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 彼女の部屋の扉を叩いたのは、彼女の養い子だった。書斎に彼を呼びにいき、このままでは夜を徹して本を読み続けるか、本に埋もれて眠ってしまいそうな彼を、スウに本を持ち出す許可をもらって部屋へ追い立ててから、それほど経っていなかった。イリスは割り当てられた部屋で、低いベッドの上に寝そべり、うつらうつらと眠りに入り込んでいる最中だった。
「イリス?」ノイが小さな声で聞いた。「起きてますか?」
「ん……起きてるわ、どうぞ」扉が開く。起き上がり、掛け布団を持っているノイの姿を見て、イリスは首を傾げた。「どうしたの?」
「一緒に寝ていいですか?」
 いったいどうしてしまったのだろうとイリスは目を瞬かせた。そんなことは絶対言うような子じゃなかったのに。しかし断る理由もなかった。むしろ嬉しい。手招きすると、小さな歩幅でイリスのもとへ来た。
「なんだか誰かの声が聞こえる気がして……」
「本を読みすぎたのね」イリスは微笑み、隣に寝そべるノイの髪をかきあげてやる。「言葉で頭がいっぱいで、誰かが文章を読み上げている気がするんでしょう?」
 ノイは答えなかった。イリスの胸に顔をこすりつけた。イリスは黙って腕を伸ばし、彼を抱きしめた。
「おやすみ、ノイ」
「おやすみなさい」

 彼の体温を感じながら、イリスが考えていたのは、いつまでこうしていられるだろうかということだ。ノイはきっとすぐに大きくなる。そうすれば、彼はイリスの側を旅立ってしまうだろう。
 死んでしまうよりは、ずっといい。子どもは親より先に死ぬことはあまりないから、という考えは、彼女の醜い本音の一部だった。しかし、パートナーは違う。年の近ければ近いほど、彼女はまた、大切なものをなくしてしまう可能性が高くなるのだ。それだけは、もう嫌だった。宝石にするようにイリスは決意を作り上げたのだ。もう二度と失わない、だから、始めもしない……。

「イリス」
 胸の中で小さな二つの目が見上げていた。
「まあ、まだ眠っていなかったの?」
「聞きたいことがあって」ノイはもぞもぞと動き、反転して、イリスの顔がよく見えるようにした。
「レディは、フー・ラム様のことを、どう思ってるんですか」
「フラムのこと?」イリスはぎょっとした。「いったいどうしたの、何かあったの?」思い当たる。「フラムやコウイムさんに何か言われたのね」
 イリスたちが『トゥンイラン氏』と呼んでいる人物の父親というトゥンイラン・コウ・イムは、あれきり姿を見ていなかった。彼の素性を説明してくれたのはスウだ。明日には発つと言っていたので、この広い邸のどこかの部屋にはいるのだろう。突然敷地内に入り込んだ人間を快く思わなかったのかもしれない、と考えたが、あの親しげな態度を思うとそうでもないようだった。しかし奇妙なことを言っていた。『魔法』がどうのと。
「イリス、答えてください」ノイは返答を急かした。
「子どもは考えなくてもいいのよ」
「子どもじゃないです。家族です」ノイはぼそぼそと、イリスが目を丸くするようなことを反論した。「家族は、家族の心配をして当然です」
 ああ、とイリスは嘆息した。ああとしか言えなかった。
「ごめんなさい、ノイ」この頭のいい子が、イリスとフラムの微妙な関係に気付かないわけがなかったのだ。
「謝ってほしいんじゃないんです。安心させてほしいんです」
「ごめんね、私にも分からないの」正直に答えた。
「あの方の得体が知れないとか、遺産目当てだとか……そういう疑惑だらけだから分からないんですか?」
 イリスは考えてみた。
「秘密が多いのはおあいこだもの」
 それが駆け引きになる。男女にとっては。
「大人には、知ってしまえば、取り返しがつかないことがあるから。だからあえて聞かないようにしてるの。彼が優しいことはちゃんと分かるから、それだけでいいわ」
 それだけでいい。彼が示してくれるものを見ているだけで、イリスは十分だ。彼からはイリスが人生を歩む上で求めていた気配を感じられていた。自信、家族を作ろうとする勇気、生きることそのものといった力強い力が。私を確かに支え、安堵させてくれるパートナーとして十分すぎるくらいの人ではあるけれど……欲しいとは思わない。私は、寂しいとは感じないから……。
「フー・ラム様もそう思ったから、レディの側にいるんですね」
「え?」
「イリスが優しいことはちゃんと分かるから、それだけでいいんですよね」
 イリスは目を細めた。息を吐きながら「どうかしら」と言った。彼はこれからそれだけでは満足しないだろう。いくら優しくとも、穏やかでも、彼が秘めたものを唇を通して知っている。
「イリスにとって、フー・ラム様はなんですか?」
 イリスこそ聞きたかった。だから聞いた。「何に見える?」
「恋人」
 あまりにも短く率直な表現に笑み崩れてしまった。
「ちがうわ、はずれ。さあ、もうおやすみなさい」
「気になって眠れません」ノイはむくれた。
「大切にしたいとは思うわ。でも、そのために必要な関係というものがあって、でも私はその関係にはなりたくないの」ノイを覗き込んで、頬を突いた。「分かる?」
 きっと分からないだろう。イリスにだって不可解だ。白とも黒ともつかない関係を求めている。

「恋人にも妻にもなりたくないけれど、愛してる」

 ノイが呟いた。どこか彼のうちにあった世界の神秘から、真実の言葉を。
「そういうことなんでしょう?」
 イリスは不意をうたれたように硬直していた。
 言葉が出てこない。真っ黒の瞳の中に、彼女の内にあるすべてを表したものがある。その瞳が笑ったとき、不覚にも涙がこぼれそうになった。彼女は自覚させられる、自分のわがまま、卑劣さや卑怯さ、そして弱さを。
「イリス、怖がらないで」ノイが身体を起こした。寝そべる彼女の頬を包み、天使のように微笑んだ。「あなたは誰かを愛せる人です。だって僕を愛してくれた。そんなあなたが、どうして怯える必要があるんですか」
 彼女の心の箱が震えている。伏せた目は震えた。

 ノックの音が響いたのはその時だった。イリスははっと息をのんだ。誰なのかというのは、直感が告げた。
「フラム?」小さく問いかけた言葉は確認だった。恐れを吐き出し、イリスはノイを見た。ノイはにっこりした。
「部屋に戻ります」掛け布団を持って、イリスが開けられない扉を開けに行く。
 開いたドアの向こうに、背の高い彼の姿がある。「ノイ?」予想外だったのか、気まずそうに彼は黙った。「こんばんは」と礼儀正しく、元気よく言ったノイは、彼に道を譲り、最後にイリスを振り返った。
「たった一言でいいんです」彼は言った。「負けないで」
 そして賢い少年は閉じた扉の向こうで自分の胸を押さえ、呟いた。
「僕ができるのはここまでです=v

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