Chapter 3
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 イリス・カナリーのある一日の生活は、フラムからしてみれば、リゾート地にいる外国人とは思えない、信じられないほど静かなものだった。
 彼女は朝九時に起きて、同居人の少年が揃えた朝食を食べ、日差しが強くならないうちに庭の仕事をし、昼食を作って食べ、家の掃除を暑気が和らぐまで行ってから、夕方頃に海岸の掃除に出る。日が沈む頃に家に戻ってきて、また夕食を作って食べ、夜九時に少年に声をかけて部屋に向かわせ、フラムにその日の仕事の終了を告げた。彼女が眠る時間は聞かなかったが、おそらくそれから一時間も起きていないだろう。隠居した老人のような生活だ。他国のトゥイへ永住してきた元気のよい裕福な年寄りたちはフラムの普段の付き合いの範疇だったが、イリスはそれにもまして外の世界に人がいようといまいとおかまいなしの平坦さだった。一体何を求めて生きているのだろうと見ていると、それは、彼女のふとした瞬間の瞳に表れた。

 掃除を終えてベランダに出て、本を読んでいるとき、彼女は何かに呼ばれたように、海の方を見て耳を澄ませているときがあった。どこか遠い、深く届かない場所の、精霊の声を聞いているように、青い瞳はほんの少しの悲しみと、悲しみが呼ぶ凪いだ感情が霧のように立ちこめているのだった。
 またある時は、夕方の庭先で、花に水をやりながらわずかに笑む唇に憂いと行き場のない孤独が感じられた。
 ノイを見るとその表情は消えた。彼女は同居人を心から愛していて、愛があればその影は拭われる。
 フラムは確信を深めた。イリスは、愛してくれる人間を求めているのだと。

 今日の午後のイリスは、庭の緑にホースで水を撒いていた。草木の作る影は暑さを和らがせるものの、彼女の髪をまとめあげた首筋がうっすら汗で光っており、草いきれと彼女から漂うものにフラムは思わず目を吸い寄せられた。誰も見る者はいないと、毎日似たようなワンピースに身を包んでいるが、肩甲骨の上部分が覗いており、それを辿ってみたい気持ちにさせられるほど、彼女は美しい骨格をしている。
「切った枝、持っていってくれた?」イリスが突然振り向いた。驚いた顔を見せてしまったのか、「あなたが立っていると、影ができて涼しいの」と笑って解答を口にする。
「あなたが来てくれて助かったわ。でも、時間が余ってしょうがないわね」
「お出かけにはならないのですか?」ずっと聞いてみたかったことを尋ねる。返ってきたのは苦笑だった。
「明るいのが好きじゃないの……外出先で鏡を見たときぞっとしたことはない? 家の中で支度をしたときは完璧だと思ったのに、外に出るとなんて醜い! っていう」
 夜遊びはしない、それも嫌いなタイプか。それは十分に彼を満足させた。色気を振りまくようなタイプは飽き飽きしている。
「おかしいですね。私の目からすれば、あなたはとても魅力的です。その金を梳いたような髪も、内側から輝くような肌も、優しい宝石の青い目も」
 彼女は、あの顔をした。「そう言ってくれるのはあなただけね」そうして言葉を遮断するようにして、背を向けてホースの先を振っている。

「イリス」
「困るから止めてほしいの、そういうこと」低く彼女は言った。「誰にも恋なんてしたくないから」
 フラムが何か言う前に、彼女はぱっと振り向く。浮かぶのは笑顔、しかしお愛想だ。
「私は、普通の人が普通だと思うことが、あまり得意ではないの。一人は寂しいからいけないなんて思ったことはないし、お金があっても嬉しいものではないと思うし……口説き文句が自分に必要だと、思ったことはないわ」
「あなたは綺麗です、イリス」
「必要ないわ、フラム」事実だけを口にした彼に、イリスは緩く首を振った。「家の仕事は好きよ。家を綺麗に掃き、拭き清めて、花を飾って、食器を揃えて。家は私のお城で、すべて私にとって完璧にしてあるの。誰にも邪魔されたくないのよ」
「そうして、心を殺していくつもりなのですか?」
 イリスは手を止め、ゆっくりと微笑を浮かべた。
「振り回されるのは、もう疲れたわ」

 水たまりを作りつつあるホースの元栓をひねり、片付けを始める彼女の手からそれらを奪う。その弾みでホースの先から水のしずくが足下に落ち、一歩退いたイリスを、すぐにフラムは引き寄せていた。彼女は彼を見た。彼もまた彼女を見た。ぬるい水と緑の青さが香る。視線が絡まる。
 イリス・カナリーが、心許せる誰かを求めているということは、フラムにとって周知の事実だった。そうでなければ、異国人の子どもや、仕事をさせてほしいと転がり込んできた男を迎え入れるだろうか。彼女は寂しいのだ。自分でそれと知らないだけで。
 だから唇を寄せた。はっと息を呑んだのは、静止の声をあげようとしたのだろう。聞けば止めてしまう分別が彼にはあった。だからそれよりも早く、深く唇をむさぼった。夜の唇はアルコールの味がしたが、昼のそれは熱い水とレモンの味がした。冷たい水を飲み干すように、彼はしつこくそれを求めた。しかし、乾きはひどくなる一方だった。芯に熱い火がともる。

 しかしそれ以上燃えてしまう前に、フラムはなけなしの理性を働かせた。まだ昼日中で、しかも家にはノイがいた。お互いに微妙な空気が漂えば、彼はそれを簡単に察してしまうだろう。最初に考えなかったわけではなかったが、イリスとのキスはそれを一度横に置いておくくらいの価値があった。

 離れた彼女の瞳は驚きと熱に光っている。彼女にとっても、この口づけは心を揺らすものだったのだ。しかし、彼女はぐっと眉を寄せて、乱暴に唇を手の甲で拭った。ありありと批難の目を向けて。
「傷つくことが怖い?」自然と責める口調になる。「そんな初歩的なことを恐れていては、大いなる喜びは手に入りません。ゆっくりと死んでいくのと同じです」心を癒そうと笑顔を浮かべることは容易かったが、今、彼の頭を支配しているのは、彼女に寄り添うのではなく彼女に殻を破らせるのはどうしたらいいだろうかということだったからだ。
「死にたいのよ」イリスは呪文を呟くようにさっと言い放つと、何かに気付いて向こうを見た。草むらの影で慌てて飛び上がったのは白人の女性だった。

「マクレガー夫人」
「まあ、イリス、こんにちは。今日も暑いわねえ」
 忌々しそうな口調で名を呼んだイリスは何か言いたげだったが、「そうですね」と言うだけにしたようだ。マクレガー夫人の好奇の目は、もうこちらに向けられており、イリスは一つ息を吐くと、彼を紹介した。
「私の友人で、フラムと言います」
「ごきげんよう、マクレガー夫人」にっこり笑って近付き、手を差し出す。
「ごきげんよう、フラム。どうぞリンダと呼んでちょうだい。イリスとお隣さんだもの。でもあなた、どこかで見たことがある気がするんだけれど……?」
「どこにでもあるような平凡な顔だからでしょう。もっと分かりやすい、例えば瞳が美しいなどあればいいのですが。あなたのように」
「あら。お上手ね」まんざらでもなさそうに夫人は言い、イリスに向かって首を伸ばした。
「イリス。何か困ったことはない? あなた一人だもの。男の子一人じゃ不安でしょう」
 イリスはどこか刺々しい笑い方で答える。
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫ですわ。ノイはいい子ですもの」
「お優しくていらっしゃるのですね、リンダ」
「そんなことないわ。困っている人を助けるのは当たり前よ」
「その心を嬉しく思います」フラムは微笑む。
「ですが心配いりません。そのために私がいますから」
「あら、そう? でも何かあったら言ってちょうだいね。それじゃまた……」
 忙しなくマクレガー夫人は踵を返した。フラムは肩に入っていた力を抜いた。これから噂話に興じるつもりであろう背中を見送り、イリスに尋ねる。
「彼女はどういう方なんです?」
「マクレガー氏はユースアで会社を営んでいた方で、引退してこちらに。夫人はこのリゾートの隠居者をまとめる役をしていらっしゃるみたい。私は参加したことはないんだけれど。社交界ともつながりがおありだそうよ」
 そこでようやく思い当たった。マクレガー家といえばユースア人の資産家で、夫人の派手好みは有名だった。投資という名目のお金のばらまきが好きなのだ。
 なるほど、この顔に気付いた原因はテレビか新聞かと思ったが、『その場にいたのか』。
 イリスは家の中に声を放った。
「ノイ、夕飯の買い物に行きましょう!」
 家の中を駆け回る少年の足音がする。緑の影から影へ足を踏み出すイリスは、まるで自分を励ますように腰を当てて深く息を吐いた。後ろから見ていれば、虚勢を張っているのは明らかだ。

「あなたはどうする? 留守番をしてくれてもいいけれど」できればその方が心穏やかだ、という口調だったので、いささかむっとしながらフラムは言った。
「お供します、レディ」言葉で距離を作る。これで満足だろうかと彼女を見れば、イリスの瞳には、何故か辛いものを堪えるような色が浮かんでいた。距離が欲しいと訴えたかと思えば、彼女は言葉にならないもので寂しさを叫んでいる。どちらが本当の心の声か、疑いようもなかった。あのキスを思い出せば。

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