾りを何重にも下げた老婆が、彼女に歯のない口を見せて笑っていた。服装は、おそらくこの国の民族衣装なのだろう。異邦人である彼女には、その正確なところは分からなかったけれど。
「死ににきたんだね」もう一度老婆は言った。「何故? そんなに若く、美しいのに、お前はこれから輝くときを手放そうとしている」
「美しいときは終わりました」彼女は答えていた。見知らぬ老婆に、司祭に告白するように。老婆が巫女のように見えたからかもしれない。
「母を亡くして、私の時間は止まったのです。楽しい時も、嬉しい時も、すべて」
「それは少女時代の終わり。お前は始まりを告げる者に出会ってはいないだけ」
「始まり?」静かな彼女の問いかけには感情の波紋が生まれる。疑惑。疑問。彼女は何かを見ようと目を凝らし始めた。
「少女から娘へ。娘から女へと変わるために必要な儀式。それは、出会いと恋」
 彼女の笑みに皮肉なものが生まれた。凛々しく、しかし繊細で穏やかな美貌の面に浮かぶそれは、凄絶なほど憎々しげだった。
「恋なんて必要ないわ。誰かのために心を揺らすのはもうたくさんです」
「運命は簡単に決意を打ち砕くもの。お前は運命に会うよ」老婆は深く笑った。男性にも見えるおおらかな表情になる。
「一つ、魔法をあげよう。手を出しなさい」
 彼女は言う通りに両手を差し出した。載せられたのは小瓶だった。香水でも入っていそうな、シンプルで透明なものだ。しかし手のひらに載った瞬間、その内に秘められた炎のようなものが全身を包んだ。冷たく、熱く、彼女の心を揺らす。同じ光を宿した瞳で、老婆はまじないをかけるような、寄せては引く声で彼女を支配していく……。

「一人が耐えきれなくなった時、これを開けてごらん。お前の願いが叶うだろうから。お前は運命が始まったときに、すべてが精霊の導きによるものだと知るだろうよ」



 ――その小瓶がどうなったのか、彼女は覚えていない。

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