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 どうしてキスに応じてしまったのだろう、とイリスは考えた。
 青い影が彼の上に落ちかかり、熱い風と潮のにおいがしていた。潮の気でやられてしまうので、庭の緑は自然に強いものばかりが植わっており、彼の立ち姿のように黒く、濃く、しなやかだった。彼が庭先にいるのは不思議と絵のように落ち着いてイリスの目に映る。いささか庭が狭い気もしたけれど。彼は、広大な緑の地をおおらかに歩んでいくのが似合いそうだ。
 そんな風に彼を盗み見ていたことを、フラムは気付いていたのだろうか。頬が赤らむ。今時の小学生でもそんな内気な子は少ないだろうに。

 力強かった彼の感触を思い出し、唇を噛み締めた。喉や胸が痛くなるくらい、怖いくらい圧倒的なキスだった。イリスの心の中の鍵のかけた箱を押し包み、その熱さで内側からこじ開けさせるような破壊的なところもあった……。全身が包み込まれたような気がして、それに身を委ねてしまうところだったと、イリスは危機感を抱いた。

 やはり彼を雇うのは早まった判断だったのかもしれない。養母とは対照的で、地味で内気、慎重なイリスにしては、フラムを家に入れたことは、めずらしく思い切った判断だった。それはそれだけ従兄弟たちの存在が疎ましかったこともあるし、彼の存在であの強欲な二人がすっかり言葉をなくしていたところを見てしまったせいで、フラムに頼もしさを感じ、寄りかかろうとしているのだろう。それは自分の立ち方として望むものではない。守られる子どもでもありたくないし、寄りかからなければ立てない女でもいたくなかった。堂々と親戚たちに相対して、はっきりと物を言いたかったのだが……。

 隣を歩くフラムに目を向けそうになり、意思の力で堪える。彼は見ていて飽きない。じっと座っているときでさえ、大きな獣がまどろんでいるような優雅さがあった。目を開くと理知的で美しい黒真珠の瞳がイリスを見る。その瞳が愛おしい自覚はある。まるで、豊かな深みに包まれているような思いがし、安堵と絶対の安心を、見出せる気がしたから。


 別荘から少し離れた町中には、観光客を相手にする通りのほか、地元の人間しか知らないような、込み入った地区があった。外国人が足を踏み入れば、黒の中の白のようにくっきりと浮き上がってしまうような市場だ。ノイが朝食を集めてくるのはここからだった。香辛料、炒め物、古い油のにおいが満ち、漂ってくる湯気は少し生臭い。
 イリスはノイに導かれて、香辛料の店に向かった。今自宅には、唐辛子と胡椒、ターメリックのストックがなかった。これがなくては今日の夕食のカレーが作れない。唐辛子はノイのリクエストだ。
 赤いテントの下、濃い色の肌をした女性が立っている。トゥイ人の眼差しは恐れがなかった。まっすぐに、どこか不機嫌そうにイリスを見てくる。早口のようなトゥイ語がノイと店の者との間で飛び交うが、イリスはあまりはっきりと聞き取ることはできないが、安くしてほしい、というようなことを言っているのは分かる。現にお金と交換で手渡された分量は多かったからだ。
「これでいいですか?」ノイが言うのに頷いた。
「ありがとうございます=vイリスが簡単に駆使できる数少ないトゥイ語の一つで彼女に一声掛けると、彼らの表情は無邪気にほころんだ。

「持ちます」とフラムが手を出したのに、一瞬硬直するものの、彼に荷物を預け、今度はココナッツミルクを探して歩く。欲しいものすべてがそろうスーパーは、三人の足では少々遠かったため、ノイが飛び込んた彼の馴染みの店でパックのものを二つ買った。
 去り際、ノイが店主に呼び止められ、彼がそちらに行くと、差し出せと言われた手のひらにたくさんのキャンディーが握らされた。透明な包まれたひとつかみのキャンディーには、店主の朗らかな笑顔がついている。ノイはお礼を言って、手を振った。

 店を出てさっそくそれを口に放り込んだノイは、歌いながら道を行く。壁に手を沿わせて、ぴたぴたと音を鳴らしながら。
「AはアップルパイのA、Bでばくっとさ、Cで切ったさ……」
「林檎の味だったの?」とイリスが笑いながら聞くと、ノイは笑顔で振り返り頷いた。こちらに駆けてきて、イリスとフラムに白い飴を一つずつ譲ってくれる。
 子どものようにイリスもそれを放り込んで口の中で転がすと、砂糖の甘い味が口の中に広がった。ジンジャーが混じっているらしく、香りがいい。
「あれはあなたが教えたのですか?」とフラムが言った。
「あれ? ……ああ、あの歌?」イリスは細い手足を動かして、わずかなステップを踏む少年を見た。あのくらいの年頃の子は、みんな素晴らしいダンサーの素質があるわ。「彼にイグレン語を教えるときに、いくつか歌ったの。それをすっかり覚えてしまったみたい」
「ノイはいい教師を得ましたね。美しく歌う金糸雀に教わったのだから」
 口説いているのか、それとも社交辞令なのか、微妙だったので聞き流すことにする。「それくらいしかしてあげられることはないから」ノイがいた三ヶ月はとても穏やかに過ぎていた。イリスはあの子が好きだ。大切にしてやりたいと思う。しかし、彼女にできることは本当に少なかった。学校にもやれない。
「あなたもとてもイグレン語が上手だけれど、どこで教わったの?」
「昔から聞いていたので覚えてしまいました。仕事にも役に立ちますし、あなたと意思疎通が容易で便利ですね」
「私もトゥイ語をネイティヴにしたいわ。ノイに少し教わっているけれど、私はいい生徒ではないから」
「金糸雀のレッスンは楽しそうですね。私もお手伝いしましょう」

 そう言ってフラムは笑っていたが、ふと前に目をやり急に顔色を変えた。イリスが彼の視線を辿ると、ノイの目の前に白人の二人組が立っているのを見つけ、彼女の顔色も変わった。青く。
 お互いに駆け出し、フラムはノイの肩を引いて後ろに下げ、イリスはそのノイを庇った。唇を引き結んで、長身のルイとマイクと対峙していた少年の目には、彼らに踏みつぶされたキャンディーが映っている。
「大人げないと思わないの、ルイ、マイク」
「そいつがぶつかってきたんだ。俺たちは悪くない」マイクは笑う。「コブ付きでデートか? 遺産泥棒の次は奴隷と男の身請けか、イリス」
「彼らに失礼なことを言うなと言ったでしょう」震えるのは怒りのためだった。「彼は――」
「私は彼女の夫です」
 フラムがイリスの戸惑いが口をつく前に宣言した。「彼女を傷つけるなら容赦はしません」
「底辺労働者に何ができるって言うんだ?」嫌な笑い方、頬をゆがめる笑い方でマイクはフラムに言う。挑発しているのは明らかだった。手を出せば喚き立てるつもりなのだ。
「イリス。いい加減目を覚ますんだ。お前は現地の男にだまされているだけだ。何せお前は」ルイの目がイリスの全身を値踏みする。「若く、美しく、大金持ちの女なんだから」
 服の下まで見透かされそうな目つきに、鳥肌が立つ。昔はティファニーがいた。従兄弟たちが家に来たときは、間違いがないように油断なく目を光らせていた。でも今は。

「では、お望み通りの『証明』をすれば、納得していただけるのですか?」
 激昂も感じられない静かな声に、全員の目がフラムに向いた。
「何がお望みですか。新聞に記事? テレビで記者会見? それとも、国王の前で誓えばいいでしょうか」フラムは微笑む。婉然と。「そのくらいの伝手はあります。さあ、選んでください」
 ぽかんとしたのはユースア人のカナリー一族だけだったようだ。ノイはぎゅっとイリスにしがみつき、励ますように目を輝かせている。
「あの……どういうこと?」
 フラムはにっこりした。「仕事の関係ですよ。そういったものを、快く紹介してくれる方がいるのです」
 そういうことか、と安堵の息を吐いた。何が安堵なのかもよくわからないが、疑問が解けたことは確かだ。しかし本当に彼がそれをしないとは限らないことに思い当たり、慌てて彼を呼んだ。「フラム――」だって、彼はイリスの嘘にキスまでするような人だ。
「いや、そんな……大仰なことじゃない」ルイは顎を引いていった。怯んでいる。フラムから発せられる猛禽や獣を前にした感覚にとらわれているらしい。「誰にもやましくないなら、そう言ってくれればいいんだ。みんなの前で」
「婚約発表をしろと言うのですね、あなた方のお知り合いの前で」
 イリスは目を丸くした。話がだんだん大きくなりつつある。テレビを使われたり、国王の前にひざまずくよりうんと小さいが。
「いい機会だ、一席設けよう。そこで二人が婚約したと言えばいい」自らの言葉に励まされたかのようにルイは腕を組み、人好きのする笑顔を浮かべた。「それで俺たちは満足する」

 どうするの、とイリスはフラムの背中を見た。もう自分では収拾が付けられない。親戚たちと縁が切れるまでの仲を装い続けて、すべてが落ち着いたら別れる、そんなことできない――できるわけがないと気付いて、心臓をつかまれた気持ちになる。退路がない。始められてしまった関係は、結ばれるか別れるかの決着しかないのだ。
 だから始めないようにしてきたのに。

「分かりました」とフラムが応じたとき、顔を覆いそうになった。日程は後日連絡してくださいと言い、イリスとフラムを連れて彼らの脇を通り過ぎる。従兄弟たちの視線を、彼に抱かれた肩に感じ、イリスは身を震わせた。

 道を抜けた先の周囲のざわめきのせいで、漂う沈黙はぎこちなくなった。ここから戻る道を行けば、ますます沈黙は重く強くなるだろう。観念してイリスは口を開いた。
「あなたは私の夫じゃないわ」
「知っています」とフラムの返事は静かだった。凪いだ海のように。「でも、将来そうなる可能性もある」
 イリスは小さく笑った。私にその気がないのに、この人はどうするつもりなのだろう。
「将来なんて、私にはもうないのよ。キャリアを積むわけでもない。結婚する気もない。驚きで目は開きたくない。心臓の音を高めたくもない。ゆっくりと瞳を閉じていく、そのしばらくの間を乱されることなく生きていたいだけ。人生最高の時間は、もうとっくに終わったの」
「死ぬつもりなのですか?」
「人は、いつか死ぬわ」言った言葉は、思いがけず込み上げた。声が詰まり、裏返ったため、ごまかすようにもう一度言った。今度は自分を落ち着かせながら。「そう、いつか死んでしまう。死者は美しい輝きだけを私たちに投げかけて去っていく」
「誰を亡くしたのですか」
 前に視線をやると、先を歩いていたノイが立ち止まり、イリスたちが追いつくのを待っていた。彼は彼女の隣に並ぶと、ワンピースの裾にまとわりつくようにして、つかず離れずの距離をとった。そう、私はこの子にも話していなかったのだ。
「母よ。といっても実母は子どもの頃に亡くなっていて……少し前に亡くなったのは養母なんだけれど。彼女が残してくれた遺産のおかげで、私は穏やかなのか騒がしいのか分からない日々を送っているの」
「その方を愛していたのですね」フラムは言った。ノイがイリスの手を探して握る。「あなたにとって、お養母様は世界のすべてだった」
 二人の異国の人に、声に、手に、イリスはこれまで覗き込めなかった己の悲しみの淵をようやく覗き込めた。それは思いがけず深く、冷たく、つらいものだった。乾ききって、底が見えなかった。けれど、もう泣くことのできる段階は過ぎていた。涙を流すには、イリスはもう疲れてきっていたのだ。

 黙って、砂の道を歩くイリスに、寄り添うまではいかずとも、いつでも支えられるような距離でいたフラムは、やがて少し怒ったような声で言った。
「どうして何も言わないのです」感情が高ぶって、黒真珠の瞳は炎の中で輝くように、強い。
「あなたはすべてを受け止めて、荒れ狂うそれらを自分の胸に秘めて、自分が傷だらけになるのを黙って耐えるだけなのですか?」
 イリスは首を振る。「そんな風に言わないで」
「ええ、言いません」フラムが感情を収める。しかし声にはまだくすぶりがある。「あなたはきっと気付いているでしょうから」
 フラムに対して一瞬燃え上がった感情を、彼女はすぐに消しにかかった。すると、残ったのは倦怠感だけだった。彼の言うことは正論で、一般的に言うならイリスが間違っているだろう。それでも認めてしまえば、イリスはこうして立ってはいられない。だから反論を口にする。弱々しくとも。
「もう疲れたのよ。気を張っても周囲とぶつかって傷つくだけ。だったら譲れないところに線を張って、ぎりぎりまで耐えることを選ぶわ」
 本当は、そう言うことすら、イリスの望むところではない。彼女が望むのは平穏で、感情を高ぶらせたり、誰かに反論したりということは、それを邪魔する行動だったから。
「あなたを守る人は、誰もいなかったのですね」
 言葉が突き刺さる。イリスは息を詰め、吐き出した。何も言えなかった。いたわ、いたけれど、もういない。ティファニーは主の身許へ返ったのだ。もうすっかり大きくなった養い子を一人にして。
「私がそうなってはいけないのでしょうか?」フラムが言い、視線を下に落とした。「私たちが」
 見ればノイがひたむきな目を向けてくる。「レディ、僕がいます。僕たちが」

「私にはあなたを受け止める用意がある」

 イリスは大きく息を吸い込み、微笑んだ。けれど決して温かいだけのものではなく、悲しみをごまかす表情だということは、自分で気付いていた。笑うのは、ノイのためだ。彼の真剣さに報いたい。何も言えなかった、答えられなかったけれど、その思いだけは本物だった。
「あなたは大きくなって、自分が望むものを手に入れてくれればいいのよ、ノイ」
 太陽が沈み、夜がやってくる。地上の別荘地の明かりが点在し、空の星の瞬きは、ユースアの星よりもずっとまばゆかった。藍色と暗色の狭間の海が沈黙に流れ込み、イリスは黙ってノイの手を引いた。
「――歌をうたえない鳥は、鳥ではないわ」
 小鳥を箱に閉じ込めて鍵をかけた。その鍵の行方は知れない。箱の中の鳥が生きているのかも、歌えるのかも分からない。イリスは箱を両手に包んで、目を閉じ耳を塞いでいる。
 これはすべて意味のないこと。
 彼はとても綺麗だわ、と彼女は思った。夕闇の紫紺が、煙のように彼の輪郭をなぞっている。極上のベールのようで、なんて彼に似合うのだろう。美しい愛の男神はこんな姿をしているのかもしれない。それでも彼の今このときは有限で、決して彼女が損なわせてはいけないのだ。
 だから最後に、イリスはフラムに言った。
「だから……私のことなんて、忘れてしまって」

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