Chapter 1
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 風の強い日、イリスの家には潮の香りが運ばれてきた。寝室に大きく取られた窓から見てみれば、白い馬のように迫る泡立つ海を、大小の椰子の梢の向こうに見ることができる。じんわり肌に張り付く熱帯の気候に腕をさすりながら、黒とグリーンの薄手のロングワンピースを身にまとった。金色の髪を梳りはするものの、この暑さでは下ろしっぱなしは得策ではない。ねじって髪留めでとめたが、日差しによる毛先の傷みは彼女の青い目にはっきりと捉えられていた。同じく、ワンピースの肩ひもがずれたところに、ほんの少し白い跡があって、少しだけ笑う。三ヶ月間の庭仕事による日焼けというのはあまり自慢できるものではないからだ。なにせ、ここはリゾートなのだから。

 合衆国人であるイリス・カナリーがエイジア地方のトゥイ国に来て三ヶ月。彼女の暮らしは、定年を迎え第二の人生を始めた老婦人と似たようなものだった。異なる点を上げるとすれば、それは老婦人たちの方が人生を楽しんでいるということだろう。朝起きる時間が少し遅く、その代わりに夜眠る時間は早くなったが、日中必要以上に町中に繰り出すことも、家の前に広がるビーチで水遊びをするわけでもなかった。

 寝室を出て一階に下りると、キッチンから飛び出してきた小柄な影があった。イリスにぶつかったそれは、わっと驚いた声をあげると、盆を捧げ持ったまま、ダンサーよろしくくるりと一回転してイリスを見上げた。イリスは満面の笑みで告げる。
「おはよう、ノイ=v
「おはようございます、レディ・イリス!」
 イリスはトゥイ語で、少年はイグレン語で挨拶を交わす。黒髪に黒い瞳、浅黒い肌に彫りの深い顔立ちをした生粋のトゥイ人のノイは、ダイニングテーブルにひとしきり朝食を並べると、重たい藤の椅子を動かして「どうぞ!」と言った。イリスの半分くらいしか背がなくたって、彼は立派な紳士なのだ。
 朝食の支度はノイの仕事だった。トゥイ国では朝食は屋台やコンビニで買うもので、この値段交渉にイリスは少年の力を必要とした。正確には、異国人であるユースア人のイリスが地元の店に買い物に行くと、旅行客と見られ値段をつり上げられてしまうので、地元民で店主たちと顔見知りであるノイが買い出しに行く方が何かと都合がいいのだった。代わりに、イリスは彼の分の朝食も揃えるように言ってある。こちらが要求しない限り、自分が食べたいものを買える範囲で買ってきなさい、と。彼に世話してもらうようになってから三ヶ月ほど経ったが、ノイは一度も釣り銭をごまかしたりしなかったし、まずいものも買ってこなかったから、この指示は適切だったと言えるだろう。
 今日の朝の食事は、卵と香辛料の混ぜられた黄色いお粥に、からっと揚ったパンだった。香辛料のにおいと油のにおいが鼻をくすぐり、空腹を覚える。トゥイの食事は油気が多いが、空腹にはたまらなく魅力的なにおいなのだ。その反面、野菜か果物が食べたくなる。昨日はたまたまそんな気分で、今日は頼んだとおり小振りの林檎が洗って盛ってあった。さわやかな青い香りと、飲み物のまだ温かい豆乳の、とろっとした匂いが混ざり、夢のようなとろみの空気が食卓に満ちる。

 イリスが席に着くと、ノイも正面の席についた。少々テーブルが高いので、彼は椅子の上で足を折って座っている。スプーンを使って食事を始めると、イリスは言った。
「ノイ、音を立ててはだめよ」
 お粥をすすっていたノイは「はい」と頷く。スプーンの持ち方は指で支えるように矯正してあったので、それは問題がない。トゥイ人の少年に、トゥイ式ではなくユースア式のテーブルマナーを教えることは最初気がとがめたが、ノイも嫌がらなかったし、これからどこかで必要になるかもしれないと自分に言い聞かせた。彼には出来れば立派な大人になってほしい。ノイは静かにお粥を口に運んでいる。
「昼食と夕食、何か食べたいものはある?」
「レディが作るものだったらなんでもいいです」と少年は年相応にはにかんだ。彼はイリスの適当な食事を喜んで食べてくれるので作りがいがある。つられて笑顔になりながら「そんなのだめ」とイリスは意地悪を言った。
「ちゃんと考えてくれなくちゃ。この前みたいに、夕食はステーキでもいいかもしれないわね」
 少年の頬は緩みっぱなしだった。分厚い牛肉に、歓声を上げた記憶が蘇ったのだろう。そしてそれにかぶりついて、それが一口で噛み切れるほど柔らかかったことも。今日の夕食はステーキね、とイリスは買い出しに行くことを決めた。

 食事を終えると、ノイと協力して片付けをし、イリスは庭へ出た。風が強くなってきたので。前庭や玄関に並べてある鉢植えを家の中に入れなければならないと感じたからだ。空は曇っている。風が雲を運んでくるのだ。肌を突き抜けるようないつもの強い日差しは和らいでいるが、このまま外に出ていると肌が赤くなってしまうだろう。慣れたといっても、赤道近いトゥイの紫外線はきつく感じられる白人のイリスだった。

 トゥイ国は、エイジアと呼ばれる東地域の中の、東に位置する南北に長い国だ。立憲君主制で、国王がおり、首相が政治を動かしている。世界で二番目に広いユースア大陸から、十時間以上もかかる距離にあり、住んでいる人々の肌の色は黄色かったり浅黒かったりする。
 イリスが居を構えたのは、富裕層の白人たちが別荘を構えているリゾート地で、トゥイ南西側の海岸沿いにあった。建物より背の高い木々に囲まれた、茶色い屋根の二階建ての建物で、家の前にある広場の階段を下りていくと、広い海岸から海に入ることができる。外から見ればちょっとした別荘に見えるが、イリスが来たときは手入れもされていなかった。家主であるティファニーが病に臥せって、もう何年も訪れていなかったためだ。三ヶ月で誰の力も借りず、ティファニーが過ごしたもとの風景を取り戻せたことを、イリスは誇りに思っていた。庭は整え、窓は磨き、海岸の白い砂には、汚れ一つ見当たらない……。

 そう思ったとき、嫌な人影を見た気がして、イリスは眉をひそめた。海岸にゆっくり近付いていくと、木々の向こう、白い砂の上に、二人の男の姿がある。目に留まったのは彼らが口元に運んでいる煙草の火で、二人は吸い殻を海岸に埋めるように足でこすりつけていた。イリスは階段を下りていく。
「何をしているの、あなたたち」
 顔を上げた二人組――どちらもよく似た姿形をして、金髪を撫で付け、サングラスをかけていた――は、イリスの姿を認めると、嫌らしい笑みを浮かべて言った。
「よお、イリス。出迎えてくれて嬉しいよ」
「いいえ、ルイ。私はあなたを出迎えていません。マイク、吸い殻を拾って」
「はいはい、従姉どの。でもここは俺らのビーチでもあるんだぜ?」兄ルイより堅太りのがっちりした体系のマイクは、地面にかがみ込むそぶりすら見せず、上からイリスを見下ろして言う。
「いいえ、私のビーチです」とイリスはきっぱり言い切った。「ティファニーが私に残してくれたのだから。名義人も私よ」
「元々、ここはじいさんのものだったんだぜ? それを、あんたの母親アイヴィーが死んだからティファニー伯母が受け継いだだけで、元々カナリー一族のものだ」
「でも今は私のものです」このやり取りを何度繰り返しただろう。ティファニーの愛した場所で、こんな話はしたくない。早々に切り上げるつもりで、イリスは率直に聞いた。
「今日は何の用なの? 言っておくけれど、私が分けてあげられる遺産はもうないわ」
 途端、従兄弟たちの表情に粘つきが増した。「イリス」と呼ぶ声がねっとりする。腕に鳥肌が立つのを気付かれたくなくて、一方の手で腕を握りしめて睨みつけた。
「お前一人じゃあ、あの大金は身に余ると思うぜ?」
「ティファニーはあなたたちにも十分な遺産を残してくれたはずです。いい加減、私にたかるのはお止めなさい」
「十数億だろ、イリス? 有効活用しなきゃ」ルイが言った。
 イリスは腕を組んだ。「あなたたちにあげることが有効活用だと言うなら、どぶに捨てた方が資源になってくれるわ」
 かっと頬を硬直させたマイクが腕を振り上げた。気の早い従弟はすぐ暴力に訴える。彼の拳は彼女の頬に入り、その勢いで身体を折ったイリスの口の中に鉄の苦みが広がった。再び振り下ろされそうになった拳は、ルイによって止められる。しかしルイはイリスを気遣うのではなく、冷徹に、にこやかに言い放った。
「素直じゃないから痛い目を見るんだよ、イリス。また来るよ。このままじゃ、落ち着いて話もできそうにないしな」
「何度来ても私の返事は変わらないわ」口を開けば傷で顔が引きつったが、言い切った。
「ティファニーの実の子どもでもないくせに、遺産泥棒め!」
「マイク。……じゃあ、イリス。俺たちはマクレガーさんのところにでもいるから、いつでも声をかけてくれ」
 ルイは叫んだマイクを一睨みして黙らせると、嫌になるほど優しく笑いかけて海岸を去っていった。彼らが拾わなかった吸い殻を拾い上げて家に戻ろうとすると、様子をうかがっていたらしいノイが、救急箱とビニールに包んだ氷を持って走ってくる。イリスは、見られていたことに苦悩を覚えた。子どもに見せたいものではない。この子が彼らの前に飛び出さないでいてくれてよかったけれど。
「ありがとう」
 不安そうに見上げてくるノイから氷を受け取り、頬に当てた。突き刺すような冷たさが今は心地いい。感じる凍みや口の傷の痛みは、イリスを落ち着かせる。こだまする『実の子どもでもない』『遺産泥棒』という声は、彼女自身も認めている事実であったため、心のどこにぶつかっても、深く息を吸うことで押し込めた。

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