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 フラムは、ゆったりした白い布をまとい、洗いざらしの髪を後ろに撫で付けただけのラフな格好をしていた。イリスはベッドから離れるとショールを巻き付け、彼の言葉を立ちすくんで待った。首もとを跳ねた髪がくすぐり、気になって仕方がなかった。
「イリス」
 吐息まじりの呼び声に顔を上げると、彼は微笑んでゆっくりと瞬きをした。
「グラキアの神話に出てくる虹の女神ですね、あなたは」
 彼女の名前はその女神から取ってある。彼の言う通りだ。
 ここがグラキアの要素を取り入れた建物だということがおかしかった。寝所の女神を描いた絵画は数多くあれど、再現した者はきっといないだろう。
「じゃああなたはゼピュロスかもしれないのね」
 フラムは頷いた。「ええ。あなたの夫です。私のレディバード(恋人)」
 イリスがさっと顔をこわばらせた瞬間に、彼はゆっくりと近付き、彼女を上から覗き込んだ。触れると思った手は、どこにも触れず、彼女の吐息の輪郭をなぞる。しかし確かに肌に触れている気がして、イリスは吐息を漏らした。切なく眉を寄せ、訴えるようにフラムを見る。しかし、イリス自身、何を言っていいのか分からなかった。フラムの顔に苦悩が浮かぶ。
「そんな風に見ないでください」彼は歯を食いしばった。「……私は目を離すことができないから」
「あなたはいったい誰?」イリスは呟いた。
「あなたのすることは、してくれることは、すべてトゥンイラン氏が命じたことなんでしょう? あなたの意思はどこにあるの」
 フラムの声はこわばっていた。「どういう意味です?」
「あなたの雇い主はトゥンイラン氏でしょう? 氏が私に目を付けたんじゃないの? あなたはだから、私に近付いた……」
「馬鹿な」彼は怒り任せに切り返し、つかの間黙った。「いや、そうなるのか……?=v
「トゥイ語が分かればいいのに」イリスは悔しさで唇を噛んだ。使えない言語、聞き取れない言葉は秘密のにおいを増長させた。そのせいで、彼を遠くに感じてしまう。
「気付かせないで。私は欲深いのよ。あなたのすべてを暴きたくなる」
「イリス」
「近付かないで」
 イリスは半歩引いた。一歩にならなかったのは、自分でも理由が思い当たらなかった。だからフラムが一歩近付いたため、半歩近付くことになった。そして不幸にも思えるくらい、二人は見事にベッドに倒れ込んでしまったのだ。

 跳ねる上半身を、フラムの厚い胸が押し返してくる。お互いに息を詰めた。これは、望んでいたようで望んではいない状態だった。呑んだ息は喉を焼いた。イリスにとって呼吸すらままならないのなら、彼にとっては拷問に近いだろうと思った。
 だから、早く離れて。
 イリスは彼の瞳を見ていられなかった。泣き声になる寸前の声で、彼女は声を詰まらせた。
「あなたを好きになってしまう自分が怖い。あなたを好きになって『思ったのとちがった』と失望するんじゃないかと思うと」
「誰ならいいんです? 自分を振り回す男はだめ、従順な男もだめ、甘やかしてくれる男もだめ。側にいる男もだめだというなら、あなたは一人でいるしかなくなる」
 胸に震えがくるくらい、フラムの声はイリスに響いた。イリスはただ顔を覆って、その下で目を閉じ、首を振っていた。
「そうやって傷つく方を選ぶのが楽なのは分かります。でもそんなことを繰り返しては、いつか何も感じなくなってしまう。どうして感情に振り回されてはいけないんです、苦しみを喜びに変えようとしないんです」

「誰かを失うのは怖いからよ!」

 二人の間にせめぎあっていた感情の炎は、刹那、小さく爆発した。フラムがイリスの手をどけると、その下にあったのは見開いた目に涙の膜を張ったイリスの青の瞳だった。
「私は、自分をなくすくらい母を愛したわ。二人目の母、私の世界を支えてくれた人を。その結果はなんだったと思う? 親戚中に追い回され、誰も信じられなくなった私自身よ。私は、自分に絶望するのはもう嫌よ。だから愛を失うのが怖いの。一人は嫌。一人になって、私はますます自分が嫌いになった、失望も、絶望もしたわ」
 息継ぎは短く、声は泣き声になっていく。
「いっそ死にたいと思ってトゥイに来たわ。でも死ねなかった。ノイが……」イリスは涙声で訴えた。「ノイが、『仕事をください』って言ってきたのよ。拙いイグレン語で。あんな子どもが生きようとしているのに、私は何をやっているんだろうって……」

 もうだめだ。イリスは我に返った。涙をこらえながら、自分の心の形を知った。

 箱に閉じ込めたものは、本当の気持ち。愛へと踏み出すための勇気だった。でも鍵はここにない。解き明かされたことのない心の海に捨ててしまった。
「苦しいの」イリスは呟いた。こんなにも心が苦しい。何故なのかを考えたとき、解答はあっけなく彼女の手のひらに転がり落ちてきた。彼女自身の怯えや恐怖と、彼を手に入れたいという渇望がせめぎ合い、苦しみと痛みを覚えさせているのだ。例えるなら、籠の中の石の卵からは雛が孵った。そしてその雛は、彼女自身も知らない内に空へと飛び出したがって暴れている。
「ノイが言った言葉は私の真実だったわ」すすり泣き、言った。「恋人にも、家族にもなりたくないけれど、私は、あなたを」
 息が詰まって何も言えなくなった。封じ込められたように、その続きがどうしても言えなかった。フラムの目は待っている。それをイリスは辛いと感じた。一言でいいとノイも言った。しかし、彼女は愛の言葉を形作る方法を封じ込めてしまっている。
 息を吐いたフラムは、責めなかった。ただ、言った。
「なりたくないんじゃなくて、なる勇気がないだけでしょう?」
 事実だけを。
「フラム」
「愛しています、イリス。私の鳥」何も言えないイリスに、やはり彼はただ事実だけを口にした。「戯れや打算だなんて思わないでほしい。だからこれは真実と受け取ってください。あなたのずるさも卑怯さもいとおしいのです。あなたの弱さを私は愛しています」
 イリスの答えは首を振ることだけだった。心臓が握りつぶされそうなくらい、彼の言葉は彼女に強く作用した。大声で泣きわめいた後みたいに喘いで、ただただ目を閉じ、唇を噛み締めてくぐもった息を漏らした。
「あなたを守りたい。あなたを愛している。独りのあなたを放っておけないだけではない。あなたを守り、あなたのすべてを自分のものにしたいと望むくらい、私はあなたに恋してしまった」
「もう、止めて。死んでしまいそう」耳を塞ぐ。「お願いだから」
「答えを、イリス」数式を解を求める、厳しい教師のように、彼は言った。「答えを」

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